22
夜の隙間に寂しさが押し寄せる。
家の中はただ広く、冷たいばかりだった。
だから外にいるときのほうがいくらか心が安らいだ。
登和子がいなくなってからはじめて覚えた寂しさは、いつでも遠慮なしにやって来ては、真琴を夢から揺り起こした。
眠りたい。
でも眠れない。
真琴はしばらく前から上手く眠ることが出来なくなっていた。
目が覚めてしまった真夜中に、何をするわけでもない。
ただ誰もが夢を見ているときに、自分は夢を見れないのだと思った。
これからもずっと、こんな気持ちを抱えていくんだろうか。
ベッドを出て、部屋の中を歩いた。
暗闇の中でそっと机の上にあるものを撫でる。
それは、唯一彼らを親だと感じることの出来た気まぐれな贈り物。
だが血のつながりは既に水よりも薄く、もういつ消えてもおかしくない。
明日は高校の入学式。
「友達、出来るかな…」
それは十年も前の夜の記憶だ。
長く続いた口づけを解くと、寂しさに胸が震えた。
もっとしていたくて手を伸ばす。
その気持ちを正しく読み取ってくれた篠原は、また真琴の唇を塞いだ。
滑りこんできた温かな舌が、胸の中に空いた洞を埋めるように、真琴を慰める。口蓋を突かれて快感を引き出された。触れ合った舌先を擦り合わせて甘い唾液を啜った。
「ん、…んっ、…」
息を継ぐために離れる。
それさえも惜しい。
ずっと、ずっとしていたい。
離れたら悲しさが蘇ってくるから。
「や…、も…」
「もっと?」
頷くとまた与えられる。
惜しみなく篠原は真琴を満たしていく。
体中を余すことなく触れられ、大きな手で愛撫され、とろとろと溶かされていく。何も考えられない。岩谷の顔が浮かぶ。思い出しては消えていく。
「あ、あ…」
悲しいはずなのに、その気持ちは別の感情に凌駕されて、見えなくなっていく。
気がつくと、篠原は真琴を見下ろしていた。
とろりと蕩けた視界に、ベッドライトだけをつけた淡い光の景色はぼんやりと白く、烟って見えた。
気遣うように、篠原は涙に濡れ上気した真琴の顔を覗き込んでくる。
言葉を返せない。
緩く首を振り、滲んだ視界に映る篠原の顔に、真琴は手を伸ばした。
「…真琴」
「俺のこと、すき、…て」
篠原が息を詰めた。
「──」
好きだ。
好きだ。
この人が好きだ。
「すき…」
愛おしいと思った。その瞬間、胸の中に長い間溜まっていた悲しみや怒りや悔しさが、溢れ出した愛しさに押し流されていく。
それはほんの少しだけ真琴の心を軽くした。
「…き、篠原さ…」
辛い記憶はなくならない。
いつまでも思い出す。
いつまでもいつまでも悲しくて。
いつまでも、あのころに引き戻される。
まだ自分の中にわだかまる、黒い靄のような気持ち。
なくしたい。
消してしまいたい。
「真琴」
篠原の顔が滲んだ。
「…苦しいの?」
岩谷にもっと感情をぶつけ、罵ればよかっただろうか。
あれから五年、ずっと夢を見てきた。
いつか岩谷と向き合うことが出来たなら、そのときは自分が味わった苦しみを同じように──あるいは何倍にも膨らませた怒りや悔しさを吐き出して、岩谷を汚し、踏みにじり、傷つけてやるのだと。そう、思っていたのに。
実際はそんなものは何の役にも立たず、出来もせず、自分の口から出た言葉は、まるで真逆のものだった。
何ひとつ言えなかった。
目の前に現れた岩谷が高橋の名を聞いて見せたその表情で、真琴は分かってしまった。
ああ、そうか。
そうか、この人はずっと、俺を見ていたんじゃない。
ずっと、ずっと岩谷は高橋だけを見ていたのだ。
真琴が知り合った時点で、ふたりはもう長い付き合いだった。
そこに自分が加わった。
高橋は真琴を当然のように可愛がってくれた。
それを見る岩谷の気持ちはどんなだっただろう。
言えない思いを抱えたまま、それはどれほどの苦しみを岩谷に与えたのだろうか。
気がつかなかった。
感じた違和感に、岩谷の視線の先に、何があったのかを。
どうして──今更。
気がつかなければよかった。
自分さえいなければこんなことにはならなかったのだと、知らなければよかった。
でももう遅い。
なにもかもが遅すぎて。
「真琴…どうした?」
真琴を見下ろす篠原は、目元を情欲に染め、額に汗を滲ませていた。
その汗を指先で拭うと、篠原がかすかに息を詰めた。
「俺のこと…すき…?」
「好きだよ」
じわりと体の奥が熱くなる。
もしもこの胸が愛しいもので溢れたら、自分の中に巣食う黒い塊はなくなるだろうか。
いつか手放すことが出来るだろうか。
そうだといいと思った。
いつか消えて──溶けてすべて流れてしまったら、また岩谷のことを昔のように笑って話せる日が来ればいい。
岩谷が、たとえずっと自分を嫌いでいても、あのころの気持ちまではどうしたって変えることが出来ない。
救われていた。本当に、上辺だけの優しさでも。
救われていたのだ。
「俺がすき?」
篠原はじっと真琴を見つめていた。
「好きだよ…すごく」
頬に落ちてきた口づけに涙が溢れた。
「きみが思うよりずっと、きみが好きだよ」
「…うん」
真琴は篠原の首に両腕を回した。
落ちた涙を追った篠原が、真琴の耳朶をきつく噛んだ。
「真琴、まこと…」
傷つけたくない。
慎重その体を抱き締めた。
