18
落ちる。
携帯が──
「──あ」
指の中から零れたそれを追いかけて真琴はその場にしゃがみ込んだ。
「…っ、──は、っ」
心臓が──
どく、どく、と胸の内側を突き破って、出てきそうだ。
「ハ、あっ…ハ」
あれは。
あの人は。
「…岩谷、なん…」
なんで。
どうして。
高橋と話していたときは落ち着いていられたのに、全身が嵐の中に放り出されたようにがたがたと震えていた。
追いかけなきゃ。
追いかけないと。
行かなきゃ。
足を動かせ。
あいつは、俺を見ていた。
俺を見て笑って──
「っ!」
手にしていた携帯が鳴りはじめ、真琴はびくっと飛び上がった。
着信は高橋からだ。
さっき事務所を出たばかりなのに、なんだろう。
真琴は高橋に悟られないよう深呼吸を繰り返して電話に出た。
「…はい」
『おう真琴』
高橋の声は穏やかだ。
そっと顔を上げ、横断歩道の対岸を見る。
信号は既に赤に変わり、途切れることなく車が目の前を横切っていた。
いない。
まばらに立った信号待ちの人の中に、岩谷の姿は見えない。
真琴は立ち上がり、あたりを見回した。
どこに行った?
見間違いか?
違う、そんなはずは──
『…真琴?』
「え、あ、…っなに?」
なんでもない、落ち着け、落ち着けと真琴は自分に言い聞かせた。
手が小さく震えていた。
落ち着け。
『今篠原さんの探してる本が見つかったって連絡が入ったぞ』
「え…」
それは最後の、十一冊目の本だ。
篠原が探していた。
即座に真琴は言っていた。
「どこ、それ」
高橋は一瞬驚いたように間を空けた。
『今から行く気か?』
「うん、まだ時間あるし」
『そうか、じゃあ場所を送るから』
「ん」
『気をつけていけよ。話は通しとく』
切れた通話のすぐ後にメッセージと共に場所のURLが送られてくる。真琴はそれを確認し、ゆっくりと、顔を上げた。
青に変わった信号、歩き出す人たち、誰もが立ち止まったままではいない。
白い花が目の前を落ちていった。
もう一度辺りを見回し、真琴は横断歩道を走り抜けた。
あれは、岩谷だった。
岩谷だ。
怖いと思ってしまった。
正面から向き合うのがたまらなく怖かった。
そして、まだ、怖い。
怖い。
それでも。
「…っ」
対岸に辿り着き、拳を握りしめる。
流れる人の中で辺りに泳がした視線の中に、岩谷を見つけることは出来なかった。
***
その店は随分と小さな店だった。
雑居ビルの四階、ビルの一階の入り口に小さな看板が出ていなければ、誰もこんなところに書店が入っているだなんて思わないような場所だ。
「いらっしゃいませ」
エレベーターで上がり、降りた目の前にある木製の古い扉を開けると、中は意外にも広く、視界が開けていた。低い書棚。吊り下げられた裸電球。古い本の匂いが店中に漂っている。
真琴はまっすぐにレジカウンターの向こうに座っている店主らしき人に向かった。
「あの、すみません」
周りを見回して、誰も店の中にいないことを確認してから、少し声を落としていった。
「先程連絡をもらった高橋調査事務所の者なんですけど…」
「ああ、ほんとにもう来てくれたんですか」
篠原よりもいくらか年上に見える男性店主がにこりと笑った。
「メールがこっちにも回って来ててよかったですよ。午前中に来た買取りのお客さんのものの中に入ってるのに気がついて」
「買取りですか」
「うん、他の店でまとめ買いしたみたいだね。でも一部欠損してて読めなかったらしくて、タダでもいいから取ってくれって。捨てるにはあんまり装丁が綺麗だから──あ、これですね」
はい、と店主はカウンターの上に綺麗に紙袋に包まれたそれを置き、中身を取り出して真琴に見せた。本は意外にもとても薄く、大きさはノートの半分ほどしかない。
「落款は、これですよね」
本を裏返し、開いた裏表紙の中には椿の模様の印が押されていた。
これだ。
「はい、間違いありません」
「そうですか。よかった」
