読み晒せ‼ 読書妄想文~ゾウリムシの脳みそから~
牛尾 仁成
1冊目 どうして『羅生門』なの? 芥川龍之介 著 『羅生門』
私が『羅生門』を初めて読んだのは、高校生の時だったと記憶している。どうしていきなりこんなことを書くのかと言えば、私にはある懸念があるからである。
それは、これから書こうとしている妄想が、実は授業で先生から教わったことであるかもしれない、という不安だ。
なんとも情けない話である。
私の貧弱な記憶領域と認識能力はもはや読後の妄想すら、自分自身の内から出てきたモノなのか、第三者から与えられたモノなのか、判別することすらできていない。
さて、いきなり私のゾウリムシ以下のスペックを惜しみなく晒したところで読者の皆様にお願いしたい。
これはあくまで、ただの読書妄想文だ。
しかも、記憶と認識に著しく残念な問題を抱える、ゾウリムシ以下の所感だ。というわけで、読後に「いや、それ授業とか試験で出たしw」とか「えーマジこの妄想文キモーイ。こんな妄想許されるの幼稚園生までだよね。キャハハハ」とか万が一思ったとしても、暖かい目で見てほしい。「お、この虫野郎の妄想気に食わねぇな、処すか」といった素敵な思いなどが閃いたとしても、どうか命だけはお助けください。
というわけで、さっそく感想もとい妄想を書いていくが改めて読み直すとこの話、ぶっちゃけ暗い。
勤め先を追い出された男が雨宿りに羅生門を訪れて、門の上で死人の髪の毛を抜いている老婆から着物を引っぺがして、追い剥ぎに身を
そんな本作であるが、私が読後に気になったのはその題名だ。
『羅生門』という題名であるが、そもそも芥川龍之介はどうしてこの作品の舞台を羅生門にしたのだろうか? 先述のようなストーリーであれば、他の場所でも展開出来るような気がする。行先の無い下人が行きつきそうな場所なら、あばら家でも、廃寺でもいいではないか。でも、書き手は羅生門にした。
羅生門でなければならない理由があった、からなのだろう。
前書きでも断っているが、この理由と言うのはあくまでも本文の中から読み取ることを前提とした話だ。いわゆる、作者の製作背景などから考察する、ということは出来るだけ避けたい。そうじゃないと、何より妄想のやり甲斐がない。妄想くらい私の好きにさせてほしい。
そういう訳で、私はもそもそと『羅生門』という題名を考えてみる。
イメージできるのは大きくて暗い門だ。
城に立つ、大きな門。楼があるから、相当立派な構えだろう。形以外のことも考えてみる。そもそも門と言うのは何なのだろう。
門とは建物や敷地の出入り口に設置する開閉ができる装置だ。では、それは何のために設置するのか。
それは門の内側を守るためだ。城の門などは、外側からの侵入を防ぐために堅固で厳重に守られている。逆に内側の者を外側に出さないための門もある。監獄の門を考えると分かりやすい。
門は内と外を分けるための装置と言える。トイレの扉を開けて中に入り、扉を閉めればあなたは確実にプライベートを満喫できるという訳だ。トイレの外という世界から用を足すための空間に扉という門を通って侵入する。
逆に言えば門があるから内と外という関係性が成立する。門が無ければどこからが外でどこからが内なのか、示すことはできない。扉という門が無いトイレはトイレの体を成していないと言える。誰にも見られないという特性を持つ空間とそうじゃない空間を分けられないのだ。トイレを有する建物の入り口から便座の上まで一続きの空間になってしまう。これでは最早トイレとは言えない。便座がある小部屋だ。
つまるところ門という装置が持つ役割は未分化しているものを一方ともう一方に分けるという境界の作用であろう。
そのように考えてみると、このお話における門という舞台も下人の心情を的確に表現する装置であるように私には思える。
下人の心は盗人という悪を選ぶか、盗人を選ばず飢え死にを選ぶかという正に境界の上に立たされた状況だ。その二つに一つを選ばなくてはならない下人が境界たる門の上にいる。舞台そのものにも主人公の心情や状態を寓意的に示す役割を与えようとする、作者の演出なのかな、と私は妄想してしまう。
