第四話

『小学校は絶対に有名私立に合格するんだからね!わかった?』

「うん……わかった」

『父さんと母さんの期待を裏切るんじゃないぞ』

「なにも今日そんなこと言わなくても……翔大の気持ちを考えてごらんよ」

 ――目覚めると、ダイニングテーブルに翔大とわたしを含めた四人が座っている。

 卓上の中心にはホールケーキが添えられ、ロウソクと平仮名で<しょうた>とかかれたプレートが乗せられているところから、ここが翔大の誕生日を祝っている場面であることがわかった。

 しかし、その雰囲気は子供の成長を祝うような幸せな空気とは程遠く、どうやら誕生日を迎えたことで受験まで一年を切ったという現実が、息子夫婦にプレッシャーとなっていたようだ。

 可哀想に対面に座る翔大も居心地が悪そうだった。

 ――子供の成長を祝うことよりも、そこまでして受験に合格させることの方が大事なのかい……。

 翔大も少しは物心つく年齢となり、自分が両親から受験戦争を勝ち抜くことを期待されていることを、何となくだが理解していたようだ。

 だからこそ自分の誕生日にプレッシャーをかけてくる両親に思うところはあっただろう。

 その小さな拳は強く握られ、ズボンにしわの跡ができていた。

 わたしは、それをわかっていながら、またしても息子に強く言うことができないでいた。

 ――いつも中途半端に口を出しては、その都度引き下がってばかり。もっと強く伝えていれば、翔大は苦しまなかったかもしれないのに――


 場面はまた変わった。そこは昼だというのに日差しが入り込まない薄暗い和室だった。

 ――ここは……私の家じゃない。なんでここに?

 亡き旦那と子供たちと過ごしていた二階建ての家は、一人で住むには広く、衰えた私には管理が行き届かず老朽化も進んでいた。

 息子夫婦からは、さっさと手放すなりして老人ホームに入ったらどうだと催促を受けている。

 だけど、ここを手放すにはあまりに想い出が多い。亡き夫との想い出も、子供を一人立ちさせるまで育てたわたしなりの想い出も、それに――もし手放してしまったら、翔大の逃げ場がなくなってしまうのでは、という思いが意地でもこの家を手放そうとはさせなかったのだ。


 わたしは、なにやらタンスの奥を漁っている。

 暫くごそごそと手を動かしていると、箪笥の奥に巧妙に隠しておいたゲーム機を取り出し、居間で手持ち無沙汰に待っている孫のもとへと軽い足取りで持っていった。

 ――そういえば、こんなところに隠していたんだねぇ。たまに訪れる鬼嫁にバレやしないか冷や冷やしたもんだよ。

 息子夫婦は、翔大を生んでからも共働きは変えなかったので、家が近かったわたしはこうして孫の面倒を見る機会が多かった。

 わたしが面倒を見てる時くらいはと、実家では禁止にされていたお菓子や、ゲーム、漫画、とにかく同年代の子供が普通に楽しんでいる娯楽に、好きなだけ触れさせてあげたかった。

 そのなかでも、翔大は電車の図鑑をいたく気に入り、将来は車掌さんになるとその時だけはを輝かせて夢を語っていた。


『ねぇ……おばあちゃん』

 ショートケーキを前に、いつもは笑顔で食べ始める翔大が、なにやら顔を曇らせおずおずと喋り始めた。

「なぁに?翔大ちゃん」

『あのね……ママも、パパもね、クラスのお友だちと遊んじゃいけませんっていうんだよ?僕は友達と遊びたいのに、なんで遊んじゃいけないのかな』

 翔大は、期待された私立小学校の受験も両親の期待には応えられず、地元の公立に通うことになった。それは翔大のせいではない。

 もう、あの子はいっぱいいっぱいなのだから――

 それなのに、夫婦揃って『努力が足りなかった』『不甲斐ない息子』と、幼い息子に心ない言葉を投げかけ、周りの同級生を低レベルだといっしょくたに決めつけ、子供の人間関係までに口を出す始末。

 私から見ても、翔大は決して頭がいいとは言えないかもしれない。だけどそれがなんだというのだ。

 友達を作って、車掌さんになりたいという夢を持ってるだけでも充分に素晴らしいというのに、学力というただ一つの物差しだけが人生を豊かにすると信じきっている息子夫婦が、たまらなく情けなかった。

 きっとこの子は、これからも両親の檻の中で育っていかなければならないのかと思うと、私の目から自然と涙がこぼれていた。


『おばあちゃんどうして泣いてるの?』

「ううん。なんでもないよ。ちょっとゴミが目のなかに入っただけだから」

 せめて、翔大が成人するまでは、私だけでも味方であり続けたい。それが私の願いだった。

 そして再び意識は途切れていく――



 ――ここは…………

 目の前には眼鏡をかけた神経質そうな男が座っていた。

 その後ろには黒板が見え、窓ガラスから射し込む陽光が足元を照らしている。

 対照的に陰気な顔がより暗さを増す。


『ですからね、お婆様。翔大くんがクラスメイトの男の子を殴ったのは事実なんですよ』

 ――あ……思い出した。翔大が暴力行為を働いたって呼び出しを受けたんだったわ。確か……息子夫婦ともども仕事で外せないとか言い訳して――

「それは、翔大が原因なんですか?その……同級生の子が、」

『問題は、翔大くんがという事実なんですよ。どうやら持ってきた本を取り上げられたと勘違いしたみたいで……。幸い殴られた側の怪我はあざ程度ですみましたけど、こういってはなんですが普段の翔大くんは誰とも関わろうとしないのです。休み時間になると決まって電車の本を一人で読んで。そういったところにと問題があるのかと……』

