第六話

「ああ……今日の夕御飯どうしようかしら……」

 独り暮らしを始め、はや二十年経つというのに、未だに慣れない一人分の献立に頭を悩ませていた。

 初めの頃は二人ぶんを作っていたけど、それも一年と経たず破綻した。

 足元では、老年に差し掛かったシロが夕飯を催促してくる。

「ちょっと待っててね」

 近所にスーパーはあるものの、お総菜類の種類が乏しく、毎回食べているとすぐに飽きてしまうのが難点だ。

 かといって外食で済ますほど金銭面で余裕があるわけではない。こつこつ節約をして、なんとか食いつないでいる状態なのだから。

 独り暮らしをしていると見に染みてわかるけど、一人分の食事というのは、作るとなると案外お金がかかる。

 どうせなら三人分くらい作れたら……と、もう叶わない妄想をしてしまった自分に嫌気が差す。


「どの口でそんなこと言うのよ」


 近頃軟骨がすり減ったせいで痛む膝をさすりながらキッチンへと向い、冷蔵庫にある食材で簡単に済ませてしまおうと、味気ない料理を作り始めた。


 ――昔は、時間があれば二人で台所に立っていたんだけどね……。

 結婚前は、肩がぶつかるほど狭い台所に立ち、二人仲良く料理を作っていた。

 二人だったら、楽しいことも辛いことも共有できていたはずなのに、結婚後は立ち上げたばかりの会社を守るため必死に働く夫に不満を抱えていった。

 二人の時間は減っていき、たまにご機嫌とりに買ってくるブランド物のプレゼントばかりが増えていったことだって、私もいつの間にかそれを当たり前のことだと思っていた節がある。

 景気が悪くなった頃だって、会社を建て直そうと必死に働いていた夫の身を案じるどころか、帰ってきた夫に不満しか言わなくなり、どう解決するかよりも自らのストレスを発散するためだけに罵詈雑言で罵っていた。

 結婚前の私が見たら、相当に嫌な女だと思ったはず、実際嫌な女に成り下がっていた。


 味方はどこにもいないと勝手に決めつけ、自分は悪くないと家族を放ったらかしにして外で遊んでいたやましい時期もあった――

 死ぬまで墓に持っていかなければならない過ちも犯した――

 それなのに、私は、私自身が一番の被害者だと主張していた。

 みんな、どこかでいっぱいいっぱいになるまで我慢していたというのに、私はヒビが入った家庭を見殺しにした……。男と逃げて、手離した。

 娘のことだって放置して、あの人を見殺しにまでした……。

 私は、死ぬまで赦されることはない。

 赦されてはいけない。



「……あ、いけない」

 考え事をしていたら、食材を焦がしてしまった。

「これじゃあ、食べられないわね……」

 フライパンから焦げ付いたそれをゴミ箱に捨てると、途端に涙が溢れてきた。

「う、うう、あああ………」

 膝の力が抜け尻をついて泣いていると、餌をねだっていたシロがしきりに顔を舐めてくる。

 外は鈍色にびいろの雲が低く垂れ込み始めた。



 ――大丈夫だ。俺たちは間違えたけど、それでも気づくことはできた。

 最高な人生とは言えなかったが、俺と巴が出会って、茜が生まれたんだ。それを考えたら最低では無かったろう?

