17
真琴が帰った事務所の中で、高橋は自分のデスクにいた。休むと言ったが、これまで続けてきた習慣はなかなか変えられるものではない。ワーカホリック気味の自分には休むという行為そのものが似合わない気がした。
背を預けたリクライニングチェアが軽く軋む。
半分だけ上げられたブラインドから差し込む明るい日差しがデスクの上に落ちている。ハレーションを起こしそうなほどの白い光の中には、青いファイルホルダーが開いた状態で置かれていた。
それは高橋が今まで調べてきた岩谷のすべてが記されたものだ。
高橋はページを捲った。
「……」
主には居住地、居場所だ。付随として調査事務所でなくとも調べられる経歴、仕事上の評判、獲得した賞歴。
その他、たくさんの細かな物事。
ネットから拾ってきた記事。数少ない雑誌のインタビュー。露出の少なさは驚嘆に値する。
真琴に話したことは真実だが、そのすべての8割ほどしか高橋は伝えていなかった。
嘘はついていない。ただ手の中の情報を選り分けて出しただけ。
(ま、…それも言い訳か)
岩谷は顔も出さず性別も年齢も明かしていない。正体不明のフォトグラファーとして世に知れていた。ミステリアスな要素を盛り込んだ自己戦略は概ね成功と言える。イワヤタケルは今では国内を代表する気鋭のアーティストの一員だ。
華々しい賞歴。
登竜門と呼ばれる賞を受賞してからの岩谷の活躍は順調そのものだった。最初の数歩を他人のもので装ったことなど微塵も感じさせない──それもある意味才能なのだろうか。賞歴のうちデビューして間もないころに貰い受けた4つの賞はいずれも真琴の作品だった。
今はがらりと作風を変え、風景写真から人物写真へとシフトしている。人物を被写体とするのは本来の岩谷が得意としていたものだ。はじめは評価が低かったそれもやがて徐々に認められていった。
自分の力を今になって発揮していると言えば聞こえはいいだろうか。
真琴は──本人は隠しているつもりだろうが、一年ほど前、高橋に内緒で新しく撮影した写真を出版社主催のフォトコンクールに応募していた。その結果は「初期のイワヤ作品を彷彿とさせるもの」と評されたようだ。
皮肉なものだ。
「ひでえよなあ」
ふと思うのだ。
なぜ、どうして岩谷はその名を変えなかったのだろうかと。
イワヤタケルと、どうして本名をカタカナに置き換えるだけに留めたのか?
後ろ暗いものを背負っているくせに、陽の光の中を歩いている。
自分が欺いた真琴にはすでに隠す必要など、もはやないからだろうか。
それとも別の意図が?
「イワヤ、タケル」
読みが同じ名前ならば、個人を特定するのも容易いことだ。近しい間にあれば岩谷だと気づく者もいただろう。
それ以外はすべて隠して活動しているくせに、なぜ?
そして、あのとき。
「あいつ、…」
そうだ。
なぜ岩谷は、あのときあそこにいたのか。
それがいつも高橋の中で引っ掛かっていたのだ。
『──』
『やあ、歩先輩』
月が綺麗だった。
その月を背負い振り返って笑っていた姿。
まるで、自分を見せつけるかのように。
見つけてくれと、言わんばかりに?
「…まさかな」
は、と高橋は自分の考えに自嘲した。
ページを捲り、指先で辿っていく。あれは三年前だ。その箇所をじっと眺める。
腑に落ちないことはまだあるが…
高橋は小さく息を吐いた。
今は、昨夜篠原から聞かされたことを調べるほうが先だ。
篠原が元妻を調べさせるために雇った調査会社は、幸いにも高橋の知る会社だった。同じ職種の横のつながりは貴重なものだ。一、二度別の仕事でバッティングし、調査員の何人かと知り合った。篠原からの紹介はもう届いたころだろう。
パソコンの通知が小さく音を立てた。メールだ。
目線はファイルに落としたまま、慣れた手つきで高橋はマウスを動かし、ほとんど無意識に新着メールを開く。
画面の一番上に現れた件名を見て、高橋は受話器を上げた。
休みはすでに取り消されたも同じだった。
***
一階に下りるとちょうど菓子店の扉から出て来た渡瀬と鉢合わせた。
「あら真琴くん、もうお昼食べに行くの?」
お疲れさま、と真琴は軽く手を上げた。
「ううん、今日はもう上がりなんだ」
「えっそうなの? 珍しー、事務所お休みってこと?」
「ん、所長も疲れてるから今日は休むって。あ、事務所にはいるよ」
「そうなんだ。高橋さんいつも忙しそうだもんね、たまにはいいかもね」
「まあね」
ああそういえば、と渡瀬は真琴に続けた。
「二階の空き事務所、借り手見つかったみたいよ」
「え、ほんと?」
それは知らなかった。
「うん。昨日不動産屋さんがうちに来て言ってた。改装に入るって。ちょっと騒がしくなるかもね」
渡瀬はそう言ってにこりと笑った。階段の下、少し影になった部分に寄せておいた看板を引っ張り出している。
「どうすんの、それ」
真琴が指さすと渡瀬はにやっと口の端を持ち上げた。
「ふふーん、やーっと新しいの買ったから、これは今から業者さんが取りに来るんでーす」
「へえー遂に?」
「そーよ、遂によ! もう結構こういうの高いんだもん、次からは安易に中古には手を出さないようにするわ」
「はは、だねえ」
話しているところに軽トラックがやって来て、店の前の歩道に横付けされた。荷台にはブルーシートに包まれた看板らしきものが固定されて載っている。
「うわ、来た!」
「どうもお待たせしました」
運転席から下りてきた業者に渡瀬は挨拶をして壊れてしまった看板を引き渡した。業者はブルーシートを外し荷台から新しい看板を手際よく下ろした。