宥めるようにあちこちにキスをする。細い背に浮き出た背骨の輪郭を唇で辿った。
抱き締める腕の中で真琴が身もだえる。
大事にしたいと思うのに、出来そうにもない気がした。
涙で濡れた目を覗き込んで、篠原はその瞳の中の悲しみを確かめる。
ゆらゆらと揺れる涙の膜のその奥に、見え隠れしている。
汗にまみれしっとりとした銀色の髪を掻き上げ、篠原は汗の浮いた額に口づけた。
「真琴」
目が合うと、真琴はくしゃっと子供のように顔を歪めた。
篠原は微笑んで目元に唇を当てた。
零れる涙は甘露のように甘い。
もっともっと、甘い声を上げさせて、忘れさせたい。
今この瞬間だけでもいい。
自分のことしか考えられないように。
これまでの悲しいことは忘れられるように。
もっと、もっと。
胸の奥までいっぱいにして、溢れるほどの愛しさを注げば、いつか本当に癒えるときがくるかもしれない。
「好きだ、好きだよ」
そうであればいいと篠原は祈った。
「りょ、じ、…さ…っ」
「…っ」
「い、あ、あ…っ」
力が抜け痙攣する体をきつく、きつく腕の中に篠原は抱き込んだ。
***
真夜中過ぎ、高橋は帰路についていた。
自宅までの道を歩いている。
終電はとうに終わっていた。
疲れる一日だった。
安いからと借りている今のマンションは事務所からは距離がある。そろそろもう少し近いところに引っ越したほうがいいのかもしれない。
めんどくせえな。
考えるだけでうんざりして、ため息をつく。
少し遠回りすることにした。マンションまでの一本道を逸れ、通りの向こうへと続く道を選ぶ。頭の中を空っぽにしたいときはただ歩くに限る。
高橋は空を見上げた。
「──」
今日は月がない。
新月の夜だ。
小さな歩道橋を上がり、高橋は立ち止まった。
歩道橋の真ん中に人影がある。
口元に咥えた煙草の火が、闇の中で赤く小さな点になっている。
高橋はわずかに息をついた。
「なんだおまえ」
人影はゆっくりとこちらを向いた。
「来ると思って」
「よくも来れたな」
「……」
羽織っているコートが風に揺れる。欄干に寄りかかった体は、そこから動こうとはしなかった。
「ちょっと顔見とこうと思ってさ」
吐き出した煙草の煙が風に流れていく。
笑っている気配はしたが、距離があるのでよく見えない。高橋は固い表情を崩さなかった。
「そんな怖い顔するなよ」
下の道路を走り抜けた車のライトで、一瞬お互いの顔が浮かび上がる。
岩谷は相変わらず、薄い笑いを顔に貼りつけていた。
「もう二度とあいつに構うな」
「過保護だねえ」
言われるまでもなく、その自覚は高橋にはあったが、岩谷に指摘される謂れはなかった。そうさせたのは岩谷自身だと言いたい言葉を呑みこんで、高橋はぐしゃっと髪を掻き上げた。
「そんなに真琴が嫌いか」
「ああ」
岩谷は寄りかかったまま上向いて煙草の煙を吐いた。
「あれだけのことをやってまだ足りないのか?」
俯いて、岩谷はふっと笑った。
「ああ、そうだね」
「…そうか」
高橋は言った。
「おまえは可哀想なやつだよ」
3年前、今と同じように、岩谷は突然高橋の前に現れた。それは月の綺麗な夜だった。
ずっと引っ掛かっていたのだ。
なぜ姿を見せたのだろう、と。
高橋はそのことを調べ直していた。
同時期、岩谷は被写体を風景から人へとシフトさせようと試みていた。だが当時彼についていた多くの熱烈なファンがそれを阻んでいた。周りの者も皆一様に難色を示し──なによりも岩谷の対外的なマネジメントをしていた人物がその中心にいたのが大きな障壁となっていた。岩谷の思惑とはまるで反対のほうへと物事が流れていたふしがある。
直前の4つの受賞歴、それはどれも真琴の撮ったものだった。
その後に起きた岩谷の転換は何を意味するのか。
苦しんでいたとしても、それは岩谷自身の身から出た業だ。
自業自得なのだ。
救いを求めてくるのは間違っている。
「あんなことをしなくても…認められる才能はあった」
高橋に姿を見せたあと、岩谷はすぐに日本を離れた。そして戻ってきたときには、既に市井の人々を写した人物写真で評価を得ていた。
それは岩谷の実力なのだ。
誰もが他人のもので夢を見れない。見れたとしても、それはきっと悪夢だろう。
岩谷は高橋のほうを見なかった。
闇の中にある横顔は何の表情もない。
「二度と俺たちの前に姿を見せるな」
咥えていた煙草を抜き取って、岩谷は寄りかかっていた欄干から体を起こした。
指先の小さな赤い火が、蛍のように夜の藍に揺れる。
岩谷は高橋にまっすぐに向き合った。風が吹き、その顔に髪がかかる。前髪で隠れた目元。
唇が何かを言いたそうに開いて閉じた。
「…またね」
岩谷はくるりと背を向けて、歩道橋を下りて行った。
高橋はしばらくそこに立っていた。
鞄の底からくしゃくしゃになった煙草のパッケージを取り出す。禁煙して随分経っていた。いつのものか分からないそれを開くと、一本だけ捩じれた煙草が残っていた。
口の端に咥えて、探し出したライターで火をつける。
「まっず…」
煙草は
久しぶりの煙草の味は、とても言葉では言い表せないほど美味くなかった。
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