 俺は、お前を愛し続ける。約束だ。どうせ聞こえやしないだろうから、勝手に決めるからな。

 あの世でお前が人生を全うするまで、ずっと守ってやるから。

 だから、とびきりの笑顔で、前を向いて生きてくれ……。


 キッチンでしゃがみこんで泣いている巴を見つけた俺は、そっと、その背中から手を回し抱きつく格好となった。

 実際に触れられる訳じゃないが、心から願った気持ちはちゃんと生者に届くと、到着するまでの間に深山に教わったので、必死に妻への想いを願った――

 すると、不思議なことにあれほど号泣をしていた妻の顔が、出会った頃のような柔和な表情へと変わっていったではないか。


「あなた……治さん……私は赦されてもいいのかしら」

「ああ……許すよ、巴。もう鎖は無くなったんだ」

「治さん……?ここにいるの?」

「――!?」

 巴のまさかの発言に、死後硬直したように固まってしまったが、きっと妻の気のせいだろう。

 彼方あちらからは、此方こちらが見えないはずだから。

「治さん……いたら、私を抱き締めてちょうだい……」

 何年ぶりに聞いただろうか、妻の願いを――

 いい歳して何いってるんだ、なんていわないさ。

 正面に移動し、透明の両腕で、ひしと妻を抱き締めた。

 ――巴、俺と出会ってくれてありがとう。


 なんだが、体が軽くなった――


 泣いてはいたが、すっきりしたような妻の顔を見たとき、もう大丈夫だと、確信した。

 お次は茜だ――

 外には深山が待機しており、助手席からは女児が顔を出しこちらを見ている。

『ほらー!さっさとしないと日が暮れちゃうよー』

 こちらの気も知らずに。そう笑う俺の顔は、少し柔らかくなっていたことに、ほんの少しだが嬉しく思えた。



「コラッ!何回言えばわかるの!」

「うるせぇババァ!」

「ひろしっ!あーもうっ!」

 只今息子は絶賛反抗期中だ。中学生にもなると、力ではとうてい敵わなくなる。

 口ですらその勢いに負かされ、何も言えなくなる始末。

 旦那は日和見主義というか、争い事が苦手なのでどうも割って入ってくるようなことはしない。もしかしたら、息子のなかで夫は私よりも地位が下に見られている可能性もある。

 子育てとは、こうも大変なのか。

 生まれたばかりの頃は、そりゃあ可愛かったし、それなりに体力も持ち合わせていたから大抵のことはやってのけた。

 だけど、この数年は次の日に疲労が残り、気付けば巨額負債のように両肩にのし掛かっているではないか……。

 夫はフレックスタイム制の仕事だから、ある程度は家事も手伝ってくれるから助かるけど……他の家庭ではそんなことは珍しいみたい。

 私はまだ恵まれている方なの?

 今思えば、私が子供の頃なんて、お父さんの仕事は比べ物にならないくらい忙しかったはずだと、今なら理解できる。

 一代で会社を興し、成長させ、景気が悪くなっても生活水準を落とさないように孤軍奮闘していたお父さんに、私もお母さんも、勝手に見切りをつけちゃっていたんだ。

 お父さんが悪くはないとは言わないけど、それでも歩み寄ることを放棄した私たちにだって非はあったのに、結局最後まで和解することは出来なかった。

 こうして子育てをして初めてわかったけど、何が正解なんてわかりっこない。

 毎日手探りで、その繰り返しが子育てなんだ――

 今さら後悔してもお父さんが帰ってくることはないけど……出来ることなら謝りたかった。

 素直になれなくてごめんなさいって――


「いいんだよ。茜の気持ちは届いたから――」

「えっ!?誰!!」

 突然私しかいない部屋で、男性の声が聴こえた。

 幻聴にしてはあまりにリアルな声は、しかし、懐かしい男性の声にも聴こえた。

「茜、お父さん、お前のことちゃんと見てやれなくてごめんな。一番辛いときに、仕事に逃げたお父さんが悪かった。お前はまだまだ長生きしてもらわないと困るけど、ずーっと先、向こうで会うことができたら、そのときは文句でもなんでも言ってくれ――」

「お父……さん?」

 口から自然とこぼれた言葉に、思わず苦笑いをした。

 いい歳した大人が何いってるんだか――

 でも、少し心が軽くなった気がする。久しぶりにお父さんのこと、考えたからかな?

 そういえば、近頃お墓参りにも行ってなかった。久しぶりにお母さんを誘って、お父さんに会いに行こうかしら。

 二階にいる息子に聞いてみよう。

「ひろしー!来週空いてるでしょ!お祖父ちゃんのお墓参り行かない?」

「ババァと違って、ちゃんと一人でいってますー」

 あら、全然気がつかなかった。これじゃあ親として恥ずかしいわね。



 ――茜も、もう大丈夫そうだ。優しい子だったから心配していたが、ちゃんと母親をやってるじゃないか。

 親はいなくとも子は育つか……少しばかり寂しいが、この成長を見れて良かったよ。


 二人の未練をほどくと、いつの間にか俺の体が宙に浮きそうなほど軽くなっているのに気が付いた。


 さて、俺もそろそろかな。

 空高く舞うように、力をこめてジャンプした――




『お帰りなさいませ。未練は果たせましたか?』

「ああ。もう何も思い残すことはない」

『そのようですね』

 深山の視線が足元に落ちたので、つられるようにみると、足先から光の粒となり消えていくのがわかった。

「なあ、俺の死は無駄にはならなかったか?」

 最後に、俺らしくない質問をした。

それに微笑みながら深山は答えた。

『貴方の死は、残されたご家族の胸に消えぬ灯火となり残り続けるでしょう』


 ――そうか。俺の死は無駄にはならなかったか――


 それがわかると、旅立ちの合図のように、光の粒子となった俺の体は空へと融けていった。



『今日もお疲れ様。お兄ちゃん』

『ああ。でも今回は疲れたな』

『そうだよね。もうちょっとで記憶を完全になくしそうな人だったもん。体、大丈夫?』

『大丈夫だよ。千代。俺にしかできない仕事だからな』

『でも、いつまで続けなきゃならないの?』

『……さぁな。神のみぞ知る、ってところかな』


 ぬるいお茶をすすりながら、次のお客を今日も待つ。



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