真新しいプラスチックの本体を保護していた透明なビニールを剥がして、業者は真琴と渡瀬が見ている前でコンセントに電源を差し込み、動作を確認した。
明るい昼の明かりの中では分かりにくいが、綺麗な電球色の光が灯り、店の名前が浮かび上がる。どうですか、と業者が言った。
「うん、いいです」
「ほんと、いいね」
「でしょ?」
もうこれでチカチカしないと、同時に同じことを言ってしまい、ふたりして声を出して笑った。
鳴り止まない電話を一度放置してから、ゆっくりと篠原は手に取った。
「はい」
一拍の間の後、かすかに聞こえてきた吐息には苛立ちの色が濃く滲んでいた。
『…どういうつもりなの? いるならさっさと出てよ』
怒りを押し殺した声に篠原は静かな声で返した。
「悪いが、そんなに暇じゃないんだ」
『…っ、なにそれ、了嗣さん、私にそんなこと言えるの?』
「そうだね」
関係が破綻してから、彼女はいつも篠原よりも優位に立とうとしていた。篠原もそれを許してきた。だがそれは篠原が一方的に彼女を傷つけてしまったという前提があってのことだ。
けれど事情は少し変わってきた。
『まあいいけど。今度はすぐに出て。それで今から××のセントラルラウンジに来て欲しいんだけど。いいでしょ?』
了承を取るような言い方だが、これは実際命令だった。そこそこ大きな会社の社長の次女として生まれ育ってきた彼女は我儘なお嬢様だった。人に断る余地を与えない言い方がそれを物語っている。
「すまないが、きみの要望には応じられない」
『は…、何──』
篠原は小さく息を吐き出した。
「…言い換えようか? きみの要求にはもう応じないと言ったんだ」
『どういうことよ…!』
「隠し事があったのはお互い様じゃないのか?
名前を呼ばれて、篠原の元妻である文子が息を呑んだ。
「もっとも僕は、きみと結婚したことで自分の事をようやく理解したけれど…きみはそうじゃないはずだ。そうだろう?」
『…調べたの、私を』
「きみたちが僕を調べたようにね」
篠原はゆっくりとソファに座り、窓の外を眺めた。
いい天気だ。
夕方、真琴を迎えに行き、夕飯の材料を買ってうちでまた何かを作って食べようかと思っていたが、どこかに食事をしに行くのも悪くない気がした。
『私、子供がいるの』
「……そう」
と篠原は言った。そういえば彼女は子供を欲しがっていたことを思い出す。
篠原には叶えてやれないことだ。
「おめでとう」
『だからお金がいるのよ』
「そうだろうね」
『ねえ、お金持って来てよ』
「慰謝料は充分払ったはずだよ」
『っ、足りるわけないでしょ!? あんなはした金!』
「そうか…残念だな。でももう僕には払う意思はない」
きっぱりと篠原が告げると、文子は言った。
『私を見捨てるの?』
「きみには彼がいるだろう。家族もいる。僕は必要ないはずだ」
『あなたのせいなのに、私を見捨てるって言うの? 全部何もかもあなたのせいじゃないの!』
切羽詰まったような声で文子は声を震わせた。
『なにもかもバラしていいの?』
篠原は目を伏せ、次の言葉を待った。
『あんたがゲイだってこと会社の人間に言うわよ。そうすれば今のところにはいられなくなるでしょうね。キャリアも何もかも失うし──ついでにあんたの父親の会社にもバラしましょうか? なにもかもお終いよ、あんたたち皆──ねえ、そんなことになりたくなかったら』
「文子」
捲し立てる言葉が止まらなくなった文子を篠原が制した。
「なんでもきみの好きにすればいい。僕は構わないから」
『な──』
何かをまだ言おうとした彼女の声が聞こえていた。それを両断するように、篠原は通話を切った。
そして携帯を手の中で操作する。また鳴りはじめた着信は無視した。今の文子との会話がしっかりと録音されていることを確認し、篠原はため息をついた。
***
渡瀬と別れて、駅に向かった真琴は一旦自宅に戻ることにした。
篠原に連絡を取り、そのまま向かってもよかったのだが、なんとなくアパートのほうに足が向いた。思えば2日もアパートには帰っていないのだ。郵便物を確認して、それから篠原に電話を入れても充分時間はある。
昼間の街中を歩くのは久しぶりだ。平日の午前中、暖かくていい天気だ。学校はもう春休みに入ったのか、ちらほらと学生らしき人たちも人混みの中に見える。
ぼんやりと歩きながら、なんとなくカメラを構えたくなった。
街路樹の白い花がちらちらと風の中を舞っている。
歩いている人たちの笑顔が春を呼んでいる気がした。
壊れてしまったカメラの代わりに、真琴は通り沿いの歩道の端で携帯を取り出した。抜けるような青空とビルの間にある霞のような空間にレンズを向ける。
シャッターを切った。
いつも夜空ばかり撮っていたから、なんだか変な感じだ。
皆が夢を見ているような時間に夜空を撮るのも悪くないけれど…
「やっぱいいなあ…」
また、海を撮りに行こうか。
夕暮れに近づく海が真琴は好きだ。
今度は篠原と一緒に。
きっといいものが撮れる。
真琴の口元に笑いが零れた。
もう一度シャッターを切った。
もう一度、今度は通りを渡る人たちが少しだけ入るように、角度を変えて──
「──」
シャッターを切った瞬間、横断歩道の対岸で、誰かが振り返った。
白い花びらが風で舞い散る。
人波にあっても目立つほど背が高い。
淡く染めた髪が陽の光にきらめいていた。
そして真琴をまっすぐに見て、笑っていた。
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