店主はほっとしたように真琴を見た。
「ああ、そうだ、欠損した箇所も確かめますか?」
「あ、はい」
真琴の返事に、ぱらぱらと店主はページを繰った。
ちょうど真ん中程で指先が止まる。
「前の店ではあまりちゃんとチェックしてなかったのかな、お客さんが手に入れたときにはもうこうなってたらしいですけどね」
「へえ、そういうもんなんですか?」
「あんまり聞かないけど、まあタダでもいいって言われたらそういうふうにぞんざいにする店もあるかも。個人の店だったらしいし」
なんか悲しいよね、と苦笑して、店主は丁寧な仕草でそのページを開き、真琴が見やすいように上下を返してくれた。
「このページ、何か四角いのが貼りついてたのを無理やり剥がしてて。それで土台にしてた下のページを削り取って、判別が出来なくなってます」
「…本当だ」
本はその薄さにも関わらず、驚くほど上質な紙を使っていた。貼り付けていたページは無残に裂け、反転した裏のページが透けて見える。ページの下には本の題名があり、真琴は改めてその題名を読んだ。
『海辺の
個人出版の、近しい人たちに贈られた、いわゆる贈呈本のようだ。篠原は日記のような、詩集のような、と言っていたっけ…。
作者の名前はなぜかどこにも書かれていなかった。そういえば、と思い出す。以前雑貨店で見つけた本にも作者名はなかった気がする。
題名だけの本。余程近しい人にだけ贈られたものだろうか。
海辺の際、か。
「なんか、何でもないんだけど、いいタイトルですよね。これ」
「そうですね」
「装丁もとても凝ってるし、傷がなければよかったんだけど」
「でも、…見つかって良かったです」
真琴が言うと、店主もそうですね、と頷いた。
紙袋にそっと戻されたそれを受け取り、謝礼を支払う。店主は困ったように要らないと言ったが、これも依頼主の意向だからと真琴は譲らずになんとか受け取ってもらった。
「じゃあ失礼します」
礼を言って真琴は書店を後にした。エレベーターで下り、雑居ビルを出ると日が少し傾いていた。
「あ」
そのときになってようやく思いついた。
篠原に連絡を入れるのをすっかり忘れていた。
今日、迎えに来るんだっけ。
通りを歩く人の流れを見つめる。気持ちは随分と落ち着いているのに、ひとりになった途端、溢れ出してきそうな考えを真琴は感じていた。
胸の奥がざわざわとする。
「……──」
いつもより早いし、まだ家ならそのままいてもらおう。
もう少し自分を落ち着かせたい。
今会ったら、また甘えてしまいそうだ。
真琴は通りの端に寄って立ち止まった。携帯を取り出して篠原にそうメッセージを送る。
そうだ、高橋にも上手くいったことを知らせないと。
事務所にまだいるだろうか?
番号を押して、真琴は高橋が出るのを待った。
「──すみません。ちょっと」
高橋は事務所ではない場所でその電話を受けた。目の前にいる人に断りを入れ、席を立ってその部屋を出た。
「真琴?」
真琴からの連絡に耳を傾ける。
高橋の口元に笑みが広がった。
「そうか、よかったな。お疲れさん。おまえそのまま帰れよ」
うん、と真琴が言った。
『今事務所?』
「いや、家」
一瞬迷って高橋は嘘をついた。
『うわ珍しい』
「たまにはいいだろ。俺だってそう若くないって」
『4つしか違わないじゃん』
「その4つが致命的だろ」
真琴が笑う。
外なのか、外気の音や人のざわめきがその後ろにかすかに聞こえていた。
『そういえば渡瀬さんが言ってたけど、下の事務所、改装するって?』
「ああ、そう。昨日な。おまえいなかったから──、あ」
唐突に高橋は声を上げた。
『なに?』
「いや…忘れてた。おまえ今どこだ?」
『××の通り沿い。地下鉄のすぐそばだけど』
どうやら書店を出てそう離れていない場所からかけているようだ。
「あー…、悪いんだけど、おまえ事務所寄れるか?」
『? うん、いいけど?』
