第肆話

「はぁ……はぁ……誰か、いらっしゃいませんか……」


 鬼屋敷を出立したものの、目的地は未だ遠い山深い山道の片隅で、桔梗は原因不明の高熱にさいなまれ身動きがとれず難儀しておりました。

 また、不運とは立て続けに訪れるものでありまして、ちょうどその頃といえば酒天童子とその子分の鬼が恐れられていた時期でございます。

 桔梗が進んでいた山道は旅人達が避けて迂回していたことも重なり、人が通りすぎることがなかったのです。


 助けを呼ぼうにも返事はきじや猿といった畜生くらいなものなので、途方にくれた桔梗はかたわらにあった岩に腰かけ休んでいました。

 霞がかかる頭のなかに、何故だか酒天童子の声が甦りました。

 傲岸不遜な、だけど寂しそうな声を――


 無理矢理あの鬼屋敷に連れ込まれ時は、命を失うことも覚悟していました。ですが数日共に過ごした日々の中で、この鬼は本当に根っからの悪なのかと疑問に思うことも多々あったのです。

 どうにも人間臭い一面が顔を覗かせ、その度に人をさらう鬼ということも忘れてつい好奇心を持つ自分がいたことに素直に驚いたものです。


 ――あれだけ啖呵を切っておきながら、まさか道中で行き倒れてるなんて思いもしてないでしょうね。


 日が暮れる前に次の集落に辿り着かねばと桔梗は立ち上がろうとしますが、躯は言うことを聞きません。そのまま草むらに転倒してしまい、遠退く意識の中で目の前に真っ赤な彼岸花が生えているのに気がつきます。

