読書感想文

白水悠樹

第1回、太宰治、「富嶽百景」

・富嶽百景

・太宰治による著書

・俗な物を嫌い、俗な富士を嫌っている「私」が、多くの人やそれぞれの思い出に繋がる富士の景色を見て、徐々に成長する姿を描く。


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 まず、「富嶽百景」と言う作品を読んでいて自然に感じた事は「あらゆる視点の存在とその可能性」でした。


 「富嶽百景」の主人公である「私」は俗なものを嫌っています。この事に対しては「ひねくれ」や「有り得ない」と感想を言う人もいますが、一方で「正しい」や「素晴らしい」と感想を言う人もいます。私はどちらかと言えば後者ですが、「あらゆる視点の存在」を考えれば、別にどちらでも良いとも思います。なぜなら、あらゆる物事には多くの視点が存在し、それらの視点はその人の人生における思考や行動に対して切実に作用し、良くも悪くも、その人にとっての世界そのものを歪める可能性を持っているからです。

 例えば「満開の桜は美しい」ですよね。景色の全てが淡紅に彩られ、見る者全てを魅了します。

 しかし、早朝、誰もいない時間、満開に咲き誇る桜並木の真ん中に貴方が立っているとします。すると、どうでしょうか。所狭しと並ぶ桜の木々は、朝の冷たい風を受けてゆっくりと揺れています。川を覗けば、川の端の方をだらしなく花弁が流れて行きます。

 それは「とても恐ろしい景色」です。桜の木の下に人の死体でも埋まっていそうで、とても心細くなります。

 実際にこの見方を人に伝えれば、暫くの間は小さな恐怖に襲われることでしょう。つまり、多くの人が見る「俗な視点」の裏には、小さくも確実に、いくつもの「別の視点」が存在し、それらは人の人生に変化をもたらす可能性があるのです。

 ただ、先程述べたような「視点」があるとなると、「俗な視点」に囚われていた方が幸せなのではないかと思い至るでしょう。しかし僕が思うに、太宰治先生はそれが嫌だったのではないでしょうか。そうやって多くの人が俗な世界に囚われ、物事をただ単一的に捉え、それが何よりも楽だからと、余り物を考える事なく生きてしまう。それが大きな違和感だったのではないでしょうか。

 確かに、多くの人が従うような俗な世界はとても生き安いかもしれません。しかし、それはただ俗なだけであって正しいわけではありません。ただ単一的なのであって、単一の世界ではないのです。


 では私達はどうするべきなのか。そう考えた時に「富嶽百景」の「私」を思い出します。

 物語の中で「私」は単一表現を求めています。その中で、俗だからと言って認めようとしなかった「富士」に単一の美しさを感じてしまった「私」は、富士を認めまいかどうかと思い悩むのです。結果として「私」は富士を認める事になるのですが、簡単に言えばこれが答えです。

 「俗な視点」も、そうでない「別の視点」も、そのどちらもが現実であり、そのどちらもが合わさらなければ、この世界をそっくり映すこと―つまりは単一表現―は完成しないと言うことです。つまり、私達は「あらゆる視点の存在とその可能性」を認めなければいけないのです。

 何度も言うように、視点の存在は人を変える可能性を持ちます。それは、俗でない視点でしか見ようとしなかった「私」が俗な富士を認めた事で成長出来たように、今私達が見ている視点以外の視点を認めることで思考や行動が変わり可能性を広げる事が出来ると言うことも表すのです。


「俗な物でも別に良い。しかし、それだけではいけない。それだけでは何も見えず、何も分からず、人生が狭くなるばかりだ。しっかりと見なくてはいけない。そうすれば、どんな人生も少しは楽しくなるものだ。それだけは忘れてはいけないよ」


 少しだけ歪んだ男の目が映す富士の世界にそんな言葉を見た気がして、少しだけ景色が広がるのを感じました。

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読書感想文 白水悠樹 @1804

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