15


 ぎゅう、と心臓を握り込まれた気分だった。

「…まあ、知ってますけどね…篠原さんがあいつをご存知だとは、驚きですね」

 椅子に座り、高橋は窓の外を見た。

 外灯の明かり、通りに面しているので行き交う車のヘッドライトが窓の下を明るくする。

『私も別に知りたかったわけじゃなく、必然的にそうなったんです』

「はあ、そうですか」

 その必然とは、と浮かんだ疑問に、篠原がすぐに答えた。

『岩谷尊は私の別れた妻の交際相手です』

「は……?」

『正確には、結婚する前からの』

 背もたれに寄りかかろうとした高橋が、ぎくっとその動きを止めた。勢いよくデスクに前のめりになる。

『妻には私と結婚する前から付き合っていた男がいて、その人物を別の調査会社が先日…ようやく突き止めてくれました。今は内縁関係にあります』

「それが、岩谷──」

 その事実を高橋は知らなかった。

 知っていたのは、ずっと気にかけていたのは、もっと別のことだ。そればかりに気を取られていて…

『…ええ』

 それで、と篠原はわずかに声を落とした。

 潜めるように言う。

 まるで誰かに聞かれたら困るかのように。

『リビングに置いておいたその調査結果の書類を水戸岡くんが見てしまって』

「──」

 今は眠っていると言った篠原の言葉の意味が分かった気がした。

 調査報告書というからには当然、現在に至るまでの岩谷の生活のすべてが載っているはずだ。

『水戸岡くんは彼と…過去に何か?』

 どう答えるべきか一瞬考えて、高橋は深くため息をついた。

「そんなもんは、本人に聞くべきだ」

『ええ、その通りですね。明日真琴が起きたら聞こうと思います』

 髪を掻き上げていた高橋は、篠原の言葉に何か引っかかるものを感じて、ふと顔を上げた。

『あなたにはお知らせしておいたほうがいいかと思って』

「──真琴は」

 切られる気配に、とっさに高橋は言った。

「俺のことを、なんか言ってましたか」

『いえ、何も…大丈夫です』

 それから二言三言交わして篠原は電話を切った。

 通話の切れた携帯を握りしめて高橋はごしごしと顔を擦った。

「大丈夫じゃねえよ…どうすんだよ」

 こんなことならもっと深く、根こそぎ岩谷のことを調べ上げておくべきだった。

「つーかなんだ、真琴って…あんた呼び捨てかよ」

 高橋にとって、岩谷は後輩だ。

 とても親しくしていた──後輩だった。

 あんなことをしておいても尚、親しくしていた記憶は消えない。高橋だって信じていたのだ。

 だからこれ以上はいいだろうと──真琴にさえ近づいて来なければいいと──温情をかけたのが仇になったというのか。

「くそっ!」

 どちらかを取れと言われたら迷わず高橋は真琴を取る。

 なのに…

「あああ! クソ、ちくしょう…!」

 ばりばりと髪を掻きむしる。

 情の厚さなどくそくらえだ。

 非情になり切れない自分が腹立たしい。心の底から岩谷が──自分自身も含めて、恨めしかった。


***

 

 ぱん、と頬をぶたれたのは、もう随分と前のことだ。

 夢の中で、真琴は高橋に叱られていた。

『この──馬鹿野郎が! 一体何考えてるんだおまえは!』

 蹲った部屋の中から引きずり出されていく。

 いやだ。

 いやだ。

 もうなんにも見たくない。

『いい加減にしろ! いつまでも拗ねて不貞腐れやがって! 子供じゃねえんだぞ!』

 抗っても高橋は容赦なかった。

 部屋のドアの外に蹴りだされたとき、灼けつくような日差しが薄暗い部屋に慣れた真琴の目を焼いた。

 暑い。

 汗が噴き出した。

 いつのまにか季節は夏になっていた。

 真琴が部屋の中で動けないでいる間にも、世界は変わらずに動いていた。

 意味なんてない。

 何の意味もなかった。

 ただどうしようもなくみっともないばかりだ。

 情けなくて惨めで、駄目なだけだ。

 その痛さに、眩しさに、倒れ込んだドアの外で体を丸めて、真琴は泣いた。

『泣くな』

 立ったまま見下ろしていた高橋が真琴の傍にしゃがみ込み、ぐちゃぐちゃになった顔を覗き込んだ。涙と眩しさと逆光で視界は歪んでいて覚束ない。それでも真琴は、高橋が自分と同じように顔を歪めているのが分かった。