 人の生き血を吸って育つ――そんな謂われもある血のように赤い彼岸の花を眺めているうちに、桔梗の意識もまた此岸から彼岸へと堕ちていきました――


 次に目を覚ますと、見覚えのある一室に寝かされてました。

「ここは……鬼屋敷?」

「そうだ。行き倒れていたお前を部下がここまで連れて帰ってきたのだ」

 振り向くと、いつものように酒を嗜みながら壁にもたれかかる外道丸が桔梗を見つめていました。

「私は……たしか高熱が出て倒れていたんですよね。何故出ていった私を助けたのですか?」

「さぁな。今はとにかく休め。お前の躯は普通なら死んでてもおかしくないほどの高熱が出ていたのだ。鬼の秘薬のお陰で一命は取り止めたが、まだ動くには不自由なはずだ」

 彼の言うとおり、その場から立とうとしても足腰に力が入らず、ついには布団の上に倒れてしまいました。


「全快するまでは此処にとどまっておけ。なにやら麓からキナ臭い臭いが漂ってくるからな」

「それでは……お言葉に甘えて」

 桔梗は目的地に辿り着くことが出来なかったことを嘆きましたが、再び外道丸と再開したことに悪い気はしませんでした。

 むしろ放っておけば野垂れ死んでいた自分を助けてくれたことに感謝する気持ちが勝っていたとも言えます。


 部屋を去ろうとした外道丸の背に、ポツリと呟きます。

「私は……今ほど貴方の顔を見てみたいと思ったことはありません」

「顔だと?それなら……」

 桔梗の不可解な物言いに首を傾げると、一つの可能性に思い当たりました。

「……お前、目が」

「はい……私は盲目でございます。この世に生まれ落ちた瞬間から眼が見えぬのです」

 なるほど――それなら鬼の姿を怖がる道理もない。

「なるほどな。一つ問うてもよいか」

「ええ。構いません」

「お前の瞳には俺様はどう写る」

 見えぬ眼に何が映ると、頓知とんちか禅問答のような質問に桔梗はどう答えるか。

「そうですね。私には――何処にでもいそうな男性に見えますよ。人も鬼も、一皮むけば何が潜んでいるのかわかったものではありませんから」


 その言葉は、鬼に身をやつして以来聞いた覚えのない言葉でした。

 鬼の頭領が人間に「何処にでもいそうな」と告げられた事実は、しかしそれほど悪い気分にはならなかったのです。


 その夜は桔梗と床を共にしました。

 無粋な事は申し上げたくないですが、二人の間に肉体関係はありません。

 満月の月明りが二人を照し、夜が更けていくことも忘れ語り合ったのです。そこには一匹の小さな鬼と一人の人間が、心を裸にして向き合っていたのです。

 不思議なことに、桔梗の心に触れると人であった頃の記憶が甦りました。呪いの効果が薄れたのか、それとも桔梗という女性の力なのかわかりませんが、一つ確かなことがあります。

 桔梗の心に触れるうちに初めての感情を持ったことです。

 そして――心の奥深くには、眩しいくらいの輝きが見えました。その輝きこそ想いを寄せる男性への恋慕だったのです。


 ――そうか。この輝きこそ人は慈しむのだな。


 人である頃から失ってしまっていた感情を思い出すと、頬を雫が滴り落ちていくのに気が付きました。


「泣いているの?」

「これが、涙か。随分と苦しいものだな。人間という生き物はこのような痛みに耐える強き者なのか」


 ともすれば裂けてしまいそうな胸の痛みに耐え、傍らに寄り添う桔梗の姿を二度と忘れぬよう目に焼き付けておこうとじっと見つめ続けていました。

 明日になったら男のもとまで送り届けよう――覚悟するには苦い薬を飲み込んで、静かに眼を閉じました。


 翌朝――桔梗は目を覚ますと、既に酒天童子は隣にいませんでした。

 これまで朝は遅かったはずなのにと不思議に思いながら部屋の外に出ると、どうしたことか鬼の気配が少しも感じられません。

 かわりに鼻を覆いたくなるような血生臭い臭いが辺り一面に漂っていました。その瞬間、屋敷の内部で何が起きたのか、嫌でも想像してしまいました。

 つまり――屋敷内の鬼達が撃ち取られたということを。

 勝手知ったる屋敷内を、まだ生きてると信じている彼の名を呼び続けながら歩き回っていると、鬼屋敷で一番の大広間の前まで辿り着きました。

 中からは大きな物音が絶えず聴こえてきます。

 中の様子を窺おうとそっと襖を開けると、耳をつんざくほどの叫び声が轟きました。


「桔梗!?どうしてここに来た!今すぐここから逃げろ!」

 桔梗が聴いたこともない慌てぶりで外道丸は叫びます。それはただ事ではない状況を彼女に伝えるには十分すぎるほどでした。


「オイ。ソコノオンナ。オヌシガキキョウカ」

「ど、どなたですか?」

 酒天童子とは違う。生者とはかけ離れた存在の声がする方に顔を向けると、辺りに何者かの気配が幾つか感じられます。


「こいつらは陰陽師が放った式神達だ。俺はこいつらを抑えるだけで精一杯でな。悪いが今すぐここから逃げてくれ」

「ナニヲイッテイル。ワレラハマダタワムレテイドニシカチカラヲフルッテナイゾ」

「ワレラハセイメイサマノツカイデキタノダゾ」

「急いで逃げろ桔梗!こいつらはお前の事も殺すつもりだ!」

 必死の叫びが通じたのか、桔梗はその場から離れていきました。


「そうだ……それでいい。あとはお前達を片付けてから桔梗の後を追えば――」

「ダレガワレラデスベテダトイッタ」

「ワレラハセイメイサマノツカイデキタ」

「ワガアルジニハモクテキガアル」

「オマエハアシドメサレテイルコトニモキヅカナイ」

「まさか狙いは……」

「キヅイテモオソイ」

「ワレラヲタオサネバ」

「サキニハススメナイノダカラナ」

「くそ……」


 ――頼む。どうか生きて逃げ切ってくれ。桔梗――

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