執着という名の犯罪

七海美桜

第1話 事件

 予想外だった。

 

 出血する右の腹をてのひらで押さえながら、鈴木健吾はこの寒空の下アスファルトに横になっていた。体中に嫌な脂汗が浮かび、額からも一筋の汗を流していた。誰かに連絡しようにも、今の彼にはできそうになかった。何故なら健吾のスマホは彼を刺した犯人に踏まれて、マンションのエントランス前の階段の下で、画面が割れて転がっていたからだ。「あれでは、使えないだろう……」と、絶望的な思いで空を仰いだ。

 新月の夜だった。そのお陰で、星が綺麗に見える。星が綺麗に見えるのは冬が多かったような、と記憶を探る。何か考えていないと、このまま意識が無くなり死んでしまう気がしていた。汗をかきながら浅い呼吸を繰り返し、白い息が彼の顔辺りに薄く漂う。


 刑事課に所属する彼はたまたま事件を抱えていなかったので、ここ一週間ほど生活安全課のストーカーの事件を手伝うように頼まれていた。

 被害者の女性は二十台前半の、瞳の大きなほっそりとした女性だった。綺麗に手入れがされている髪と、ネイルが剥げかけた爪がアンバランスで彼女がいかに「危ない状態」なのかを知る事が出来た。

 会社員で独り暮らしをしていたのだが、二カ月ほど前に引っ越してきた隣の部屋に執着されてしまったらしい。そのストーカーは四十代半ばで、リストラされて引っ越してきたそうだ。彼女が出勤する時にゴミ捨てに来た男は、一目で彼女に「惚れた」らしい。ポストへ溢れるほどの「愛しています」の手紙に、何処で調べたのかスマホに無言電話や「自慰行為中」らしい荒い息。留守電にしても着信拒否にしても、何故か繰り返しかかってきて同じように繰り返される。寝ようと横になると、真夜中にも関わらず何度も鳴るインターフォン。洗濯物も下着を中心に盗まれ、彼女の精神状態はギリギリだったようだ。生活安全課に頼まれて避難先のマンションに彼女を送り届けようとしたところ、そのマンションのエントランスの入り口で包丁を握り締めるストーカー男と鉢合わせた。


 男と連れ立って歩いている姿に逆上したストーカーに、不意を突かれて健吾は刺されてしまった。今朝決まったばかりのマンションだから、と健吾も女性も油断していた。健吾はエントランス前で倒れる前にその男を殴りつけて何とか気絶させたが、その間に彼女は奇声を上げて逃げ出したようだった。


 彼女が助けを呼んでくれればいいけど……それか、このマンションの住人が通ってくれないかな……。


 彼女が助けを呼ぶ可能性は、あまり期待していなかった。あれだけ精神的に追い詰められていたのだから、人が刺されるのを見てパニックになって暫くは話にならないだろう。それに、もう深夜近いのでマンションの住人以外が通りかかるのも期待できそうにない。


 死ぬ前に、「心臓泥棒」を捕まえたかったなぁ……と健吾は心残りを思い浮かべて瞳を閉じた。「心臓泥棒」とは、彼が今追っている連続殺人犯のニックネームだ。若い男を絞殺して、胸を開き心臓を言葉通り「盗んで」いく犯人がいるのだ。大体三か月間隔で死体が発見されるのだが、何故かここ最近犯行は行われずに死体も発見されない。それで、その事件の担当だった健吾は暇になりこちらを手伝ったのだ。


「あれ? 刑事さんじゃないですか?」

 不意に声をかけられて、健吾は瞳を開いた。聞き慣れた声だったからだ。

「……あんたは……」

 健吾の顔を覗き込んでいたのは、神奈川県警所の近くにくるカフェメニューをメインにした、キッチンカ―の店主。四か月前くらいから現れるようになり、健吾はよく珈琲を買いに行ってこの店主と話していた。

 ソイラテを好む健吾の好みも直ぐに把握して、顔を見れば「いつものですか?」と気さくに話してくれていた。時折、チョコやクッキーなど「珈琲のお供に」と渡してくれる店主だ。少し野暮ったい眼鏡の下は、とても整っていて秘かに女子達に人気があった。

 助かった、と健吾は安堵した。この店主に、応援を呼んで貰おうとしたのだ。

「すみませんが……」

「こいつですか? 健吾さんを刺した奴」

 店主は端正な顔に笑みを浮かべて、健吾が殴り倒した男の頭を革靴で踏んでいた。健吾はそこの光景に、唖然とした。違和感を感じる――そうだ、いつもは軽装で野暮ったいエプロンに眼鏡姿なのに、まるでイギリスの紳士のようなフォーマル姿で眼鏡をかけていないのだ。こげ茶色のダブルのスーツにシックな黒いコート姿は、美形な彼の容姿に似合っている。だからこそ、昼に見るキッチンカーの彼とまるで違う人物に見えた。

