20


『おい、こら真琴っ』

 高橋に叱られている──あれは、いつだったか。

『おまえねえ、あれだけセキュリティ解除してから鍵開けろって言っただろーがっ』

 手にした携帯を振りながら高橋が声を上げた。

『えー…だってさあ、忘れるんだよ、もう仕方なくない?』

『仕方なくねえっ』

 反省もせずに口を尖らせると、高橋に手元にあった書類で頭を叩かれた。

『あのなあ、ここは調査会社なの! 小さくても他人の秘密を取り扱う場所なの! 何かあったら大変だろうが、取り返しがつかねえんだぞ!』

『う…』

 さすがにそこまで言われて、調子に乗っていたと真琴はしゅんとなり、目を伏せた。

『…ごめんなさい』

 人に怒鳴られるのは苦手だ。

 どんなに親しい人でも、それが年上の男なら尚更だった。

 幼いころから、そう言った存在に慣れることが出来ない。一番身近にいるべきはずの父親と呼べる存在はいつも遠く、その場所は真琴にとって長く不在でしかない。だから免疫がないのだと、真琴の無意識下の苦手意識に最初に気づいたのは高橋だった。

 高橋はふっと声を落としていった。

『分かったんなら、もうちょっと真面目にしろよ』

『うん、…あのさ』

『ん?』

 ちらりと顔を上げると、高橋はもう怒ってはいなかった。いつもの飄々とした表情──切り替えが早く、負の感情が長続きしない高橋に真琴はほっとする。

『解除しなかったらどうなるの?』

『ん? ああ、言ってなかったっけか』

 高橋は目を丸くして言った。

『解除しないで入ったらな…』


***


「…ふうん」

 事務所の中は互いの顔が近い距離ならば分かるほどの闇だった。

 下りきっていないブラインドの隙間から、外灯の明かりが窓際の床をぼんやりと照らしている。きっと高橋が昼間上げて、そのままにしていたのだろう。

 淡く縁取られた輪郭の高橋のデスク、置かれたデスクライトの傘を岩谷は指ですっと撫でた。

「今でも歩先輩と一緒にいるとかね。あの人も物好きだよな。おまえのどこがそんなにいいんだか」

 逃げようと思えばいつでも逃げられる気がした。

 岩谷の背を見つめながらそんなことを真琴は思う。

 今、踵を返して、ドアを開け、階段を下りて走って行けばいい。篠原との待ち合わせ時間はもうすぐだ。もしかしたらもう下にいるかもしれない。

 きっと逃げられる。

 きっと。

 なぜか岩谷は追っては来ないだろうと、そんな確信があった。

 ゆっくりと岩谷が振り向いて言った。

「逃げたい?」

 見透かしたように目を細める。

 逃げたい?

 逃げて、どうなる?

 今この場から逃げ出して、またあのころのように惨めな気持ちで部屋の中に閉じ籠るのか?

