16


 事務所のドアは閉まっていた。

 時刻は9時半、事務所が開くのは10時からだが、いつもは増村が一番に来て鍵を開けておいてくれている時間だ。

 けれど今日は祝日なので増村は休みだった。子供がいる彼女は余程のことがない限りカレンダー通りの出勤だ。

 増村にも謝らないと。

 昨日はふたり分の仕事で大変だったはずだ。

 自分用に貰っていた合鍵で真琴はドアを開けた。

「おはよう、ございます……」

 おそるおそる声を掛けながら入る。

 返事はない。

 事務所はブラインドが下りたままで薄暗かった。高橋はいない。篠原のところから連絡したとき、酷く眠そうな声だったから、今日は昼から来るのかもしれない。

 高橋と話せる時間はあるだろうか。

 出来れば今日、顔を見て話したいけれど…

「なに突っ立ってんだ、真琴」

 急に聞こえてきた声に真琴はぎょっとした。

 飛び上がった瞬間に手に持っていた紙袋ががさっと音を立てた。

「こーっち」

 声は客用の応接スペースを間地切っている衝立の向こうからだった。よく見ると足が通路にはみ出していた。

 衝立から覗き込んでみると、頭に毛布を被った高橋がソファに寝ていた。収まりきらなかった膝下がひじ掛けからぶらりと下がっている。

 ソファの前のテーブルの上にはカップラーメンの容器やマグカップやらが散らばっていた。マグカップの底には飲み残したコーヒーが少しだけ入っている。

 どうやら高橋は昨夜はここに泊まったようだった。

「…所長」

「んー?」

 真琴はがばっと頭を下げた。

「昨日は本当に、すみませんでした…! 俺…あのっ」

 毛布の下から高橋の手がぬっと差し出された。

「今日は休む」

「え?」

「仕事は休みだっつったの。で? 買って来た? おやつ」

 顔の上から毛布をずらした高橋が、寝惚けた目で真琴を見ていた。

「あ、うん──」

 いつも行く和菓子屋の紙袋を真琴がその指先に引っ掛けると、高橋はのそりと起き上がり、大きく欠伸をした。

 ぼさぼさの髪をぼりぼりと掻く。

「話はまあ、…甘いもん食ってからにするか」



 真琴は週一回休みを貰っているが、高橋は年中無休で仕事をしていた。祝日でも基本的に休まない人だ。

「ほんとに休んでいいの?」

 お茶を淹れ、湯飲みをふたつ載せたお盆を給湯室から運びながら真琴は言った。

「大体片付いたしな。あとは俺の抱えてるあの相続問題のやつだけど、今日は大して動きはない」

「ふうん」

 片付けたローテーブルの上、それぞれの前に湯飲みを置くと、高橋は紙袋からどら焼きと栗饅頭を出して真ん中に置いた。

「羊羹がねえ」

「売り切れだった」

「朝なのにか」

「朝だから。作るの間に合ってないんだよ」

 この店は高齢の老夫婦ふたりでやっている小さな和菓子店だ。彼らのその日の体調で店先に並ぶものも変わる。

「ふーん、爺さん元気だった?」

「うん。おばあちゃんも。どら焼き、一個抹茶味おまけしてくれた」

 どら焼きの表面に猫の顔の焼き印が押してあるのを真琴は指差した。老夫婦の飼い猫のマチがモデルだそうだ。マチはいつも店の入り口に置かれた椅子の上で丸くなって眠っている。

