第六話

「――ああっ、くそがっ!」

 悪夢から目覚めた。外は眠りに落ちる以前より雨の勢いが増していた。額を手で拭うと玉のような汗を書いていた。

 少しでも気を抜くと夢に現れる。いつでも俺の頭を侵食しようと過去の事細かな記憶どもが、逃れられないと嘲笑うように今でま俺を苦しめる。

 子供ガキの頃とはもう違うというのに、あの頃の言われるがままの弱い俺じゃないというのに、両親が夢に出てくるだけで未だに嫌な汗が止まらない。

 過去の記憶にさいなまれる弱い自分が阿呆らしかった。もう誰にも馬鹿にされる筋合いはないというのに、なにに怯えろというのだ。


 もたれたコンクリートの壁から伝わる冷気が心を冷たくしていく――独居房にぶちこまれると、どんな大罪を犯した者でも嫌でも自分と向き合わざるを得なくなる。こんな土砂降りの悪天候の日にはより一層だ。

 時間は腐るほど有り余っているから、思いだそうとしなくても向こうから勝手に顔を覗かせてくるからタチが悪い。

 こっちは思い出したくもないというのに。


 小学校の頃、俺を堂々とイジめていたクソガキや、使い物にならない先公、陰口しか聞けない半端者に、露骨に避けていく女ども。

 そして、俺の人生を生まれた瞬間から歪めた両親人でなし

 どいつもこいつも、昔と逆の立場になれば笑えるほど無様だった。泣いて許しを乞いて涙と鼻水と涎で醜いツラさせて、笑いすぎてついしまうことも多々あったが、これも因果応報というやつだ。

 これまで数えきれない犯罪を繰り返してきたし、善悪なんて感覚はとうの昔にイカれたっきりまともに働いてはいない。そのきっかけはあの父親を刺したときだ。

不思議なことに罪悪感など微塵も感じなかった。

 裁判官にも、弁護士にも、そのことを問われたが、むしろ解放感すら感じたことを伝えると眉をひそめられ、ゴミでも見るような目で見下されたことは忘れない。

 だからなにも知らない奴らに言ってやった。

「お前も経験してみたらわかるさ、望まれない子供ガキの末路なんてどれも似たり寄ったりだ」と。

 それでも、当時はこれで少しは救われると思っていたが、待ち受けているのは更なる地獄だった。

『地獄の底は存在しない』

 いつか兄貴アニキがいっていたことは本当だった。

 一度転がり始めたら止まらない。底無き底に向かって転がり続けるしかないんだと――


「でも、ばあちゃんにだけは悪いことしたなぁ」

 父親を殺した二ヶ月後、後を追うように自殺した祖母には申し訳ない気持ちが多少はあった。

 面会も手紙も受け入れる気はなかったあの頃は、全てを憎んで、全てを諦めていた。どうせ誰も助けてくれない――そんな思いで誰とも接したくなかったから。

(もし、一度でもばあちゃんに会っていたら……俺の人生は変わっていたのか?)

 もしもの話を持ち出したところで現実は変わることはなく、虚しくなるだけだった。

 そんな世界はあり得ない。俺が選択してなるべくしてなった。それだけのことだと、いつものように意識を暗い水底へと沈めていく。

 眠るとまた過去あいつがやってくるから、朝まで冷たい水底で揺蕩うのが一番だ。

 タラ・レバを考えたところで、もう取り返しのつかないほどこの両手は汚れてしまっているのだから、考えるだけ無駄というやつだ。



 暗い底で、名案が浮かんだ。

 ――そうだ。もう汚れきっているのなら、出所したあかつきには俺をボロボロにしやがったあの母親ろくでなしも、オヤジの元へと送ってやろうか。

 そんなことを考えていると、誰も入ってこれないはずの独房エリアに見知らぬ男とガキが突っ立っているのに気がついた。

 とうとう一人に耐えかねて頭がおかしくなったかと、無性に笑いたくなった。

 どうせなら狂えば少しは楽になれるだろうに――

 こんな世界は狂ってるくらいがちょうどいい。


『幻ではありませんよ。私とこの子は確かにここにいます』

「ああ?おいおいなんだよ。看守はどうしたんだよ」

 あまりに場違いな色男と、その子供にしては大きいガキの組み合わせは、独房の温度を少し下げたような気がした。背筋が冷たくなる。

 ――おかしくなった訳じゃないなら、こいつはなんなんだ?