 真琴はじっと岩谷を見つめた。

 そんなのはもうごめんだ。

 今向き合わないと。

 これから先が見えない気がした。

 ゆっくりと首を振ると、岩谷は吐息のような笑いを零した。

「いいね。そうこないと」

「…話って?」

 楽しげにさえ聞こえる声に真琴は見据えたまま言った。

 岩谷の笑顔が消える。

 あっという間に片手で顔を掴まれ、顎を強引に上げられた。

「ちょっと見ない間に随分強くなったんだねえ…おまえ、前はよく俺が黙り込んでじっと見てるとビクついてたのに」

「…っ、いつの話だよ、離せ」

「なあ、知ってたか?」

 息がかかるほど顔を近づけて岩谷は冷たく笑った。

「俺はおまえがずっと嫌いだったんだよ?」

 淡い光の中でその目が濡れたように光っている。

 真琴は目を見開いた。

「俺たちにいつでも纏わりついて、ずっと目障りだった。気づかなかったろ?」

「だったら…そう言えばよかっただろ」

「……」

 時々──感じていた。

 岩谷の視線、その体から発する雰囲気。

 穏やかに笑う。

 けれどどこか違うと思っていた。

 それはいつも決まってふたりきりの時に現れる。

 ほんの一瞬だけ見えては消えていた違和感の正体が、ようやく分かった気がした。

「今でも嫌いだけどな」

「っ…!」

 顎を掴む指が頬に食い込む。

「おまえはさ、いつもへらへら笑って、何不自由ない暮らしをして、大した努力もせずに欲しいものを容易く手に入れて、恵まれているくせにそのことに気づかないで平気で捨てていくんだよ」

 真琴は自分を捉えている岩谷の腕を掴んだ。岩谷が纏っている薄手のコートの、なめらかな感触の生地に爪を立てる。

「俺だって、ちゃんと努力してた…っ」

「へえ、そうか?」

「あんたにそう見えなくても、俺は…俺のやり方で、そうだと思うやり方でやってた…!」

「は、笑える」

 岩谷は蔑んだ目で真琴を見下ろした。

「簡単に手放したくせに」

「ちが──」

「違わないね」

 そのまま岩谷は真琴の顔を両手で掴み上げた。足先が浮き上がる。背中が軋んだ。仰け反った喉が岩谷の前にさらけ出され、その無防備さに真琴は息を呑んだ。

 細い喉に浮く喉仏がこくりと上下に動いた。

「ほんっと…おまえは俺を苛立たせるよ」

「っ!」

 岩谷は真琴を床にたたきつけるように勢いをつけて手を離した。よろけた足がもつれ、真琴はそのまま背中から崩れるように倒れ込んだ。

「ちょろちょろとさ、潰してもいつも出てくるんだもんなあ」

 笑いながら岩谷が言う。

 何のことだと言い返そうとして、息を吸い込んだ真琴はとたんに胸が引き攣るのを感じた。

 楽になった呼吸のせいだ。真琴は激しく咳き込み、背を丸めて蹲った。

「けほっ、か、はあ…ッ」

 冷たい床に額を擦りつけるようにしてやり過ごす。

 岩谷がそばに屈みこんだ。

「これ、見て」

 蹲る真琴の目の前に岩谷が何かを差し出した。

「──」

 真琴は目を上げた。

 滲んだ涙でぼんやりとしていた視界がだんだんはっきりとしてくる。四角い紙だ。

 写真。

 写真だ。

 はっと真琴は目を見開いた。

 暗がりに慣れてきた目に映るその写真は…

「と…」

 登和とわさん、と真琴は呟いた。

「あーやっぱり? ふふ、ほら、おまえの面倒見てくれたおばーちゃん、懐かしいだろ」

 場違いに明るい声で言う岩谷を真琴は見上げた。震える手で岩谷のコートを掴んだ。

「なんで、なんでそれ…! なんであんたが持ってんだよ!」

「おーっと」

 写真に手を伸ばした真琴を躱して岩谷は立ち上がった。数歩下がり、高橋のデスクの端に腰を下ろした。長い足が気だるそうにぶらぶらと揺れる。

「これはおまえが生まれて初めて撮った写真、そうだろ?」

 パチン、と岩谷は手を伸ばしてデスクライトを点け、明かりの中に写真をかざした。

 眩しさに真琴は目を細めた。

 四角い風景の中、見上げるようにして写された構図。

 ふっくらとした頬の女性がはにかんだような、困ったように笑って、こちらを見下ろしている。

 懐かしい。

 幼いころ真琴の傍にずっといてくれた人。

 登和さん、と真琴は呼んでいた。名前は谷上登和子やがみとわこ

 父親が気まぐれにくれたカメラで初めて撮ったのは、彼女だった。今岩谷が持っている現像したその写真は、真琴が彼女に贈ったものだ。

 もう、ずっと昔に。

「ほんと、おまえはどこにでもいて俺をイライラさせる。目に付くんだよ。目に余るの。これさあ、どこにあったと思う?」

「知らねえよ、どこだよ、いいからそれ返せよ! あんた登和さんに何したんだ!」

 はは、と岩谷は屈託なく笑った。

「俺が何すんだよ、会った事もない死人にさ」

 登和子は真琴が高校に上がるころ亡くなっている。

「これはねえ、おまえのカレシの篠原の物の中から出て来たんだよ」

「──…え?」

 篠原?