 それに、いくら健吾を刺したとはいえ人の顔を靴で踏むなんて。先ほどまでの痛みとは違う汗が、健吾の背中を流れた――恐怖、だ。

「予定外ですが、仕方ありません」

 店主――健吾には佐々木透と名乗っていた彼は、ストーカーの前に身を屈めた。倒れている男の腕時計などを確認しているようだった。

「健吾さんは、先に私が狙っていたのに。全く予想外の邪魔をしてくれました。取り敢えず罰として、排除しますね」

 彼の口から発せられるのは、健吾が混乱する言葉ばかりだった。

「はい、さようなら。貴方のような人の心臓はいりません」

 気を失って横たわっていたストーカーの身を起こすと、そのまま佐々木は男を玄関横の花壇に凭れ掛かる様に座らせる。優雅な足取りで背後に回った彼は、健吾を刺した包丁を革の手袋をした手で拾い上げていた。それからストーカー男の喉の左側を何回か薄く切りつけ傷を作ってから、躊躇いなく横に大きく裂いた。

「う、がぁ…!」

 痛みに目が覚めたストーカー男は呻いたが、裂かれた喉の頸動脈からあふれる大量の血に、次第に顔が真っ青になりガクリと首を垂れた。大きな切り口から大量にあふれた血の量が多く、失神したのだろう。あの血の量では、この男が死ぬのは時間の問題だ。辺りに、ストーカー男の血が飛び散っている。もしかして佐々木は返り血を被らないように、ストーカー男の背後に回って切ったのだろうか。


「佐々木さん……あんた……」


 一連の手際の良さに、健吾は唖然とした。緊張で心臓が早くなり、出血が増えた気がする。やり方がスマートで、手馴れている。それに……。


「……心臓はいらない……?」


 「心臓泥棒」の詳しい手口は、まだマスコミにも伏せていた。死因は絞殺、までしか発表していない。まるで、「心臓泥棒」を知っているかのような言葉を彼は口にした。

 力なく項垂れる男を観察していたのは、利き手を確認していたのか。ちゃんと左手に包丁を握らせた。右側を刺されたのである程度利き腕は予想していただろうが、短時間にも関わらず念入りに躊躇ためらい傷も作り自殺に見せかけていた。

「佐々木さん……あんたは……?」

 自分に歩み寄ってくる革靴のアスファルトを踏む音が、やけに大きく聞こえる。

膵臓すいぞう脾臓ひぞう、腎臓全て避けてますね。安心しました。傷を押さえていたので出血量もそう多くないので、命に別状はないでしょう」

 健吾を見下ろした佐々木は体に手を添わせ、まるで医者の様に彼が刺された傷の位置を確認して満足そうに笑みを浮かべた。

「そうです、私はあなた方が追っている「心臓泥棒」ですよ――あまり気に入った呼び名ではありませんが」

「なん……!」

 大声を出そうとした健吾は、佐々木の皮手袋の手で口元を押さえられた。――その手から微かに、何か薬品の匂いがする。

「大声を出してはいけません。もうすぐ人も来るでしょうから、それまでにお話をしておこうと思いまして」

 佐々木は手を離すと、皮手袋に引っ付いていたガーゼのようなものをコートのポケットにしまい込んだ。

「私は、少し変わった性癖を持っているんですよ。とても変わった、ね」

 佐々木は、この光景に似つかわしくない笑顔を浮かべた。

「好きな人が出来たら、私は全力で相手にアプローチをします。ですが、その人に好きになって貰えると、その人の「心」が欲しくなるんです」

 心……? 健吾の思考が、ぼんやりとしてくる。

「不思議ですね。好きという気持ちは感情、つまり脳の作用です。それなのに感情を表現するとき、人は心臓を思い描きます。心臓に、心は宿っているのでしょうか? それを知りたかったのが、私の最初の犯行です」

 端正な顔が笑みを浮かべているのに、健吾は恐ろしさで凍ったようにその顔を見つめる。

「三か月かけて出会い、私を好きになるように仕向けて、「最高の想い」が詰まったその心臓を取り出す……思い出しただけで、心が震えます。脈打つ心臓は、まるで愛を囁いているようでした」

 佐々木の顔は、熱気で上気していた。心臓を取り出す時の事を思い出して、興奮しているのだろうか。皮手袋の両手で、健吾の喉を締めるように掴む。

「初めは、そのまま食べました。ですが、より長く美味しく味わいたいので持ち帰り調理して、ゆっくり頂きました「彼らの私への想い」を」


 狂ってる。


 健吾は、吐き気もした。被害者の心臓を、こいつは食っていたのだ。どれだけ探しても、心臓が見つからないはずだ。

「警察が捜査しているのは知っていましたが、私はこの行為を止める事が出来ません。私を想う心の味は最高に美味しくて、もう私自身でも止められないのです」

 遠くで、救急車とパトカーのサイレンが聞こえ始めた。助かる、と健吾は安堵した。

「捜査している警官を調べているうちに、貴方を発見しました。私は、貴方の心臓も欲しくなったんですよ。ですからアプローチを始めたのに――残念です。また、仕切り直しになりました」

