ひなたにもどる
瑞野 蒼人
本編
曇り空から、ぼんやりと太陽の輪郭が見えた。
気温15度。
暖かくも、寒くもない、2月の昼過ぎ。
私は大阪・難波のターミナル駅にいた。大きなスーツケースを持って、黒いワンピースに身を包んで、肩甲骨あたりまで伸びた黒い髪は束ねてポニーテールに。すこし周囲とは浮いた格好をしていた。
「まもなく、林間都市行き区間急行が発車します」
私は重たいスーツケースを引きずって、ギリギリで電車に飛び乗った。高速バスからの乗り換えに手間取って、急行に乗れなかった。しょうがなく、ひとつ下の区間急行で大学近くの家に帰ることにしたんだ。
電車に乗るときは、決まって一番後ろの車両に乗ることにしている。車両の一番後ろのスペースは、席が何もなかったり、逆に優先席があったり、いろいろな使われ方をしている。この電車は、二人掛けの普通の席になっている。その二人掛けのところに腰を下ろす。
午後のすこし傾き始めた太陽は
私に気を遣ってくれたのか、私の席を暖かい日向にしてくれた。
しかし、正月のときにはこんなに早く
もう一回帰省することになるとは思わなかった。
というかいま思えば正月からもう雲行きは怪しかった。
前から体調を崩していた母は、年明けにはすっかり寝たきりになっていた。本当はそのまま田舎に居たかったのだが、大学生で学年末テストやレポートの提出など、いろいろなことが待ち構えていて、後ろ髪をひかれる思いで九州から大阪に戻った。
そしたら、ちょうど全部片付いた授業最終日。
「もう無理かも」という父の短いLINEで
私はすべてを察した。
ようやく田舎に戻ったときには母はもう冷たかった。感傷に浸ってたら、すぐにおわかれの準備をしないといけない、とお父さんに急かされた。そこからはあんまり覚えていない。気がついたら火葬場にいた。
「残念だったね」
「まだ若かったのにね」
「ご愁傷様です」
たくさん、たくさん、たくさん、たくさん
そんな言葉をかけられた。
でも、不思議なことに涙は出なかった。
別に私の心が冷たいとか、そういうことじゃなくて、もちろん悲しかったよ。
そりゃ、たくさん泣きたかったけどね。
泣いて母が生き返るなら、私いくらでも泣くけどね。
でもそうじゃないから、泣いてばっかいられない。
「お前、本当お母さんに似たよな」
大阪に戻る前の日、ご飯を食べているときにお父さんに言われた。
「え、どういうところが?」
「そういう、気丈なっていうか、達観した?みたいな」
「どういうこと」
「まあつまり、しっかりした性格ってことよ」
私は少し笑って、こう返した。
「私、そんな言うほどしっかりしてないよ。めっちゃ泣きたいし」
するとお父さんは、私にこう返した。
「お前はそう思うだろうけど、泣きたいときに泣かなくて、怒りたいときに怒らないことを覚えるのが、大人になったってことなんだから」
その言葉で、なんとなく私は確信した。
大学3年生になって、就職活動を始めて、そこから急に腹をくくったような「すべてを覚悟した自分」がいることに初めて気づいた。何があったって、そんなに動じないよ。みたいな、達観したような?知らんけど。
自分の思い通りにならなくてわんわん泣いていた子供の頃の私を思うと、どこでこんなに大人びた考えになったのか不思議だった。でも、そこには「時間の流れ」が確実に存在していて、いろんな通過儀礼を潜り抜けていくうちに、私はいつの間にか昔の私を脱皮していたんだろう。知らんけど。
って、難しい言葉使いすぎ。私。
ぐるぐる頭の中できょうまでのことを振り返っているうちに疲れてしまって、ふうっと大きなため息をついた。帰りは交通費を節約して高速バスで大阪に戻ってきたので、寝不足でしょうがなかった。
周りを見渡せば、カラフルな洋服でおめかしした人ばかり。それもそうか、今日は連休の中日、こんな天気なら出かけずにいられまい。色味のない黒い服を身にまとった人は、この車両の中では私ぐらいだった。
たたん、たたん
たたん、たたん
たたん、たたん
ぎー
たたん、たたん
一定の周期で刻まれていく、電車の心音。
頭の中のノイズをゆっくりと洗い流していく。
ひとりっきり、ただひとりっきりでこうしている時間が、少しでも長く続けばいいと思うぐらいに穏やかで何も起こらない。一生電車に乗っていたいぐらい、この時間が
好き。
電車は、過去と未来がひと目で見てわかる。
前を見れば、1秒先の未来がどんどん迫ってくる。逆に後ろを見れば、1秒後の過去が飛ぶように後ろに流れていく。電車が走ってきたレールは、全て過去になっていく。その光景が、なんだかとてつもなく儚くて、夢中になってずっと眺めてしまう。
「ママ、おそとみたーい」
「お外見たいの?はい、見える?」
反対側の席に、親子連れが座っていた。4歳か5歳ぐらいの男の子が、椅子に膝立ちして、外の景色をつぶらなひとみで見つめていた。
「ゆうちゃん、お外見たいの?」
耳に、母の声が触れた。
急に、驚くほど鮮明に再生されたものだから
私はびっくりしてしまった。
自分の右手で、左手を優しく包む。そして、ギュッと握る。
子供の頃、手を引かれてお出かけしていた頃のことを思い出す。田舎にいるときはどこに行くにも車で、母と電車に乗るのは博多とか特別に遠くの大きい街にお買い物へ行くときだけ。それこそ、ビッグイベントだった。
たくさん遊んで、いっぱい買い物して、くたくたになって乗る電車。たまにすごく混んでて座れないときには、手をつないで一番うしろのところに立っていた。
これまで生きてきたなかで何回も母と手をつないできたけど
そのときつないだ手だけは、一生忘れられない。
それぐらい、優しくて、強い、手だった。
1秒1秒未来へ進んでいく電車のなかで、私は母のお腹の中に戻ったような、優しいぬくもりに包まれて、ひととき居眠りした。
そのときだけは
悲しかった昨日をぜんぶ忘れて
ただ、このひとときの幸せに身を任せられた。
「よう、お帰り」
駅の改札口に、彼の姿があった。
「あれ、もしかして迎えに来てくれたの?」
「そこの本屋行きたかったから。ついでついで」
「素直じゃないなぁ。はい、そこのキミ、スーツケース持ちたまえ」
「うっわー、せっかく迎えに来た彼氏をパシリに使う気?」
「パシリって言わない。荷物持ち」
「それをパシリって言うの」
「とかいいつつ持ってくれるの優しいねぇ」
「持たなかったら怒るくせに」
彼がスーツケースを引いてくれる。
疲れた腕がやっと開放された。
私は思いっきりうーんと背伸びして、肩の力を抜く。
ふいに、私から手をつないでみた。
彼の手は、表面は冷えて冷たいけど、内側からじんわりと暖かさが伝わってくる。
「なんで笑ったの?」
「べつに?」
「なんで手繋いだの?」
「べ〜つに?」
こんな調子の私に、彼もつられて笑った。
電信柱の灯りは、私達が歩いていく未来を
20秒ごとに、明るく眩しく照らしてくれていた。
[完]
ひなたにもどる 瑞野 蒼人 @mizuno-aohito
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