 高橋こそが今にも泣きそうな顔をしていた。

『泣くな、しっかりしろ』

 海外から帰国したばかりのその足で駆けつけて来てくれた。

 大きなスーツケースが狭いアパートの廊下の端に転がっていた。

 高橋が自分が叩いた真琴の頬に触れる。その手はひんやりとして、小さく震えていた。

 苦しいのは自分ばかりじゃない。

『…う、ん…っ』

 ごめん。

 心配ばかりかけてごめん。

 おやつ買っていくから。

 羊羹とどらやきと、栗饅頭…

 ちゃんと買うから。

 だからどうして本当のことを教えてくれなかったのか聞いてもいいかな…

 白い光だ。

 …朝の匂いがする。

 誰かに撫でられている。

 気持ちいい。

「──……」

 同じように頬に触れる手の感触に真琴は目を開けた。

 枕元に腰を下ろした篠原が微笑んでこちらを見ていた。

「おはよう」

 あれ、篠原さん?

「お、…はよう…」

 ぼんやりとした声に篠原がくすっと笑った。

「気分は?」

「気分…? …あ」

 答えようとした真琴は、一気に昨夜のことを思い出した。

 そうだ、俺、篠原さんと──

 篠原さんに、俺。

 全身が火を吹いたように熱くなった。

「大丈夫?」

「だ…っ、大丈夫、ちょっと…」

 何をしたのかと思い出していたたまれない。

 死ぬほど恥ずかしい。

 篠原は布団で顔を隠した真琴の髪をひと撫でした。

「朝ご飯にしよう。シャワーを浴びて着替えたらリビングにおいで。服はそこにあるから」

 え、と真琴はがばっと起き上がった。

「──待って篠原さん、仕事は…?」

 篠原はにこりと笑った。

「今日は祝日だよ」

 立ち上がろうとした篠原の腕をとっさに真琴は掴んだ。

「俺、ゆうべ──」

 ぎく、と体が強張った。

 目の前に岩谷の名前が浮かぶ。

 ぎゅうっと心臓が捩じれて、真琴は胸に詰まった息を吐いた。

 思い出すだけでこうなってしまう自分が、どうしようもないと思う。

 昨夜、篠原は何も聞かなかった。

 ただもう悲しくないと言ってくれた。

 大丈夫だと、何も考えなくていいようにと、甘やかされた。

 そして、好きだと。

「……」

「…どうした?」

 きっと篠原は、真琴から話すのを待っている。

「篠原さん」

 呼びかけると、篠原が座り直した。

 話そう。

 長い話の続きを。

「…今日の夜、俺、また来てもいい?」

 篠原は頷いた。

「ああ。仕事が終わるころに迎えに行くよ」

 子供に言うような言葉に真琴は笑った。

「ひとりでいいよ」

「そう? でも、迎えに行くよ」

 真琴は目を上げた。

 明るい日差しの中でまともに篠原と目が合って、真琴はどきりとする。

 前髪を下ろした私服姿の彼はいつも、普段よりも若く見える。

 カーテンから差し込む朝の白い光が、篠原の黒い髪の輪郭を縁取って光っている。

 見惚れていると篠原が身を屈め、目元に口づけが落ちてきた。

 多分まだ赤い皮膚がその刺激にひりっとして思わず肩を竦めると、そっと抱き寄せられ、労わるように舐められた。

 目を閉じていると下りてきた唇が軽く真琴のそれに合わさった。すり合わせるように輪郭を辿られる。

 コーヒーの匂いがした。

 ゆっくりと唇が離れていった。

「まだ腫れてるな…少し冷やそうか」

 真琴は首を振った。

「大したことないよ」

「そう」

 篠原は立ち上がり、ベッドの反対側に置いてある机から何かを取って戻って来た。差し出されたそれは真琴の携帯だった。

「あ…」

「高橋さんから何度も掛かって来てた。悪いと思ったけど、一度出て事情は話しておいたから」

 受け取って、真琴は頷いた。

「ありがとう。あの──所長、何か言ってた?」

 互いに同じことを聞いたとは思っていない。

 篠原は微笑んだ。

「何も。ただ凄く心配してた」

「…ん」