「文子がさ──篠原のもん売り払うの手伝ってって言うから手伝ってやったんだけど。そのときに。暇だったから車に積んであった本を見てたんだよね。そうしたら、本の間からこれが出て来た」

 ライトの明かりを半身に浴びながら、岩谷はにこりと笑った。

「昔散々見せてもらっててよかったよ。すぐにおまえが撮ったやつだって分かった。驚いたね。妙なところで繋がってて」

 本の間から出て来たという写真。

 真琴の脳裏にふと過る。

『このページ、何か四角いのが貼りついてたのを無理やり剥がしてて。それで土台にしてた下のページを削り取って…』

 書店の店主の言葉に真琴ははっとした。

 今日見つかった篠原の蔵書。

 貼りついていた四角いもの。

 写真。

 あの本だ。今真琴の鞄の中に入っている──

 戸口に放り出されたままのそれに目が向きそうになるのを真琴は堪えた。

 篠原は、あれはもともと祖母のものだと言っていた。けれど、篠原の祖母の名は谷上でも登和子でもない。

 だったらなぜ…

 この写真が篠原の祖母の本の中にあったのだろう。

「なあ真琴、おまえさあ、篠原のことが好きなんだろ。恋愛的な意味で」

 真琴は岩谷を睨みつけた。

「だったらなんだよ」

「へーえ…」

 岩谷は可笑しそうに目を細め、首を傾げた。

「隠しもしないの? 面白いね。そういうのってさあ、一般的な社会人には致命的なんじゃないの?」

「…それは──」

 言葉に詰まる。岩谷はにやりと口の端を上げた。

「だろ、社会ってのはマイノリティーには厳しいところだ。特にああいう堅そうなやつは尚更…」

「何が言いたいんだよ」

「なあ真琴…、俺はねえ、おまえが欲しいんだよ。その才能がさ」

 岩谷の目が濡れたように光っている。

 ぬらりと光を反射するそれに真琴は喘ぐように息をした。

「は…っ、あんた、何言って──」

「俺のゴーストになれよ」

 ひくっと真琴の頬が引き攣った。

 ゴースト?

「ゴーストライター。ま、フォトグラファーだからちょっと違うかもだけど、俺のために写真を撮ってくれよ。勿論世間には俺の名前で出すんだけど。いいよな? まだ未練を断ち切れないおまえにはうってつけだろ」

「なんだよそれ、冗談も大概にしろよ!」

 言っていることが無茶苦茶だ。

「本気だよ」

「ふざけんな、誰が──誰がおまえなんか!」

「去年、おまえ佳文社のフォトコンに応募しただろ」

「──」

「そこの担当者がわざわざ俺に連絡して来たよ。イワヤさんの初期作品を見事に再現していてびっくりしましたってさ。画像まで送られてきて、死ぬほど笑った」

「……」

「おまえさあ、まだ諦めきれないんだろ」

 ぎゅっと真琴は体の横で拳を握りしめた。

「俺はこういうのが欲しいんだよ」

 ひらひらと岩谷は手の中の写真を振った。

「こういうふうに撮りたいんだ。おまえの風景写真みたいな──空気に溶け込むみたいなやつ。いいよなあれ、今でもファンが多くて、またあんな写真が見たいって言われるんだよ。おまえも嬉しいだろ、そんなふうに言われるなんてさ」

 にこにこと笑う岩谷に、真琴は頭の先から血の気が引いていくのを感じた。どうかしている。

「あんた、頭おかしいよ…どうしたんだよ、そんなふうじゃなかっただろ! 俺は尊先輩の写真好きだった、尊先輩が撮るのが」

「はあ? そんなのどうでもいんだよ。誰だっていい──俺の名前で出すってのが重要なんだ」

 分かる? と言った岩谷に真琴は言葉を失った。

「分かんないよ、なに言って…」

 誰でもいい?