「一個て…うちは三人だぞ」

「贅沢言うなよ」

 栗饅頭を取って包み紙を剥き、真琴は半分齧り取った。

 高橋は大口を開けてマチが押されている抹茶味のどら焼きにかぶりつく。

 ふたりとも視線はテーブルの上に落としたまま、無言で口を動かした。

 お茶を啜るタイミングが同じになったのは、付き合いの長さだろうか。

 ブラインドを下ろしたままの薄暗い事務所内に、小さな間が落ちる。

 ことん、と先に湯飲みを置いたのは高橋だった。

「嘘ついて悪かったな」

「なんで──」

 栗饅頭に伸びた高橋の手を見つめ、そこからゆっくりと視線を高橋に辿っていく。

「なんで、ちゃんと言ってくれなかったんだよ」

 無言で包みを剥き、ひと口で頬張る。

 もごもごと顎が動く。

「どうして岩谷があそこを通るだなんて、嘘ついたんだよ」

「嘘じゃねえ」

「嘘だっただろ」

 嘘をついたと言ったくせに違うと言う高橋を真琴は見据えた。

「昨日、偶然だったけど、すごい偶然だけど、俺篠原さんの奥さんの報告書、見て…」

「ああ、そうだってな」

「岩谷は今…、奥さんの内縁の夫だ」

「そうらしいな」

 手の中で丸めた包みをぽいとテーブルに放る。

 くしゃくしゃに丸まったそれは真琴の前まで転がって、またゆっくりと開いていこうとしていた。

「嘘じゃないってなに? なあ、なんなんだよ!」

 ばん、とテーブルに両手を叩きつける。手のひらの下で、ぐしゃりと丸まった包みが潰れた。

「あいつは都内になんかいない、あの近くに住んでるわけでもない、そんなの全部知ってたんだろ!」

「ああ」

 でも、と高橋は言って、そこでやっと正面から真琴を見返した。視線がぶつかる。

「俺はあそこで岩谷を見たんだ。それは本当のことだ」

 それは三年程前、まだ真琴が事務所に来る前のことだ。

 高橋の脳裏に岩谷の勝ち誇ったような笑いが蘇ってくる。

 会社を辞め、かねてから準備していた自分の事務所を立ち上げるために毎日奔走していた。

 引きこもっていた真琴をどうにか立ち直らせようと、自分の実家の洋食屋の手伝いを半ば無理やりさせて一年程が過ぎていた。高橋の両親はとにかく商売気質の明るい人たちで遠慮なしに真琴を構い倒して可愛がってくれた。実の息子より──息子というか孫に近い感覚だったのだろうか、両親に顧みられず放り出されて育った真琴は、今まで得ることの出来なかった愛情を受けてようやく落ち着き、笑顔も見せるようになっていた、そんな矢先だった。

 たまたまだった。

 たまたまそこを通りがかったのだ。

 帰り道じゃない、その先に行きたい場所があったわけでもなかった。

 ただ遠回りをして帰ろうと、それだけだったのだ。

 歩道橋の階段を上がりきったその場で高橋はふと目を上げた。

 人の気配。

 歩道橋の真ん中に誰かがいた。欄干に頬杖をつき、じっと下を覗いていた。

 既視感。

『……』

 見たことがある、と思った。

 見覚えのある横顔。

 そして、その男はまるで高橋が来るのを待っていたかのように、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

『やあ、歩先輩』

 そう言って、にっこりと岩谷は笑った。

 ぞわっと全身の毛が逆立った。

『おまえ…っ』

 高橋は喉の奥から声を絞り出した。

 高校生の時とは見違えるほど、岩谷は雰囲気を変えていた。

 淡く染めた髪。

 見るからに高価そうな服を身に纏い、眼鏡を外しただけで、もともと造作の良かった顔立ちは一層際立って見えた。

 優しげだった面立ちは今では見る影もなく、何もかもが鋭く冷たい。

 こくりと高橋は息を呑んだ。

 こんな──こんなに変わっていたなんて。

 これが岩谷の本当の姿だったのか。

 こんな顔を一体どこに隠していた?

『久しぶりだねえ、今帰り?』

 どうして俺は──気がつかなかったんだ。

『…なんでおまえがここにいるんだ』

 岩谷はそれには答えずに、高橋を上から下まで眺めまわし、気が済んだようにくすっと笑った。

『あー、いいところ就職したってやることはみんな同じだね』

『…うるっせえよ。てめえじゃ届かねえもんを人を踏みつけにして手に入れるようなやつに言われる筋合いなんかねえ』

 欄干に寄りかかり、岩谷は首を傾げた。

『人? 人って何だっけ』

 今でも覚えている。

 その肩の向こうには美しい月が浮かんでいた。

 ほんの少しだけ欠けた満月。

 明日には満ちてしまう。

 満ち足りて、また欠けていく。

 うっすらと岩谷は笑った。

『ああ…、あのガキ、まだ…元気にしてる?』

『──てめえ…』

 その瞬間両手を垂らしたまま手を強く握り込んだ。

 爪先が拳の内側で手のひらに食い込む。

 血が滲むほどに強く。

 強く。

 殴るな。

 殴るな。

 この足を踏み出すな。

 ぶるぶると激しく震える腕を高橋は懸命に抑え込んだ。

 殴ったら、俺はこいつと同じになる。



「本当に俺は岩谷を見たんだ」

 交わした会話を思い出すだけでも胸糞が悪くなる。

 何があったのかを真琴に言う気にはなれなかった。

 でも、あれからもう三年。

 今なら真琴は受け止められるんだろうか。

「…おまえを事務所に入れるとき、俺はおまえにもう一度向き合って欲しかったんだ。ただ仕事をしてメシ食って寝て、毎日そんなことばかりじゃなくて、もっと──生きる目的を持って欲しかったんだよ」

 だから岩谷があの歩道橋に現れると教えた。

「憎しみでも何でもいいから、毎日やることがあれば、いいって思えたんだ」

 そのときには既に岩谷の身辺調査は済ませておいた。岩谷の居住地が都内にないことも、もともとあの辺りに岩谷自身何の関係のないことも、はじめから全部突き止めておいた。それからずっと高橋は個人的に岩谷を監視している。職業倫理に反するかもしれないが、依頼主は自分ということにしておいた。だがそれは居所に限った調査だった。間違っても二度と岩谷が真琴の前に現れないように。