 佐々木は健吾の首から手を緩めて離した。そうして、彼の瞳を覗き込む。

「暫くは会えませんが、必ず貴方の心を頂きますよ。私への想いで一杯になった貴方の心臓を食べたくて、私はその時を心待ちにしています」

 瞳一杯に、佐々木の狂った瞳が写る。


 そこで、健吾は気を失った。




「確認の為に繰り返すが」

 健吾は、病院のベッドに横たわっていた。病院の寝間着の下の腹は、盛大に包帯が巻かれていた。ベッドの横に、彼の上司である長谷川班長と生活安全課の工藤班長もいた。

「彼女を避難用のマンションに送ろうとしたとき、マンションのエントランス前で別府容疑者が包丁を持って襲ってきたんだな?」

「はい」

「揉み合いになり、お前はマンションの入り口で別府容疑者に腹を刺された。その間に彼女は逃げ出し、お前は別府容疑者を殴って包丁を叩き落した」

「はい」

「気絶していた別府容疑者はパトカーの音に気が付き、混乱してもう逃げられないと思い、お前を刺した包丁で自分の首を切ったんだな?」

 健吾はあの夜を思い出す。新月の寒い空の下、あのストーカー男は自分が止める声を上げたにも関わらず落ちていた包丁を拾い上げて、自分の首を切った。飛び散る血の激しさを思い出し、健吾は眉を寄せた。

「そうです、俺が包丁を確保していればよかったのですが……」

 悔しそうに、健吾はそう零した。そんな健吾の肩に手を置き、工藤班長は首を振った。

「一人で、よく乗り切ってくれた。君のお陰で、事件は片付いたよ。彼女も安心している」

 この事件は被疑者死亡で、書類送検になり終わるだろう。容疑者がこの世にいないことは、彼女にとって一番の朗報になるはずだ。

「労災も出るし、上が表彰してくれるってよ。ま、腹が塞がるまで休んどけ」

 手帳を閉じた長谷川班長は、わざと健吾の腹の傷を軽く叩く。「痛ぇ!」と声を上げる健吾に、長谷川と工藤は笑った。

「名誉の負傷だ。退院したら、焼き肉でも奢ってやるよ」

 工藤の言葉に、健吾は思わず吐きそうになるのを何とか耐えた――何故だ? 焼き肉は大好物のはずなのに……?

「いや、あー……寿司が食いたいっす」

「おいおい、寿司の方が高くつきそうじゃねぇか」

 三人で笑っていたが、健吾は何か大事な事を忘れている気がして胸が晴れなかった。



 復帰した健吾は、ストーカー男の報告書を、パソコンで入力していた。暫くは書類と格闘することになる。傷は塞がっているが、まだ暴れると開くかもしれない。内勤をしていると、すぐに喉が渇き珈琲が飲みたくなった。

「珈琲買ってきます」

 財布を手に立ち上がる健吾に、違う班の佐藤が話しかけた。

「いつものキッチンカー、鈴木さんが入院してる時から来なくなったんですよ。少し先の店に行かないとありませんよ?」

「キッチン……カー?」

 何故か、冷や汗が背中を伝った。

「ええ、ほら、あのイケメンが店主の! 鈴木さんも良く行ってたでしょ?」

 健吾の様子に、佐藤は不思議そうに首を傾げた。健吾は、急に心臓が早鐘を打ち呼吸が荒くなった。店主の顔は何故か思い出せないが、確かに自分はよくあのキッチンカーに行っていた。不意にふらつく頭を支える為に、デスクに手を着く。

「あら、具合悪くなったの? 私が買ってきましょうか? 鈴木さんは、何飲むんですか?」

「ソイラテ……いや、ブラックをお願いできるかな?」

 心配そうな佐藤に、健吾はポケットから千円札を渡した。

「ごめん、君の分も買ってくれていいから」

 佐藤を見送り、健吾はネクタイを片手で緩めると噴き出る汗に困惑していた。何故か「恐怖を感じている自分」に、驚いている。


 何故だ?


 健吾は、窓の外を眺める。


『……心を頂きますよ』

 

 甘い筈の言葉が、恐怖のように頭のどこかで繰り返し聞こえる。


 狂気と愛が複雑に混ざり合った、それは小さな囁きのように何度も繰り返し、健吾の脳裏に沁みついていた。だが、その答えを知る者は何処にもいない。


 その言葉を囁いた者だけが知る、甘美な誘惑だった。

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