19
目の前に出されたコーヒーをひと口飲んで、高橋はテーブルの上に置かれた箱の中から、そっと一枚を手に取った。
「でも、不思議ですよね。今まで全然おれは父の仕事に関心がなかったのに、亡くなってから結局、同じ道に進もうとするなんて」
高橋はちらりと顔を上げて、小さく口元で笑みを作った。
「親子なんてそういうものじゃないかな。俺も実家は洋食屋でしたけど、親父が倒れて初めて跡を継いでおけばよかったかな、と思ったもんです」
テーブルを挟んで向かいに座る青年が目を丸くした。
「へえ、意外。高橋さんち、そうだったんですか」
「まあね。そこそこ繁盛してて。だから常連さんには散々とんだ親不孝者だと言われてしまって」
肩を竦めると、青年はくすくすと笑った。その笑顔がかつて親しくしていた彼の父親によく似ていて、面影が重なる。
懐かしい思い出。
彼の父親はとても優しい人だった。
「お父さんはきっと喜んでますよ」
「そうですか?」
青年は、最初に真琴の写真に価値を見出してくれた波曳野出版の乙川の息子だった。
乙川は五年前、若くして胃がんを患い、亡くなっていた。
ちょうど岩谷が真琴の写真を自分のものだと偽り、賞を受賞した、そのころに。
彼は今年二十歳になる。
目の前にいる彼が、あのときの真琴と同じ歳であることに高橋は不思議な気持ちがしていた。
「ええ」
「だといいんですけどね。おれ、反抗期で、ろくに話もしなかったから」
箱から取り出した一枚をじっと眺める高橋に、峻也は言った。
「それで…どうしますか?」
「うん」
高橋は手の中の写真から目を離さずに頷いた。
通常の写真サイズよりも大きな六切に現像された、美しい写真。
波打ち際。
青く褪せた色彩。
いつかの真琴が見ていた景色。
今の峻也よりももっと若かったころの。
「きみが持っていたらいいよ」
「え…」
峻也は驚いたように呟いた。
「でも、水戸岡さんに返さなくても…?」
高橋は微笑んだ。
「必要なら本人に取りに来させます」
「それでいいんですか?」
まさか高橋がそんなふうに言うとは思っていなかったのか、峻也は意外そうに言った。
「水戸岡さんが正しいと証明されなくても?」
峻也は大方の事情は察しがついているようだ。
高橋が言わずとも、気づく者はたしかにいるのだ。
だがその声は小さく、誰かに届く前に消えてしまう。
「真琴はきっと、これからです。必ず前に進めますよ。過去のものは、もう過去にしか居場所がない」
来年の乙川の七回忌にあたり、家族がようやく遺品の整理をはじめたのは、三月程前の、年の始めだった。
乙川が自宅に作っていた仕事部屋の奥、今まで誰も手を付けてこなかった書棚の溢れるほどの本に埋もれるようにしてあった、この大量の写真が入った箱が見つかったのだ。
箱を最初に空けたのは峻也だった。
中にはぎっしりと真琴の撮った写真が収められていた。
それは乙川が関わったもの──雑誌掲載分と写真集に使われたもの、提出したが没になり未発表のもの──すべてだ。
その中には真琴のプロフィール写真も含まれていた。
丁寧に仕舞われた写真の束は不織布で綺麗に包まれ、その上に父親の字で書かれた手紙が置かれてあったという。
『水戸岡くんに』
手紙には自分が死んだあと、いつか真琴に返してほしいと綴られていた。文面の最後に添えられた日付けからして亡くなる2週間前、死期を悟った乙川が遺したものと思われた。
峻也はすぐに連絡を試みたが、手紙に記されていた真琴の連絡先はすでに使用出来なくなっていた。