 真琴を見つけ出さないようにするために。

 岩谷は高橋と遭遇したあの日よりすぐに海外に拠点を移していた。

 そして一年半ほど前また日本に戻って来たのだ。

 時期はちょうど、篠原と元妻が結婚するよりも前になる。見合いだと言っていた彼らの結婚、まだふたりが引き合わされるよりも前の話だ。

 辻褄は合う。

 だがひとつだけ、高橋には引っ掛かっていることがあった。

 ぽつりと真琴は呟いた。

「俺はずっと、あいつを探してた」

 高橋が冷えた湯飲みを持ち上げて茶を啜った。

「探して…でも、ほんとは違くて、俺はあいつに俺を見つけて欲しかった。俺が毎日あの場所にいることを思い知らせて、少しでも…、少しでもっ…、思い出させてやりたかった」

 復讐は馬鹿げている。

 そんなことをしてもなんにもならない。

 だからせめて存在を見せつけてやりたかった。

 あいつがいとも簡単に踏みにじった自分を。

 髪も染めた。

 人の中にいても目立つように。

 ミトという名のもうひとりの自分になった。

 毎日毎晩同じ場所で。それは意味のあることだと思っていた。

「なんで追いかけなかったんだよ…! なんで、なんであいつを捕まえなかったんだよ! あんたほんとは話ぐらいしたんだろ!?」

 高橋のシャツの襟首を掴んで真琴は揺さぶった。

「何とか言えよ!」

「ああ──話した」

 ひく、と真琴の頬が引き攣った。

「…っじゃあなんで黙ってたんだよ、なんでひと言言ってくんなかった──」

「言えるわけねえだろ!」

 されるがままに揺さぶられていた高橋が声を荒げ、真琴の手首をぐいっと掴んだ。

「あのときのおまえに、俺がそれを言えるわけがねえだろうが」

「…っ」

「三年前、岩谷が言ったことを俺がおまえにそのまま言ってたら、おまえは多分逆戻りしてるよ」

 高橋が立ちつくした真琴を見上げる。

 でも、と言った。

「でも、今なら…」

「聞きたいのか?」

 聞きたいか?

 問われて自問する。それを本当に知りたいのか?

 聞いてどうする?

 辛いだけかもしれないのに。

 真琴はその考えを捨てた。

 違う。知らなければ駄目なのだ。

「…あいつ俺のこと、なんて言ってた? 俺のこと覚えてた?」

「ああ、覚えてた」

「それで?」

 ほんの一瞬だけ眉を顰める。真琴の手首を握り、高橋はまっすぐに真琴を見ていた。

「『あのガキ、まだ元気にしてる?』」

 真琴の目が見開いた。

 高橋は手首を握る指に力を込め、ゆっくりと離した。手が落ちて、すとん、と真琴はソファに座った。

「──は」

 はは、と真琴の口から乾いた笑いが零れる。

「はは…っ、なにそれ」

「真琴」

「なんだよ、それ…」

 あのガキ、まだ元気にしてる?

 どんな悪ぶった台詞だ。

 どんな悪役だ。

 どんな悪人を演じているつもりなんだ。

 両手のひらで顔を覆って、真琴は俯いた。

「あいつ俺をほんと、なんだと思ってるんだろ…」

「平気か?」

 顔を伏せたまま真琴は頷いた。

 思うほどには心は荒れていない。

 昨夜のような怒りも悲しみもなぜか沸いて来なかった。

 不思議だった。

 真琴、と高橋が言った。

「ずっと言えなくて悪かった…本当に。俺が隠してたのはこれで全部だよ」

「…うん」

「大丈夫か?」

「うん。平気だよ」

「少しは強くなったってことか」

 互いに苦笑し合う。

「…それでも、俺はもう二度とおまえに岩谷に会って欲しくない」

「…うん」

 ふと落ちた間に、独り言のようにぽつりと高橋が言い、真琴は頷いた。

「ほかに聞きたいことは?」

 真琴は首を振った。

「もうないよ」

「そうか」

 ふたつ目のどら焼きを取って、高橋は袋を破いた。

「おまえ、もう帰っていいぞ」

「え?」

「今日は篠原さん休みなんだろ。おまえもたまには早く帰れ。もう夜にあの歩道橋に行かなくてもいいんだからな」

「そうだけど」

「あ、帰るまえにお茶」

 と高橋は空になった湯飲みを真琴に差し出した。

「篠原さんによろしく言っといてくれ。ああ、それと──」

 高橋は言葉を切り、ふっと声を落として言った。

「金の話には気をつけろと」

「金?」

「金だよ」

 湯飲みを受け取って真琴は首を傾げた。

 高橋は大きく口を開けどら焼きにかぶりついた。

「元妻からの金の話には絶対に耳を貸すな、ってな」


***


「…それでは、はい。よろしくお願いします」

 義理の父親との話を終えて、篠原は通話を切った。

 携帯を寝室に残し、リビングに戻る。がらんとした部屋の唯一の家具であるソファの上で、まだプライベートの携帯は鳴っていた。

 表示を見ていると、ぷつりと途切れた。

 義父と話している間中、何度も切れてはかかりを繰り返していたようだ。着信回数のおびただしい数字を見て篠原は眉を顰めた。

 コーヒーでも淹れよう。

 キッチンに足を向けたとき、また携帯が鳴りはじめた。

 誰からなのか見なくとも分かる。

 時刻は昼間近になっていた。

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