『申し遅れました。私、曼殊沙華まんじゅしゃげという葬儀屋を営んでおります、深山童子と申します。こちらは、』

『……』

 深山と名乗る男は、バカ丁寧に檻越しに名刺を手渡してきた。名刺には葬儀屋社長と記載されているがどうでもいい、男の足元に投げ捨ててやると、表情を変えずに話を続ける。

 気に食わない野郎だ。


「葬儀屋だぁ?そんなの信じるかボケ。あと、なんだそのガキは」

「……ばぁばだよ」

「はぁ?」

「神崎忍。翔大ちゃんのおばあちゃんだよ」

「……なんの目的でこんなことしてんだ?その名前は冗談で出していい名前じゃねぇぞ。……そうか、看守とグルなんだな、お前たち」

 そうだ、このおかしなやつらは、きっと俺を嫌ってる看守からの嫌がらせだろう。

 俺の態度に腹を立てたあのボンクラが呼んだ役者かなんかだな――

「いいか、さっさと失せやがれ」

「翔大ちゃん。昔、おばぁちゃんのお家で大好きなショートケーキ食べていたでしょ?電車の車掌さんになりたいって言ってたじゃない」

「なんでその事を知ってるんだよ。誰にも話してねぇぞ」

『今、この子の体には神崎さまの魂が憑依しています。つまり仮の肉体を得たことで、あなたに会いに来ることができたのです』

「はぁ?ばぁちゃんの魂だって?どこまでバカにすれば気が済むんだ?」

「翔大ちゃん。聴いてちょうだい。私はね、翔大ちゃんに謝りたくてここに来たの」

「ああ?なんだよ」

「おばあちゃんはね……ずっと後悔してたの。息子夫婦のしていたことになにも言えず、翔大ちゃんを苦しめていたことに」

 最初はタチの悪い冗談だと思っていたが、ガキの口からは、俺とばぁちゃんしか知らねえ情けねぇ過去の話が、すらすらと語られていくことに驚きと怒りが沸いてきた。


「ほんとうに……ばぁちゃんなのか」

「ええ。ばぁちゃんだよ」

 目の前の十歳くらいにしか見えねぇガキの顔が、次第に生前のばあちゃんの顔と重なるように見えてきた。

 アホらしいがどうやら悪夢の続きをみているようだ。起きてても過去あいつは逃がしてくれないらしい。


「……どうでもいい。消えてくれねぇか。今さらなんも用はねぇよ」

「そんなこと言わないで……。私はあるわ。ずっと言えなかったことがあるの。それだけは言わせてちょうだい」

「頼むからもう消えてくれよ。あんたの声を聴いてるとな、嫌でも昔のことを思い出すんだよ。化けて出てくるにしても、ちぃっとばかり遅すぎたんだ。結局死んでからも遅すぎたんだよあんたは」