 そうだろうな、と高橋の顔を思い浮かべ、真琴は苦笑した。

 夢の中でも高橋は真琴を叱っていた。

 いつも心配ばかりかけている。

「真琴、今からでも高橋さんにちゃんと連絡しておいたほうがいい」

 うん、と頷き、携帯を開いて真琴は青くなった。

 着信履歴が二桁におよび、未読メッセージも恐ろしい数になっていた。篠原が連絡したためか今朝は何もなかったが、これから入らないとも限らない。

 確かに、ちゃんとしておかないと。

「大事にされてるんだよ」

 青くなっている真琴を見て、篠原が笑った。


***


 朝食を食べ、仕事に行く真琴を見送った。

 いなくなった途端、家中がしんと静まり返ってしまい、久しく感じたことのない寂しさに、篠原は誰にともなく苦笑した。

 適当に掃除をし、篠原は寝室の向かいの書斎に入った。ここはもともと子供部屋にする予定だったが、そんな未来はもう二度と来ないと、自分の性癖を自覚し離婚を決意したその日に書斎に作り替えていた。妻はその前から実家に戻っていたので、特に問題はなかった。

 離婚したその日、仕事から帰ると家の中は伽藍洞になっていた。いない間に妻が家中の欲しいものを根こそぎ運び出したのだとすぐに分かった。

 呆れはしたが怒る気にもなれなかった。

 傷つけたのは自分だ。いくら押し付けられた結婚とはいえ、もっと誠実に向き合えばよかったのだ。

 彼女にも、そして自分にも。

 もっと早くに自分が同性しか愛せないと気がつけばよかった。

 そのことで少なくはない人たちが驚き、怒り、嫌悪し、離れる者は離れていった。または、理解しようと努力してくれる人もいた。

 それ以外は何も変わらない日々だ。

 だが、その数日後、母方の祖父母の家に置き去りになっていた蔵書を運び入れ、以前から手元に置いていた蔵書と一緒に整理をしようとしたとき、それらがなくなっているのに気がついたのだ。



 書斎の棚の下を篠原は見た。大判のぶ厚い洋書が収まっている。それを引き出して表紙を捲ると、中には紙ではなく、ぶ厚い厚みをくり抜いた中に、鍵付きの保管庫がすっぽりと収まっていた。

 これを彼女が持ち出さなかったのは、不幸中の幸いだった。

 あのときこの洋書に見える保管庫は、篠原が自分のクローゼットの奥に仕舞っていたからだ。同じように並べていたなら、ともすれば一緒くたに売り出されていたかもしれなかった。嫌がらせとして、彼女が篠原がすぐに気がつきそうなものばかりを狙ったのがよかったのか──

 とにかくクローゼットの奥にあるものまでは、目を向けなかったのだ。

 書斎の机の引き出しから鍵を取り出して、篠原は保管庫を開けた。

 保管庫は金属で出来ていた。開いた中にはフィルムが入っている。それはあの日真琴に渡されたフィルムだった。

 チャイムが鳴った。

 玄関ではなく、これはマンションエントランスのチャイム音だ。

 何かの勧誘かと放っておこうとしたが、チャイムは長く鳴り続けている。

 嫌な感じだ。

 篠原は保管庫に鍵を掛け、元に戻すと、書斎を出た。リビングに行きインターホンを覗いた。

 さっぱりと髪を切った元妻が、やや苛立たし気な様子でそこに映っていた。

 やがてインターホンは鳴り止み、彼女もモニターから消えた。

 暗くなった画面から目を離すと、今度は携帯が鳴りはじめた。

 出ないと分かった彼女が携帯に変えたのだ。

 何の用かは大方察しがついている。

 だが出る気はない。

 篠原はそれを鳴るに任せ、寝室に行き、仕事用に保有しているもう一台の携帯を手に取った。

 手慣れた仕草で操作し、耳に充てる。

 数回の呼び出し音で相手が出た。

「…お久しぶりです、お義父さん」

 篠原は母親の再婚相手にそう呼びかけた。

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