それから手を尽くして、峻也は手紙にあった水戸岡真琴のことを調べ──それが父親が担当していた雑誌の掲載写真を撮った人物だと突き止めた。そして父親の使っていたパソコンに残された連絡先から真琴を探していき、ようやく当時乙川との連絡の窓口になっていた高橋に行きついた。古いやり取りの記録がパソコンの中に残されていたようだ。
連絡を受けたのは数日前の仕事中、雨の日だった。
はじめは何の冗談かと思った。
高橋は乙川のアドレスから来たメールを精査するため、仕事を急いで終わらせ事務所に戻った。
アドレスは本物で、高橋はすぐに電話をかけ、相手の都合のいい日に会いたいと返事をした。
今日は峻也のほうから昼過ぎに連絡をもらった。ちょうど真琴に電話を入れたあとだった。
そうして高橋は、別件の連絡待ちの合間、彼が通う大学の近くに借りたこのアパートを訪ねている。
やはり自分は休むよりも動いていたほうが性に合っている。
峻也は自分のカップをテーブルに置いた。
「もっと早くに見つけていればよかったです。そうしたら何か少しでも力になれたかも…おれも母さんも、あの部屋に入るの、なんかずっと…後回しにしてたから。あの人ももっと分かりやすくしてくれればよかったのに。すぐに片づけるとでも思ってたのかな」
いや、と高橋は言った。
「見つけて、こうして俺たちを探し出して連絡をくれただけで充分です。本当にありがとう」
このことを高橋は真琴に言うつもりはなかった。
自分の中に留めて置き、必要なときに伝えられたらそれでいい。
今朝話した限りでは、その日が来ることももうないような気がしていた。真琴には前に向かっていくだけの力がある。
それをいつ本人が自覚するかだ。
でも、と峻也は笑った。
「可笑しいですよね。偶然って」
高橋もカップに口をつけ微笑む。それを見て、高橋もふっと笑った。
「ほんとにね」
「いい加減会ってよって、父さんが引き合わせてくれたのかな」
峻也が箱を見つけたのは、奇しくも乙川の命日の日だった。そして今日は月命日になる。
そんな彼の言葉に目を見合わせて、ふたりして苦笑した。
「案外そうかもしれないね」
物事が重なるときはそういうものだ。
思いもかけないことが転がるように──まるで、堰き止められていた水が一気に流れはじめるように動いていく。
今日は篠原の探し物も見つかった。
これですべて揃い、はじめて真琴が単独で行った仕事が無事に終わった。
いい日だ。
高橋はこのあともうひとつやらねばならないことがある。だが、それもきっと上手くいくだろう。
重なり、縺れ合っていたいろんなことが、こうしてひとつずつ解けていく。
***
手の中の鍵がかすかな音を立て、コンクリートの地面に落ちた。
──これは一体何だ?
まるで、昨日の続きのように話をする。
別れ際に途切れてしまった会話をやりなおすように。
顔を半分闇に沈ませたまま、岩谷は優し気に真琴に微笑んでいた。
「なんで電話、使えなくした?」
掴まれた手首にやんわりと力を込められる。
立ち上がろうと腰を浮かした途端、屈みこんできた岩谷が壁に両手をつき、その中に真琴を閉じ込めた。
目の前に岩谷の顔がある。
浅く息を吸い、吐いた。
「でん、わ…?」
「あれから何度かけても、出ないからさ」
「──」
何言ってるんだこいつ。
「なん、っだよ、それ…」
「何って?」
「ふざけんな!」
首を傾げる岩谷の胸を、真琴は思い切り突き飛ばした。
「おっと」
だが、岩谷は少しよろけはしたものの、変わらずに真琴を壁と自分の間に囲っている。押しのけた反動で、とん、と真琴の背が下がり、コンクリートの地面に尻餅をついた。
冷たい汗が背中を伝い落ちる。
なんで、なんでだ。
真琴だって男だ。
岩谷ほどではないが身長もそれなりにある。力も。決して弱いわけではない。なのにどうして岩谷はビクともしない?