 看守が飛び出てきてもおかしくないほどの声量で叫んだにも関わらず、物音一つしないのはおかしい。

 廃墟で一人叫んでいるように声が反響し、吐いた言葉が自らの心に響き渡る。

 何もかも、遅すぎたんだ――

 俺の叫びに、ばぁちゃんはなにも言えなくなった。ただ、涙をこらえ檻越しに見つめてくる。


『少しだけ、聴いていただけませんか?』

「あ?なんだテメェ」

 そこで色男が割って入ってきた。その顔は狂暴な男などいくらでも見てきた俺でさえたじろぐ目付きをしていた。

『もう、神崎さまに残された時間は少ないのです。今腹を割って話さないと二度とお会いすることは叶わなくなりますよ』

「……どういう意味だよ」

『亡者というのは、死ねば彼岸ひがん、あの世へ成仏するのが定められた摂理です。しかし、なかには成仏できずにずっと現世をさ迷い歩き続けてしまう亡者も存在します。そのような亡者は己が抱いた未練を晴らさない限りは成仏できません。あなたのお婆様も残された未練を晴らすためにこうやって貴方のもとへと訪れたのです』

「なんだよ、 その未練って」

『まだわかりませんか。貴方を縛っていた、ご両親の愛情というほどく為ですよ』

「……なに?」

『死んだからといっていつまでも現世に留まれるわけではなく、いつかは記憶の風化と共に存在も失ってしまうのです。あなたのお婆様も残された時間はあとわずかでした。その残りの時間を貴方のこれからの人生のために使うと決意されたのです。そして、彼女の未練は……』

「深山さん。それ以上は」

『神崎さま……貴方はそれでよろしいのですか』


 今度はばぁちゃんが色男の言葉を遮った。

「翔大ちゃん……これだけはいわせてくれないかしら」

「なんだよ……」

「わたしはね、翔大ちゃんがどんな人生を歩もうとも、どれだけ変わってしまおうとも、誰よりも翔太ちゃんを愛しているからね」

「はぁ?なにいってんだ……おい、なんだその光は」

 俺を無視して二人は会話を続ける。

『いいですか?そちらにいけば、永遠の「無」しかありませんよ?』

「ええ。これはわたしの罰です。簡単に成仏することなんて許されません。それに、もう二度と先に救われることなんてあってはいけないのですから」


「なに勝手に話を進めてるんだよ!ばあちゃんがどうなるっていうんだよ!」

 俺の目の前には、ガキからすり抜けるように光の粒子が漏れだしていた。蛍の光のように優しい光が独房内を明るく照らす。

 次第に粒子は塊となり、懐かしいばあちゃんの姿へと変わっていった。

 最後にみたときと変わらない、優しい微笑みを湛えていた。


「おい……ばあちゃんはどうなっちまうんだよ」

『この愚か者が』

 それまで優男だと思っていた深山からは、想像もできないほどの怒気を孕んだ冷たい声が放たれた。その人とは思えない恐ろしさに俺は腰を抜かしてしまうほどだった。

『お前は、神崎さまの言葉に聞く耳も持たず、何も信じようとしなかった。残された時間で未練を晴らすことは出来ないと判断した彼女は、たった一言だけお前に遺し、未来永劫此岸しがんをさ迷い続けることを決めたんだよ』

「は?さっきからなにいってんだよあんたらは……。未練だとかなんだとか、どうせ悪夢ならもっとましな内容にしやがれってんだよ」

『もうなにを言っても遅い。本当はもっと語りたいことがあったんだろうが、今となっては……』

 男はばあちゃんの方を見ると、悔しげに唇を噛んでいた。

『もう……ああなっては声も届かぬし、消え逝くのも時間の問題だ』

 すると、ヒトの形を保っていた光が、徐々に崩れ始めてきた。手足から、少しずつ、確実に――

 その光景に理由わけもわからず、涙が溢れた。


「おい!なんだよこれっ!夢じゃねぇのかよ!」

『そう思うなら思えばいい。きっとお前はこれから先も変わらずゴミのような人生を送るだろう。だが、神崎さまの最後の言葉、絶対に忘れなければ、まだやり直せるはずだ』


 そういうと、深山は側でぐったりしていた千代を抱き抱え去っていった。


 残るのは、微かに漂う光の粒子のみ。


「俺……どうすればいいんだよ……」


 一粒の光が、両手をつき泣き崩れる男の頭を撫でるように飛んでいき、虚空へと消えていった。



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