21
交差点を渡ろうとしたそのとき、携帯が鳴っているのに気がついた。
篠原はその場に立ち止まり、通行の邪魔にならないように脇によけた。点滅を始めた信号に慌てて横断歩道を渡る人たちを見送る。どうせすぐ変わるのだ。それにまだ時間に余裕があった。
「はい、──篠原」
通知をろくに見ずに篠原は電話に出た。
すっとその顔色が変わる。
意外な相手だった。
その話す内容に篠原は眉を顰める。
目の前の交差点が赤に変わった。
***
「く、くくっ、あははっ」
喉の奥から絞り出すようだった笑いが大声に変わった。
岩谷は腹を抱えてひとしきり笑うと、まだ可笑しさの残る目で、真琴を抱え込んだ篠原を見上げた。
「あー可笑しい、はは、全然気がつかなかったわ」
篠原を見つめる目はどこまでも胡乱だ。
「華麗に登場って? どこの三流芝居だよ、笑わせるね」
「きみがイワヤ…、岩谷尊くん?」
「そうだけど? どーも、シノハラサン」
篠原は腕を緩めて真琴を自分の背に回した。
にやりと岩谷は笑う。
この状況を面白がっているようだった。
「そんな怖い顔するなよ。浅からぬ縁なんだし…俺とあんたの元妻のことはもう知ってるんだろ」
「ああ」
篠原は短く答えた。
「それで? 勝手に割り込んできてさ、何の用? これはあんたには関係ない、俺と真琴の話なんだけど」
片手で顔を拭い、デスクに座ったままで、岩谷はゆっくりと体を起こした。言い返そうと真琴が息を呑むと、篠原が制止するように真琴の前に腕を出した。
「邪魔だから消えてくれない?」
「それは出来ない」
「あー、そう」
岩谷はおどけて肩を竦めた。
「今日、文子から連絡を貰った」
岩谷は顔に貼りつかせていた薄笑いを消した。
「それで?」
「提案は拒否した。彼女には好きなようにしたらいいと言っておいたよ」
「それ本気で言ってんの?」
「ああ」
「へえ…それはまた思い切ったな。随分と支払う代償が大きすぎるんじゃない?」
「それはきみも同じことだ」
まっすぐに岩谷を見る篠原を真琴は見上げた。
提案?
何を断ったのだろう。
篠原の表情はここからではよく分からない。
「…篠原さん」
呼びかけると、篠原が前を向いたまま、真琴の腕をぎゅっと握って離した。
「この部屋の会話は最初から──きみたちがここに入ったときから録音されている。きみに逃げ場はないよ」
***
交差点で受けた電話は篠原が素行調査を依頼した会社からだった。
「…え?」
高橋から至急連絡を取りたいとの旨が調査員を通じて知らされた。
「それはどういうことですか?」
横断歩道を渡り、歩きながら篠原は訊いた。人の波を縫うように進み、高橋調査事務所へと向かう。足は次第に早足になっていた。
少し先に事務所の入っている古いビルが見えてくる。一階の菓子店の明かりが窓ガラスから溢れて、通りを通る人の横顔を照らしていた。
ガラスの嵌まった扉が開き、中から見覚えのある人が出てくる。
互いに目が合って、あ、とその人が呟き、篠原に会釈をした。
篠原も携帯を耳に当てたまま頭を下げる。
『いえ、高橋さんから至急と言われただけで、こちらとしても了承を得てからではないと駄目だと──』
「ではすぐ伝えてください」
『分かりました』
言葉を遮った篠原の了承に何かを感じ取ったのか、調査員はそう言ってすぐに電話を切った。
高橋が自分に連絡を取りたい理由を、篠原はひとつしか思いつかない。
真琴のことだ。
「こんばんはー、篠原さん、ですよね?」
「ええ、こんばんは」
建物の一階の階段脇にしゃがみ込んでいた女性──たしか菓子店の店主で、渡瀬と言う名前だった──が携帯を下ろした篠原を見上げてにこりと笑った。
「高橋さんと待ち合わせですか」
そういえば最初にこの人に会ったとき、高橋の友人ということにしたのだと、篠原は思い出した。
