第三章 神崎忍(70代無職)

第一話

 ――あら?こんなところに葬儀屋さんなんて、あったかしら……。

 長い時間さ迷い歩き、導かれるように辿り着いたそこは見知らぬ葬儀屋だった。

 いつ頃からだろうか――もう何十年前か思い出せないくらい昔の話だけど、まだこの辺りが焼け野原だった頃から私はこの町に住んでいた気がする。

 ちょうどその当時あったような、懐かしい外見の建物が目の前に建っていたことに驚いた。

 ――懐かしいわぁ。よくこんな建物が残ってたわね。


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 葬儀屋【曼殊沙華まんじゅしゃげ】は、仏様を極楽浄土に送り届けます


 見上げると、昔の映画館の広告のような、懐かしい手書きの看板が掲げられていた。何やら怪しげな文言が書かれていたけど、お年寄りには、このくらいわかりやすいほうがいいかもしれないと思う。

 近頃はなんでも小さく書いてあって、わかりにくいのよ。


 ちょうどその頃、遠方から雷鳴が聴こえてきた。反射的に上空を見上げると、空には灰色の雲が低く垂れ込み始め、タイミング悪くぽつぽつと嫌な雨が降ってきた。

 ――いけない……確か洗濯物を取り込んでる途中だったのに、こんなところで油売ってる場合じゃ……

 降り始めた雨は、次第にその雨脚を強め、足下が濡れるほどの土砂降りへと変わっていった。

 アスファルトへ強く打ち付ける雨から逃れるように、道行く人は各々おのおのの目的地へと急いで走っていく。

 服が濡れてしまうのは流石に嫌だったので、目の前の葬儀屋のひさしを拝借し雨が通りすぎるのを待つことにした。


「まったく……困っちゃうわね」

 いってから、何に困ったのかは自分でもよくわからなかった。

 ただ、洗濯物のことではない気がする――それが何かはわからない。

 視線を落とすと、足下は便所サンダルで、腰までの前掛け、部屋着――どこからどうみても、よそに出掛ける格好ではないことは明白だった。

 ――こんな姿で出歩いてるのをご近所様に見られでもしたらなんて言われることか……。

「あそこの奥さんとうとうボケ始めたんじゃない?」と言われるのが関の山だ。

 などと不安に考えたところで、実際はそんなこと気にする必要ははなかった――何故なら私のことが視える人なんていやしないんだから。

 彼女は気づいていた。自分が、もうこの世のものではないということを。だけど、ふと寂しく思うことがある。

 誰にも気づいてもらえないというのは、本当に寂しいものだということを――


 再び見上げると、空一面に墨をこぼしたような雲が拡がり、逃げ惑う哀れな人間めがけ、機関銃で一斉掃射するような暴力的な雨を落としていく。

 近所では木に雷が直撃でもしたのか、大きな雷鳴ととてつもない破壊音がとどろいた。

 その衝撃すら、私の体にはなにも響いてこない。



 ――わたしは……なにかとても大事なことを忘れて、ずっとさ迷っている気がする……。

 いつまでも影のようにつきまとっているのに、決して触ることのできないような、言い知れぬ不安が常に傍らにある。

 だけど、それが何かを思い出せないのだ。

 人は死ねば消えると、当たり前のように思っていたけど、なんの罰か、こうして今もさ迷い続けている。

 その大事なことというのは、イメージだけど、頭のなかで見たこともないような太い鎖で、手当たり次第雁字搦め《がんじがら》めにされ、これまた巨大な南京錠で鍵をかけられてしまった箱の中にあるような状態で、取り出そうにも鍵の開け方がわからない。

 そればかりか、鎖はどんどんと太くなっていき、もう私の細腕じゃびくともしないほどまで大きくなっていた。

 そもそも、なんで鍵を開けようとしているのかも、時偶ときたまわからなくなってきているという始末――始末に負えないとはこの事か。


 周囲の雑音を消すほどの雨音が、私の焦燥感をより掻き立てる。

 <このまま忘れちまいな><楽になれるぞ>

 そう囁いているように聴こえてしまうのだから、わたしはそろそろ危険水域に入ってるのかもしれない。

「あの雲が晴れる前に、わたしの記憶も戻らないかしらねぇ……」



『あれ?おばあちゃんどうしたの?』

 ――予期せぬ声に、私はあたふたしてしまった。おばあちゃんとはわたしのことかしら?

 何者かと辺りを見回すと、硝子ガラス戸の隙間から、随分と可愛らしい女の子が顔を覗かせていた。

 彼女はもしや、子、なのかしら?


「あらあら、お嬢ちゃん可愛いわねぇ。このお店の子かしら?」

「お嬢ちゃんじゃなくて千代だよ!ってそうじゃなくて、そんなところに突っ立ってないでなかに入いりなよ」

 とてとてと近寄ってきた女の子は、小さな手のひらで私の手を取ると、半ば無理矢理だけど、店内の中へと案内してくれた。

 わたしに話しかけてきたことにも吃驚びっくりしたけれど、まさか直に触れられるなんて、初めての体験だった。

 そもそも、本当はお客でもなんでもないんだけれど、どう説明すればいいかもわからずただ黙って引っ張られていくしかなかった――



「お嬢ちゃん、わたしのこと視えるの?」

『だから千代だって。もういいやお嬢ちゃんで、とりあえずそこに座ってて』

 質問には答えてくれなかったけど、どうやら本当に視えているようだし会話も成立している。たったそれだけの事実だけど、その事実が嬉しかった。


 ――それにしても、店主はどちらにいらっしゃるのかしら?こんな小さな子を一人にしておくなんて。

『お兄ちゃんは仕事で外に出てるよ。たぶんもうすぐ帰って来るからそれまで待ってて』

 まるで私の心を読むように、千代ちゃんは答える。

 ――もしかして声に出してたかしら?年取ると一人言も多くなるしね。

 小さな手で急須にお茶っ葉を入れて、慣れない手つきでお湯を注いでいるお嬢ちゃんに目が止まる。


 ――見た目は可愛らしい女の子なのに、なんだか今時の子らしくないわねぇ………おかっぱ頭がいけないのかもしれない。

 そう思わせるのは髪型も要因のひとつだけど、漂う雰囲気が、どうにも私の幼少時代の頃の子とかぶってしまう。

 時代が代われば、その時代に生きる子の雰囲気もつられて変わるものだけど、この千代という女の子は何世代も前の子供しか出せない空気をまとっている気がするのだ。

 ある意味親近感がわくけれど、もしかしてこの古い家に住み憑いている座敷童なのではと、つい勘繰ってしまった。

 もしそうであるなら、わたしと話せるのも不思議ではないんだけれど――

 もっとも、そうだとしても可愛らしいお洋服を着せたり、軽くお化粧をしてあげたら光輝きそうな原石なのは確かで、そういえば小さい頃に人気のあったお人形さんにも見えるわねと、愛しい眼差しで彼女の背中を見つめていた。


 店内も、彼女と雰囲気があってるというか、前時代の懐かしい家電や家具に囲まれ、葬式屋さんというより、昭和初期の生活を教えてれる資料館のようだった。


「――それじゃあ、お兄様がいらしたらお礼をいわないといけないわね」

『気にしないでいいよ。どうせいつかはここに来ることになってたんだから。それよりおばあちゃん、どうしてこんな雨の日に出掛けていたの?』

 その質問にはなんと答えればよいか、いささか迷った。まさか幼い千代ちゃんに、「気付いたらお店の前にいたの」なんておかしな話をするわけにもいかない。

 いや、すでに充分わたしの存在がおかしいけれど、なんとなく適当な嘘をつくことにした。

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