なに、と訊く真琴の問いに、片手で顔を覆いながら高橋は答えた。
「明日朝イチで入る改装業者が8時に来るらしくてな、それでウチの表の配電盤いじるから、ケースの鍵を出しとかなきゃいけねえの、それ忘れてたわ」
今朝真琴が来る前にその連絡を受けていた。8時に事務所に出るのも億劫なので、帰りにでも不動産屋に預けておくと言ってしまったのだった。
今の今まですっかり忘れていた。
『いいよ、俺が持って行く』
「悪いな。俺のデスクの一番上の引き出しにあるから。赤いキーホルダーが付いてるやつ」
『赤いのね。分かった』
「助かるよ」
出て来た部屋の扉に目をやる。高橋はまだ帰れそうにない。ほっと息を吐くと真琴は小さな笑い声を上げた。
『帰り道だし、大丈夫だよ』
「ああ」
『じゃあまた明日』
「ん、じゃあな」
『──あ』
切ろうとした瞬間、真琴が何か言いかけた。
「どうした?」
『あ…っ、いや、なんでもないよ──ごめん』
少しだけ慌てたような声。
高橋は眉を顰めた。
「真琴?」
『じゃあね』
そう言って真琴は電話を切った。
通話の切れた携帯を一瞬見つめ、高橋は部屋のドアに向かった。
「すみません。お待たせして」
「いえ。構いませんよ」
と待たせていた相手が人好きのする笑みを浮かべた。
地下鉄に乗り、真琴はドアの傍に立った。
高橋に岩谷のことを言おうか迷い、結局は言えなかった。
小さくため息をつく。
それほどまだ混んではいない車内で携帯を取り出した。篠原に送ったメッセージに返事が来ている。どうやら篠原は既に家を出ているようだ。
それならやっぱり事務所で落ち合おう。
真琴は事務所に寄る用が出来たと手早く返した。
結局いつもの時間に、いつもの場所で。
五つ駅を通り過ぎ、六つ目で降りる。
地上はもう暗い帳が下り始めていた。
空の端は橙色で、藍色の夜と緩く混じり合っている。
通りを歩き、真琴は事務所を目指した。古いビルが見えてくると、一階の菓子店の明かりが窓ガラス越しに歩道を照らしている。通り過ぎざまにちらりと覗くと、店の中にはたくさんの買い物客がレジ待ちをしていた。
忙しそうだ。
新しく来たばかりの電光看板が、温かみのある光を放って店の名前を浮かび上がらせていた。渡瀬が奮発して買ったと言うだけあって、すごく店の雰囲気に合っていた。
かすかに笑みを浮かべて真琴は階段を上がった。
セキュリティを外し、事務所を開け、中に入る。
ぱたん、とドアが閉まった。
薄暗い事務所内を進み、高橋のデスクのライトだけをつける。
「一番上、赤いやつ…」
開けた引き出しには確かに赤いキーホルダーのついた小さな鍵が、ごちゃごちゃと雑多のものに混じって一緒くたにされていた。苦笑して、真琴はそれを取り出し、引き出しを閉めた。
不動産屋は裏の通りを一本入ってすぐのところにある。持って行って引き返せば、ちょうど篠原との待ち合わせの時間になるだろう。
真琴は明かりを消し、鍵を握りしめて事務所を出た。
鍵を掛け、階段を下りる。
下まであと数段というところで、その足がふと止まった。
「……?」
電気が消えている。
さっきまで点いていた菓子店の看板の明かりが消え、階段の脇が闇に沈んでいた。
どうしたんだろう?
真琴が近づいてよく見ると、コードが外れて看板の周りに落ちていた。
「え、なんで…」
いたずら?
「しょうがないな」
真琴はコードを拾い上げ、階段脇の暗がりにあるコンセントに差し込もうとしゃがみ込み、腕を伸ばした。
ぎくっと体中が強張った。
落とした視線の先に靴先が見えている。
誰かいる。
誰か──
「掴まえた」
振り仰いだ瞬間、暗がりから現れた手に手首を掴まれていた。
「久しぶりだね、真琴」
外灯の明かりがぎりぎり届く場所。
暗闇の中に沈むように、岩谷が真琴を見下ろして立っていた。
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