こんな感じで私の脳内妄想CPUが調子よく回ってくると、私自身も調子こいてもっと妄想を膨らませてしまう。
お話を読み進めると、この下人は一度闇堕ちならぬ光堕ち(?)のような状態にもなっている。老婆が死人の髪を抜いている様を見て、下人はあらゆる悪に対して激しい憎悪を燃え滾らせた。この時に先述の選択を迫られれば、迷わず飢え死にを選ぶという気概っぷりだ。男前だね。
しかし、それも長くは続かず、老婆に刀をチラつかせてチンピラムーブをかましたあたりから、その悪を憎む心は炭酸の気が抜けるように萎んでいく。遂には老婆の良い訳を聴き終えると、自分の心の中で盗人になるという勇気が固まり、追い剥ぎに及んでしまうのだった。この時に至っては飢え死になぞ考えることさえ出来ない、とまで書かれている。これぞ、華麗なる掌返し。ドキドキだね。
自分が初めてこのお話を読んだ時には気にならなかったのだが、老婆の良い訳を聴いた下人が闇堕ちする勇気を持つ決め手は何だったのだろうか?
早い話、それは老婆のこんなことでもしないと自分は飢え死にするから、死人の髪を抜くのは悪いことだとは思わない、という言葉だったのだろう。下人も老婆から着物を剥ぎ取る時に、こうでもしないと自分も餓死するから恨むなよ、的なことを言っている。読者目線から言えば、見事なまでの責任転嫁である。
しかし、はたと私は思うのだ。
意外と、こういうことって自分もしているなぁ、と。
しかも、始末の悪いことにほとんど無意識だ。
人気キャラ投票企画で、ネット上で担ぎ出された脇役キャラにさして興味も無いのに複数回投票してみたり、飛行機のリクライニングを隣の人が倒した分だけ自分も倒してみたり、といった横並び的な行動である。
こういう時に働く心理は「赤信号みんなで渡れば怖くない」ではないが、自身の罪悪感の転嫁なのではあるまいか。自分の行動の理由を他人の行動に求めてしまうのだ。
この老婆は死人の髪を抜くことを悪だと思っていない。髪の毛を抜いてカツラを作ろうとしている、という理由もこの時代では実にありきたりだ。人智では及ばないキテレツ怪奇な理由ではない。何だったら、老婆にとって死人の髪を抜く作業は、洗濯物を干したり顔を洗ったりするのと同じくらい日常的な行いなのだろう。
人間は日常的に自分が許しがたい悪人だと思ってはいない。理由は単純で、自分が許されざる悪人だと思いながら生きるのは辛いからだ。たとえばほとんどの人はいちいち肉や魚を食べる時に、何日も摂食という行為の善悪に
大多数の畜産農家や漁師だって、もちろん自分たちの育て、捕った生き物に感謝しながらいただきはするが、
この時の「しょうがない」とか「仕方がない」という理由はとても簡単で日常的だ。延々と悩み、寝食も忘れて必死に考え抜いた末の答えとしてはなんともお粗末だし、お手軽に過ぎる。日常を生きるのに人は難しい理由を必要としないのだ。他者の命を食らうという行いを「仕方がない」というたった5文字の言葉で片付けてしまう。当然、この言葉を使っている時にほとんどの人は自分が悪をなしているとは露ほどにも考えていない。あるいは考えているかもしれないが、自身の行いを翻意する理由には成り得ないと結論づけている。何故なら本当にそれを悪と考えているのなら止めるからだ。菜食主義に転向すればいいだけの話である。
つまり、人は悪というものを自身が生きる日常からは排除して生きている、と言える。自分の人生には悪のひとかけらも無い。あったとしてもそれは生きるためには止むを得ないことなのだ、とこう思っている訳だ。だから、逆に悪だと分かっている行為をする時は、きちんとした理由が必要になる。
悪いことを「しょうがない」とか「仕方がない」という理由で行う訳にはいかない。少なくとも自分自身を納得させるだけの理屈が必要だから、下人は悪を行うための「勇気」を求めた。盗人の道へ歩み出すための勇気を悪人ではないと主張する老婆に求めたのだ。