 ――そういえば、いつの間にかうちから電車の図鑑が無くなっていたけど、まさか翔大ちゃんがこっそり持ち帰っていたなんて。

 きっと、親の言いつけを守りながら自分の好きな世界に没頭していたかったのね……。

「あ、あなたそれでも教師なんですかっ!もういいです!翔大は連れて帰ります!」

「あ、話はまだ、」

 私は怒りのあまり教室を飛び出していた。

 担任教師のあまりの物言いとその体たらくに、息子に賛同するわけではないけど公立の小学校とはここまで地に落ちているものなのかと、怒りと愚かしさで身体を震わせながら歩いている。

 翔大が待っている教室の扉を開けると、消えてしまいそうなほど存在感が希薄な背中をこちらに向け、孫は机の上に座っていた。

 その視線は校庭で遊んでいる生徒たちに注がれていた。


「翔大……ばぁばと帰ろうか」

「……」

 翔大は頷くだけで、座っていた机からぴょんと飛び降りると、俯きながら私の先を歩いていく。

 こちらを見ようともしないその目には、もうどうしようもないという徒労感と絶望感が見えかくれしているように思えてならなかった。


『おばあちゃん……』

「なぁに?」

『僕なんて、生きてる意味ないのかな……』

「なにいってるの!そんなことないわよ。ほら、翔ちゃん、たまにはおばあちゃんとご飯食べに行きましょ?」

『もう……学校に来たくない』

「翔ちゃん……」

 大粒の涙を溢し、声にならない声で泣く孫に、なんといってやればいいかわからなかった。

 ――あのとき、先を歩く孫に心から声をかけてあげていたら……いや、いつもそうだったんだわ。後で後悔ばかりして、結局ただの一度も翔大を救ってあげられた試しがない。

 私はいつだってダメなおばあちゃんだったんだ。

 そこで世界は、またしても暗闇に落ちていった――



 ――ここは……夜なのかしら?

 意識が戻ると、そこは真っ暗な場所だった。

 一瞬夜の世界かと思ったが、掴んだカーテンを開け咳き込んでいるところから、換気していない部屋特有の埃が充満した室内のようだ。

 歩いた振動で舞い上がるちりや埃が、室内を照らす陽光でその存在を示す。

 部屋の隅のベッドには、人一人分の布団の山ができていた。


「翔大ちゃん。もうお昼よ。そろそろ起きましょう?」

『うるさい!出てけよ!』

「そんな言葉使っちゃいけないわ……。あの頃の優しかった翔大ちゃんに戻ってちょうだい」

『どいつも、こいつも、俺のこと馬鹿にしやがって!』

 布団から勢いよく起き上がった孫の姿は、三十センチは大きくなっていただろうか。

 両眼は真っ赤に充血し、その声は子供から大人へと代わっていく時期特有のモラトリアムを孕んでいた。

 ――これって、もう中学生になった頃の翔大じゃない。この頃は、息子夫婦は翔大に興味を持っていなかった……育児放棄のようなものよね……。

 自分達の思い通りに育たなければどうでもいいなんて……。

 自分の親に息子の面倒を見させるなんてどうかしている。


 明るさを取り戻した部屋の室内には、これまで繰り返し使ってきたであろう使い古された参考書や、志望校の対策本などが本棚にぎっしりと納められていた。

 この数年間、翔大がどれほどの時間を割いて、文字通り血反吐を吐くような思いをして両親の期待に答えようとしてきたか、その証がそこには確かに存在した。

 誰が孫を責めることができるものか――

 息子も、私も、結局人一人が壊れていく様を傍観していただけにすぎないのだから。

 嫁は中学受験も失敗に終わると、家庭にも興味を失ったのか、幾ばくかの慰謝料を支払いカッコウのように何処かへと消えていった。

 託卵――そんな言葉がぴったしな母親だった。


「とにかく、起きて顔を洗ってきなさい。酷い顔してるわよ」

 無理矢理孫の身体を起こすと、恨みがましい目で私を睨み、渋々起き上がると洗面所へと向かっていった。

 のそのそと歩く孫の背中には、取りきれない重石が乗っかっているように酷い猫背となっていた。

 いつからこの子はこんなに背中が曲がっていたのだろうか――そんなことにも気づかないほど、私も孫に諦めを抱いていたのかもしれない。

 ――今思うとこの頃からだったか、いくら面倒を見ても変わらないのではと、そんな勝手な自己弁護で気を紛らわし始めたのは。


 孫の背中を眺めていたはずが、何者かの手が私の腕を掴み、遠く遠くへと引っ張っていく。

 みるみるその背中は小さくなっていき、気付くと辺りは真っ暗な元の空間へと戻っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る