「ああ、いえ、今日は水戸岡くんと」
え、と渡瀬は目を丸くした。
「真琴くん、今日はお昼頃に帰ってましたよ?」
「え?」
メッセージではそんなことは言っていなかった。
「私ちょうどここで会って…あれ?」
看板のコンセントを差し込んでいた渡瀬が首を傾げた。
「どうしました?」
「あ、これ、落ちてて…、高橋さんとこの鍵だわ」
ほら、と篠原の前に出された手のひらに、赤いキーホルダーのついた小さな鍵が乗っていた。キーホルダーはネームタグのようになっていて、小さな字で「3階・配電盤」と書かれてある。
「えー? なんでこんなとこに?」
渡瀬が呟いたとき、篠原の携帯が鳴り出した。失礼、と断って篠原は電話に出た。
表示されていたのは知らない番号だった。高橋か。
「はい、篠原」
『篠原さん? 高橋だけど、今どこ?』
出るなり篠原の言葉を待たず、早口で高橋が言った。
「? そちらの事務所の下です」
『事務所?』
「ここで待ち合わせなので」
高橋の声は完全に素になっていた。篠原は嫌な予感がした。
「何かあったんですか」
『真琴があいつといる』
「──」
あいつ。
篠原はすぐにそれが誰を意味するのか分かった。
『多分、事務所に…、今ふたりきりだ』
篠原は事務所を見上げた。窓は暗く、明かりはない。
あの中にふたりきりで?
「どうしてそうだと?」
『事務所内の状況は、今こちらでモニター出来るんだけど』
「モニター?」
『録画と録音、真琴がセキュリティを外さずに中に入ったんでね、そう言う仕様なんだ。ただし解錠時の5秒間だけはリアルタイムの映像だけど、そのあとはタイムラグがある』
入った瞬間の映像だけを高橋は確認している、ということか。
タイムラグ。
「どれくらい」
『7分』
7分の誤差。
篠原の心臓が嫌な感じで鳴り始める。
7分間。
それだけあれば、何が出来る?
なんでも。
なんだってあり得るのだ。
「僕が行く」
高橋は一瞬沈黙した。
『いや、駄目だ、篠原さんは』
「そんなことを言っている場合じゃないだろう」
『──そうだな、悪い』
高橋は声を落とした。
『どうしようもないやつだけど、あいつは…』
事務所の窓を見上げる。
その窓の奥のほうに、先程まではなかった小さな明かりが灯っているのが見えた。
***
岩谷の笑いが消えた。
一瞬人形のような虚ろな顔になり、そしてまた笑った。
「…へえ、やってくれたな真琴」
「尊先輩」
篠原の後ろから出て、真琴は言った。
「もう、こんなことするのやめよう。俺は」
「うるさい」
鋭い声で、岩谷は真琴の言葉を遮った。薄く笑う口元、俯いた顔は半分以上前髪の影になって、その表情はよく分からない。
「うるさいよおまえ!」
岩谷の大きな手が高橋のデスクの上のものを薙ぎ払った。
パソコンのモニターが倒れ、キーボードが落ちる。激しい音を立てて置いていたものすべてがそこら中に飛び散った。
ペン立てごと落ちたボールペンが転がって、篠原の靴先に当たり、止まった。
篠原はそれを拾い上げた。
「高橋さんももうすぐここに来るそうだ」
「…へえ」
ぴく、と岩谷の指先が震えるのを真琴は見逃さなかった。
「あの人、来るんだな」
呟いた声は小さかった。
頼りないほどに。
まるでこれから叱られるのが分かっていて、それを待つ子供のように。
──あ、と真琴は思った。
ああ、そうか。
この人は──この人は、ずっと。
ずっと…
「……」
けれどそれをここで口にすることはいいことのようには思えなかった。
「俺はおまえが嫌いだ」
岩谷は両手で顔を覆った。
「俺にないものばかり持つおまえが嫌いだよ。心の底からな。どんなに憎んでも憎み足りないよ」
「今も?」
気がつけば、真琴はそう聞いてしまっていた。岩谷は鋭い視線を真琴に向けた。
「今もだ」
「俺は──」
真琴は言った。
「あのころ、尊先輩がいてくれて救われてた」