下人の盗人への道は結局のところ死人の髪を抜く老婆という存在に背中を押される形で始まったと言える。だが、先述の通り人間と言う生き物は得てして自分の行いを他人の行いに求めがちだ。人は別の誰かに背中を押されたがっているということなのだろう。特に「悪い」ことをする時は。自分では決めず、他人の行動という証拠にすがりたいのだ。あくまでも自らの意志で悪となったのではなく、悪への道に背中を押されて仕方なくなったのだと、聞かれてもいないのに弁解したいようである。分かりやすいのはスピード違反で警察に厄介になる時に誰もが一度胸中で思うことだ。
「なんで自分だけが捕まるんだよ。他のヤツらだってやってるのに」
私は別にこの妄想の中で人の善悪について本格的に論じたいわけではない。単純に人と言う生き物にはこういう性質があるんじゃないかな、とゾウリムシ以下の脳みそで思っているだけだ。
逆説的な考え方として、悪が日常から切り離されているのなら、日常が悪と呼ばれるものを呑み込んでしまった場合に、呑み込まれた悪は悪と呼べるのだろうか。日常化した悪は当人たちにとって悪とは認識されない。老婆を見れば一目瞭然である。老婆にとって死人の髪を抜くという悪は「しょうがない」ことであり、飢え死にしないためにはその行いを「仕方がない」という日常に呑み込むしかないのだ。こうして人は究極的には命を守るために、悪を日常に取り込んでしまうのではないだろうか。
と、ここまで妄想して一つ気が付いたことがある。
それは、先ほどまで考えていた「門」の役割だ。
門には内と外を分ける境界としての役割があると考えてみたが、もしそれだけの役割だとしたら、何も「門」である必要はない。衝立や壁、塀でも二つに分けることができる。「門」には通過させる役割もあるではないか。「あちら」と「こちら」を分ける境界であると同時に、「あちら」と「こちら」を繋げる道にもなる。
このように思いながら、もう一度このお話を読んでみると、『羅生門』という舞台に集まった様々な二者があることに気が付かされる。下人と老婆、未だ悪人にならざる者と既に悪人となった者、死者と生者、男と女、光と影。ほとんどは下人と老婆が持つ性質であるが、そういった境界を隔てて隣り合う性質を持つ二人が境界たる「門」の上で出会う。そして、下人は「門」の反対側にいる老婆を見て呆気なくその「門」を通って、老婆側に行ってしまったのだ。
この構成であるからこその『羅生門』という題名なのではあるまいか。下人のような人間の持つある種の俄かには受け入れ難い性質を、描き出すストーリーの題として、これほど相応しいものは無いように私には思えてならない。
最後に、改めて申し上げるが私がここに書いたことは全て私の妄想の産物であって、何か根拠があるだとか、絶対に貫き通したい主張とかがある訳でもない。本を読んでどんなことを思うのかなんてことは全く全然、まんじりともせず読み手だけのモノだ。だから私はこのお話はこう読み解くべきだとか、偉そうな高説を垂れるつもりは毛頭ないし、一切意図はしていない。もしそのように読めてしまうのなら、その点だけはご理解いただきたいし、大変申し訳ありませんと、首が地面にめり込むほど謝罪したいと思う。
と、言うわけでこれからも私は本を読むたびにこんな取り留めもない妄想をして、更に私のしょーもない記述欲がどーにもこーにも抑えられなくなった時に読書妄想を書いてみたいと思う。物好きな方がいらっしゃって、もしこの文章をお読みいただいているのなら、くどい様だが重ねてもう一度お願いを申し上げたい。
どうか、命だけはお助けください。
読んだ本
芥川龍之介 著 『羅生門』(青空文庫)
底本「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1986年(昭和61年)年9月24日第1刷発行
1997(平成9)年4月15日第14刷発行
読み晒せ‼ 読書妄想文~ゾウリムシの脳みそから~ 牛尾 仁成 @hitonariushio
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