 誰でも?

 真琴は岩谷の顔を見つめた。

「──あんた、まさか…」

 他の誰かにも、こんなことを?

「返事は?」

「するわけないだろ」

「ああそう」

 ふうん、と岩谷は小さく鼻を鳴らした。

「じゃあさあ、篠原のことをバラす、って言ったら?」

「──」

 岩谷は無邪気に笑った。

「篠原了嗣は年下のオトコがいるってさ。離婚したのはゲイで、男にしか勃たなくて、結婚した女に愛想つかされたからだって。さあどうなるかなあ、あの人結構会社じゃ地位も高そうだし、名誉もあるんじゃない? ああ、そうだ、篠原の義理の父親が大手企業の社長だって知ってたか? そのうち後も継ぐかもな。名前は──」

「そんなの証拠がなけりゃ誰も信じないよ」

「証拠? あるよ」

 岩谷はコートのポケットから携帯を取り出して頭の横で振った。

「おまえと篠原の写真」

「どうして…なんで」

 ん? と岩谷は楽し気に返した。

「自分たちだけが俺を監視してるとか、本気で思ってたわけじゃないだろ?」

「……」

 目を伏せて、くくっと岩谷は肩を揺らした。

「歩先輩はさあ優しいよね、こんな俺にも情けをかけちゃってさ。肝心なことには踏み込んでこないくせに…あの人」

 なぜだろう。

 なぜか真琴は引っかかるものを感じた。

 歩先輩、と言う岩谷の声は、まるで…

「知られたら一巻の終わりかな? どうなるか見てみようか。今はさ、ネットでなんでも出来ちゃうから」

 手の中の携帯を素早く操作する。

「こんなもんひとつでさ、何でも出来る。社会的に人を殺すことだって容易いよ」

「やめろ!」

 真琴は岩谷に掴みかかった。

「あの人は関係ないだろ…!」

「じゃあ、頷け」

 岩谷は真琴の髪を掴み上げ、ぐっと息がかかるほどに顔を近づけた。

「おまえにはさ、頷く以外選択肢なんてないよ?」

「…っ」

「大好きな写真を皆に見てもらえるんだから…いい話だろ?」

「い…、」

「真琴」

 嫌だ、と叫びたい。

 嫌だ。

 嫌だ。

 どうしてこんなやつのために。

 どうして2度も踏みにじられなければならないのか。

 噛み締めた唇に血の味がした。

 悔しさに涙が滲んだ。

「じゃああの男がどうなってもいいんだな?」

 駄目だ。駄目だ。

 嫌だ。

 篠原を汚されたくない。

 でも──だけど。

 なんで、と真琴は呟いた。

「なんで、…なんでこんなことするんだよ、俺が嫌いならほっといてくれよ、目障りなら近づかなきゃいいだろ!」

「──」

 岩谷の目の色が変わった。

 ぱん、と頬が鳴り、鋭い痛みが走った。

「おまえのせいだ」

 打たれた頬に涙が零れ落ちる。

「全部おまえのせいなんだよ!」

 岩谷の怒鳴り声に真琴の体が竦んだ。

 怖い。

 怖い。

 誰か──

 体が動かない。

 見開いた目に岩谷が大きな手を振り上げたのが見えた。

 殴られる。

 咄嗟に真琴は腕で顔を庇い目を閉じた。

「いい加減にしてもらおうか」

 その体を後ろから誰かが抱き締めた。岩谷から引き剥がされる。

 真琴の背中に当たるその胸が、荒い呼吸を繰り返していた。

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