あのころ。
楽しかった時間。声を上げて笑い合えていた、遠い昔。誰もいない家の中は寂しくて、だからいつも一緒にいるのが当たり前の幸せだと思っていた。
たとえそれが、そう思っていたのが自分だけだったとしても。
「こんなことになったけど、嬉しかったことは本当だから」
顔を上げ、岩谷はまっすぐに真琴を見つめた。
その視線を正面から真琴は受けた。
先ほどまでの激しさはその目の奥に、熾火のように小さく灯っている。
「今後彼に近づくようなことがあれば、すべてを公に晒すそうだ」
成り行きを見守っていた篠原が静かに告げた。
「俺の何もかもか?」
「ああ、何もかもだ。ここでの会話、録画した画像、きみが水戸岡くんにしたこと」
「真琴のことは証拠なんかないだろ」
鼻であしらう岩谷に、篠原はわずかに目を伏せた。
「あるそうだ」
岩谷はじっと篠原を見た。
「きみが思いもしないところにあると、それが高橋さんからの伝言だ」
「…なるほどね」
「そうなりたくはないだろう」
「まあな」
岩谷は床に散らばったものを躊躇なく踏みつけて、篠原の横を通り過ぎた。事務所の玄関に向かうその背を篠原が振り返る。
「おめでとう、子供のこと」
岩谷は止まらなかった。
冷たい色をした金属のノブに手をかける。
「きみはもっと、今手の中にあるものを大事にしたほうがいい」
ドアを開ける。キイ、と軋んだ音がして、岩谷が振り返った。
薄く笑う。
「ほんとに俺の子ならね」
そう言葉だけを残して、ばたんとドアが閉まった。
静寂が訪れる。
ふと見れば、登和子の写真がデスクの端にあった。
真琴はそれを手に取った。
やがてバタバタと階段を駆け上がってくる足音と共に勢いよくドアが開き、息せき切った高橋が駆け込んできた。
頬に触れる指先が冷たくて気持ちがいい。
「痛む?」
「平気だよ」
夜道を篠原とふたりで歩いている。
到着した高橋に、後のことは全部自分がやると言って、かたづけもそこそこに事務所を追い出されたのだった。
階段を下りた先で店を閉めた渡瀬と鉢合わせた。
『あ、よかった! これ持ってくとこだったの。さっき高橋さんが上がってくの見えたから』
事務所にいると思って、と笑う渡瀬は赤いキーホルダーのついた鍵を真琴に見せた。鍵を受け取って、真琴は渡瀬に言った。
『ケーキ余ってる? 俺買うから後で持って行ってもらえるかな』
『うん、もちろん』
渡瀬はにっこりと嬉しそうに笑い、お代はいいからと快く引き受けてくれた。
篠原とふたりで不動産屋に鍵を預けに行き、それから篠原の家に向かっている。
「きみはなんだかいつも殴られてるな」
「そうかな?」
心配そうに言う篠原に、真琴は笑ってみせた。
「案外丈夫だから平気だよ?」
そう言って見上げると、困ったような目をした篠原と目が合う。
「ほんとに平気」
と真琴は念押しのように笑った。
途中のスーパーに立ち寄るのを忘れたと気づいたのは、篠原の家の玄関に入った瞬間だった。
「あ、ご飯──どうし」
靴を脱ぎかけて呟いた真琴の体を、背後からきつく篠原が抱き締めた。
息が止まる。
うなじに篠原が顔を埋め、その髪が──
「真琴」
肌にかかる吐息にぞくっと背筋が震えた。
「──待っ…」
大きな手で顎を掴まれ、振り向かされた。
目が合うと、それだけで自分が泣きそうになっていると気づかされる。
目の前が滲んでいく。
「我慢しなくていいから」
涙が零れ落ちた。
そのたった一言で真琴の顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「なんで…っ」
分かってしまうのだろう。
嗚咽を呑み込むように、深く、篠原が口づけてきた。
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