「なに? 怯えてんの?」
岩谷は真琴に覆い被さるようにして笑った。
眼鏡のない顔。
面影さえ重ならない姿。
暗く淀んだ水の底に映る月のような目がゆらりと揺れる。
「相変わらず可愛いねえ」
「…ッ、やめろ!」
二の腕を鷲掴みにされ、立ち上がる岩谷に無理やりに引き立てられた。腕を振り、体を突っ張らせてもがくが、岩谷の力は恐ろしいほど強く、掴んだ指は外れるどころかますますきつく食い込んでいく。
「離せ…っ」
真琴が顔を顰めると、岩谷は喉の奥で可笑しそうに笑った。
「ほーら、暴れるから痛いんだよ。ちょっと話がしたいだけなんだからさ、大人しくしようよ」
「い…、ッだ、れが…!」
「すぐ済むって」
「っ、あんたと話すことなんか何も──」
「おまえのカレシ、もうすぐここに来るんだろ?」
「──」
真琴は目を見開いた。
冷たい手で心臓を撫でまわされている気がした。
にっこりと岩谷は口元を形作った。
「知ってるよ、篠原サン、だろ? 俺の今の女の元旦那とか、面白すぎて笑える」
真琴を見下ろすその目は、まるで三日月のようだ。
吊り上がった口の端とは対照的に、目は笑ってはいない。
「相変わらず、年上の男に擦り寄るのが上手いね」
「な──ちが…!」
反論しようと開けた口を手のひらで塞がれ、真琴は頭を壁に押し付けられた。がつ、と鈍い音がし、後頭部に痛みが走る。
くらりとした。
「この上だろ、アユミセンパイの事務所」
真琴の耳元に唇を近づけて岩谷は囁いた。
「中で話そうよ、──ね?」
***
文子からの電話の後早目に家を出た篠原は、真琴を迎えに行く前に人に会っていた。
彼女の言質が取れたらその証拠を渡す手筈になっていたので、携帯からデータを移したUSBを、ファミレスのテーブルの上に置き、すっと相手のほうに滑らせた。
ファミレスは相手の指定だった。
人が多く、目立たない場所。
テーブルの向かいに座った年嵩の男性は、運ばれてきたパフェをスプーンで掬い美味しそうに口に運んでいる。
篠原はUSBから手を離した。
「これ美味しいよ、了嗣君もどうかな」
「怒られますよ」
男性は少しだけ肩を竦めた。
「いいんだよ。あとでちゃんと運動すればいいんだから」
「その約束を果たされたことは?」
「あるよ」
「いつですか」
「うーん」
いつだったかな、と首を傾げた男性に篠原は苦笑した。
「考え込む時点で駄目ですよ」
「厳しいねえ」
「言い訳を考えておくのが得策ですね」
「つまらないなあ」
それきり会話は途切れる。
男性はアイスクリームを食べ、その下のカットされたケーキを気持ちのいい食べっぷりで頬張っていく。ふんだんに盛り付けられたフルーツはみずみずしく、新鮮だ。篠原はコーヒーを飲みながら、男性が綺麗にパフェを平らげてしまうのを見守った。
パフェのグラスが綺麗に空になったころ、篠原もコーヒーを飲み終えた。
テーブルの会計用紙を手に篠原は立ち上がった。窓際の席、窓の外を見ていた男性は、ぽつりと言った。
「残念だよ了嗣君。私はきみが、欲しかったんだ」
「僕も、期待に添えず申し訳なく思っています」
窓から視線を外し、立ち上がっている篠原を男性は見上げた。
「娘のことはすまなかったね」
「いえ──」
僕も、と言いかけた篠原の言葉を男性は手で制した。
「人間、自分に嘘をついて生きるのは辛いものだよ」
「…そうですね」
「だから、また甘い物が食べたくなったら付き合ってくれるかい?」
「ええ勿論」
篠原は苦笑した。
彼とはほんの一時だけ親子だった。母親の再婚相手である義父よりも親子らしかったかもしれない。彼──文子の父は篠原に微笑み返すと、また窓の外に視線を向けた。篠原は頭を下げ、その場を離れた。
奥に控えていた秘書が立ち上がり、篠原に会釈をする。それに篠原は会釈を返し、会計を済ませて店を出た。
外はもう夕暮れになっていた。
待ち合わせまであと40分程ある。
篠原は急ぎそうになる足を宥めながら高橋調査事務所へと歩き出した。
急き立てられるように階段を上がり、事務所の前に真琴は立った。腕を掴んだままの岩谷が真琴の後ろにぴたりと貼りつくようにして立っている。
「早く開けなよ」
「……」
どうしたらいい?
どうしたら…
「まーこと?」
真琴の肩に岩谷の顎が乗り、手元を覗き込んでくる。
「まーこーとー」
見られている。
下手なことは出来そうにない。
「…今開ける」
おどけた岩谷の声に真琴は低く呟いた。
いつものように鍵を取り出して、ドアを開ける。
「先に入れよ」
開いたドアの隙間に背中を押され、真琴は押し込まれた。
岩谷が笑う気配。
暗がりにもつれ込む。
ドアが閉まった。
「……っ」
いつものように──けれど、セキュリティは解除していない。
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