第五話
『――どうですか?やり残した未練は思い出せましたか?』
深山さんが涼しげな顔で訪ねてきた。先程は恐ろしげな腕に変化していたはずなの右腕が、今では元の細い腕に戻っていた。
「いえ……孫を助けたいというのが未練なはずなんですけど……でも、まだ何か大事なことを思い出せていない気がするんです」
孫が不登校になるところまで思い出したけど、その先にあったであろう出来事がまだ思い出せていない気がした。
そのことを深山さんに伝えると、顎に手を当てなにやら思案しているようだった。
『それでは、もっと深く潜る必要がありますね。神崎さん……これから思い出すことは、下手をするとあなたの心を粉々に砕いてしまう恐れがあります。そうなると未練を晴らすどころか、存在そのものが消えてしまいます。それでも立ち向かう勇気はありますか?』
これまでの余裕を感じさせていた顔とは一変して、私の意思を確認するその表情には適当は答えは返せない神々しさにも似た雰囲気が漂っていた。
だけど、私もこれ以上半端者ではいられない。
人は死ななきゃ直らないとよくいうけど、だからこそ死んだ私は変わらなくちゃいけないんだから。
孫を助けるためには、なんだってする。
口に出していない想いをまたしても汲み取ったのか、深山さんは優しく微笑むと、その手にいつの間にかあの真っ黒な箱を乗せていた。
『これから潜る記憶の最深部は、神崎さまが固い鍵を掛けてまで表に出さないようにしていた、いわば記憶の劇物です。触れば
「心が読めるのでしょう?知ってますか、老人は一度決めると頑固なんですよ」
『これはこれは失礼致しました。それでは、ご健闘を祈っています』
箱の蓋が再び開き、禍々しいまでの黒の中へと落ちていった――――
酷い頭痛を催し、わたしは眠りから覚めた。
――はて、ここはどこかしら。さっきいた場所より真っ暗だけど……。
そこは、光もなければ音もない。進んでいるのか後戻りしているのかもわからない。タールの海のように淀み息苦しい空間だった。 ただただ――広大な暗闇しか存在しない空間。
深山さんが宇宙のようなものだといっていたけど、ここはそんな生易しい場所でない気がする――生も死も何もかも無くした空っぽな場所。
――こんなところ、私は知らないわよ。
平泳ぎのように両手両足を掻き、前だと思われる方向へと進んでいく。なにも見えないし、もしかしたら一ミリたりとも進んでないのかもしれないけど、何故かこの先に目指す記憶がある気がした。
ただ、同時に行ってはいけないと忠告を促す声も聴こえる。紛れもないわたしの声だ。
深山さんがあれほど忠告していたのだから、きっと行けば後悔する
それでも――おばあちゃんは翔大ちゃんを助けなくちゃいけない。
待っててね、翔大――
何日、何週間、何ヵ月さ迷い続けただろうか。時間の感覚などはなから存在しないから、外がどうなっているかもわからない。ひたすら苦しみに耐えながらの行軍となった。
もし生きている頃に同じことをやってのけようとしたら、間違いなく発狂するだろうどこまで続く闇の先に、ほんのわずかだが針の穴から覗くような、うっすらと暗闇を照らす光が見えた。その光めがけて最後の力を振り絞り突き進む。
もがいてもがいて、一心不乱に突き進み、次第に大きくなっていく光が、その正体を徐々に明らかにしていく――その光はどうやら蛍光灯の灯りらしく、ぼんやりと浮かぶ灯りにわたしの体は吸い寄せられるように吸い込まれていった――
『残念ですが……到着したときには、既に』
「そんな……」
――どこよ……ここは。
切れかかっている非常口のランプが焦燥感を掻き立てる。廊下のソファに座っていた私の身体は芯から冷えていた。
心も――温度をなくしていた。
手術中と灯されていたランプが消え、緑色の手術着を着た医者がいかにも残念そうに顔を横に振り、僅かばかりの謝意をこめて頭を下げた。
「息子が、刺されて亡くなったって本当ですか?」
先生にしがみつき、混乱しながら問い詰める私がそこにいた。
『司法解剖で判断されることですが、十中八九、臓器まで達した刺し傷による出血性ショック死でしょう』
――あああ。息子は、殺されてしまったんだ。
孫の、翔大に。
『面会は拒絶してますよ。何度来られても顔は合わせないの一点張りです』
溜め息混じりに刑務官は漏らしていた。
「そうですか……」
翔大は……幼稚園、小学校、中学校と、受験の失敗を繰返した。
両親からの重すぎる期待を一身に受け、その重力に耐えきれず、人格を否定する言葉で殴られ続ける。その繰り返しの人生に、すっかり心も躰も摩耗しきっていた。
なんとなくで入学した高校は、地元の
不登校になったかと思えば、夜の街へと繰り出すようになり、気づけば見事に街の
きっと、家族の
そして、とうとう事件は起こるべくして起こった――久しぶりに顔を合わした父親と口論になった翔大は、カッとなった勢いで父親を包丁で刺した。
瀕死の状態で救急車を呼んだものの、内蔵まで届いた刺し傷が致命傷となり、病院に到着した頃には既に息絶えていたらしい。
最後に何を言い残したか、今となっては知るよしもない。
その後少年院に収監された翔大とは、面会どころか手紙のやり取りすら拒絶されていた。
翔大の罪はわたしの罪――と、これまでの自らの過ちと後悔を欄間へとくくりつけ、そして――
「――ああ、思い出しました。私は、なにもできずに、自殺したんです」
目を開けると、そこは
どうやら記憶の底から戻ってきたようだ。
『よろしければ、これでお顔をお拭きください』
差し出されたハンカチを受け取り、知らない間に涙でぐしゃぐしゃになった己の目頭を強く抑える。
「私は、私は、翔大を救いたかったんです……。人生は勉強だけじゃない、親の言うことを聞くだけが人生じゃないんだって……。だけど、弱くて、なにもできなかった私は、簡単に死を選んだ。翔大を、一人苦しめるとも知らずに、わたしだけ先にこの世から逃げてしまったんです……」
『それは大変苦しかったでしょうね。でしたらやるべきことは決まっています。お孫さんにその想いを伝えに行きましょう』
「え?どうやって……」
『今回は特別サービスです。依り代を与えますので、その中に入っていただければ姿は見えずとも言葉は伝えられます。千代、おいで』
『はーい!』
とてとてと近寄ってきたお嬢ちゃんが、私のか細い手を取ると、なんとその手からあっという間に吸い込まれ、気が付くと自分の体が小さくなっていた。ついでに見える世界も広くなっていた。
「え!?体が小さくなってるんですけど」
『千代の能力の一つです。さぁ行きましょうか』
この二人はいったいなんなのだろうか。今さらながら不思議に思う。
深山さんが運転する車、霊柩車で向かったのは、街の郊外にある少年院だった。
「翔大はその後何をしたんですか?」
雨が打ち付けるフロントガラスをワイパーがせわしなく動き続ける。
『殺人未遂ですね。身寄りを無くした彼には荒れに荒れ、後に暴力団に出入りするようになりました。その頃対立していた暴力団と抗争まで発展し、運悪く敵幹部に対する鉄砲玉に仕立てあげられ、結果失敗に終わったようです』
「そんな……」
『会うのはやめておきますか?会ったとしても、当時のお孫さんとは別人になっておりますし、想いは届かないかもしれませんよ?』
「いえ、会わせてください。私は最後まで将太に向き合えなかったんです。この機会を逃してなるもんですか」
『かしこまりました』
そう言うとアクセルペダルを踏みこみ、少年院へと疾走した。
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