第五話

 ――眩しいな……ここは……。

 猫の額ほどの、名も知らぬ雑草たちがそこかしこから生えた小さい箱庭で、白い毛玉のような子犬と戯れる、自分の姿がそこにあった。

 腹を見せて甘える子犬に、脂肪も筋肉も剥がれ落ちた細い腕でわしわしと撫でている。それに気持ち良さそうにもっと掻けと催促するようにワンと啼いた。

 平凡な光景――ただそれだけの光景だった。

 隅に置かれた犬小屋には、<シロ>と書かれたネームプレートがかかっている。

 ――人と顔を会わせるのがしんどくて……動物ならと保健所に行ったときにシロと出会ったんだ。

 穢れを知らないような無垢な白さに惹かれて、その日のうちに連れて帰るとシロなんて捻りもない安直な名前をつけて、毎日孤独を紛らわすように日がな一日中遊んでいたんだっけな。

 俺みたいな男に引き取られて、お前にも申し訳ない子としたな――


 後ろから眺める己の姿は、もはや実年齢の一回りほど老けこみ、その背中からは生きていくに必要な何もかもがこぼれ落ちているようにみえ、憐憫れんびんを誘うほどに小さくなっていた。

 ――これが晩年の男の姿かね……

 世の、生きる目的がない男たちの、典型的将来像がそこには確かに存在した。

 室内に目をやると、くすんだ壁にかけられたカレンダーは二年前で止まっている。

 ――俺の人生は、離婚を切り出されたとき既に時間が止まってしまったのか――それとも、娘に存在を否定され、縁を切られ、もう前にも後ろにも進むのに疲れ果ててしまったときに、その歩みが止まってしまったのだろうか――

 誰も座ることのないリビングのテーブルには、大量の薬が散らばっていた。



 ――そんな、出来の悪い映画のような、誰にも知られることなく幕を閉じたろくでもない人生が、ボタン一つで再生されては終わりに近づいていく。

 人生は選択の連続だと何処かの誰かがいっていたが、この映像をみる限り、自分がよかれと思ってやってきた行動は、どれも的はずれで、酷く間違い、結果、解答用紙はバツだらけの人生だったに違いない。

 赤点もいいところだ、いや、点すらつかない――さて、そろそろ、この三文映画も終演おしまいの時間だ――



 ――目覚めると、そこは始めに見せられた病院の一室だった。

 俺はベッドの上で仰向けに寝ている。

 光を失い暗く濁った虚ろな瞳は、辛うじて真っ白な天井を見つめているようにみえたが、視界に写るものを認識しているとはとても思えなかった。

 俺の両隣には、髪も染めず、白いものがだいぶ目立つようになった巴の姿と、パイプ椅子に座ってゲームに熱中している孫、それに苦言を呈す茜の姿があった。

 静かな病室に、心電図の作動音と、ゲームの音が虚しく響く――

 医者には死期が近づいてるとでも言われたのだろうか、巴も茜も、なにも言わずに枯れ木のような男を静かに見下ろしていた。

 <ゲームオーバー>

 孫は飽きたと言って、ベッドにゲーム機を投げ捨てる。俺の脛に投げたゲーム機が当たった。

 巴と茜の表情からは、なにも読み取れない。

 なにも考えていないのかもしれない。

 しばらく俺を眺めていた巴は、ポツリと洩らした――


『もし……お互いが、ほんの少しでもいいから、本音でぶつかり合って、寄り添おうとしていたら……こんな結末にはならなかったのかもしれないわね……』

 表情は相変わらず変化がないが、その口調は昔ほどのトゲはなく、長年まとっていた鎧を脱ぎ捨て、背負っていた重さから解放されたような、しかし空虚な軽さが感じとれた。

 茜も続けて洩らす――


『私も、これまで向き合う機会はあったというのに、最後まで目を背けたままだった……』

 いつの頃からか思い出せないほど、家庭はバラバラの状態になっていた。機能不全もいいところだ。

 お互いがお互いを理解しようとせず、血という鎖に縛られ残された二人は、俺が死んだあともなお、後悔を続けていたのだ。

 俺が悪いはずなのに、俺は、今の今まで自分の責任だと思い込んでいたのに、むしろ余計な荷物を妻と娘に背負わせていた事実に、一番のショックを受けた。

 ――死んでもなお、家族を鎖で縛っているのは俺じゃねぇか……。

 心電図の波長が揺らぎ始め、アラームが狭い病室に鳴り響く。

 さすがに、巴も茜も博史も、狼狽を見せる。

 ――最後の最後までごめんな。


 そこで世界は幕を閉じた――



『自らの未練を、確認できましたか?』

 気がつくと、深山さんが目を覚ました俺に声をかけてきた。

「ああ。だがこれからどうすればいいんだ?」

 俺の質問に、待ってましたと言わんばかりにある提案をしてきた。


『ご家族に会いに行きましょう』




 俺の未練を晴らすため、深山が運転する車で妻と娘の元へと向かっている。

 なんで個人情報を知ってるんだと、つっこみたくなるがそれは深山のことだ。もう何を知ってても驚きはしない。

 現在二人は同居しておらず、巴はどうやら独り暮らしをしているようで、お互いの家は近いのにたまに顔を会わせる程度の仲らしい。

 聴けば大概のことは答えるこの男には、何でもお見通しのようだ。俺が言うのもなんだが、きっとまともな人間ではないんだろう――いや、人間ヒトですらないのかもしれない。

 それと、もう死んだ身だから気にはしないが、今現在乗車しているのはあの霊柩車だ。

 深山は仕事で乗ってだろうからおかしくはないが、幼い女児が嬉々として乗り込むは、やはり妙な光景だった。


 窓の外を流れていく景色を見て、これまでの人生を振り返る――人は時として、横や後ろを向くことがあるかもしれない。疲れたり、傷ついたり、悲しくなったり、そんなときは休めばいい。

 だけど、それだけじゃ先には進めないんだ。前を向かない限りは進むことはできやしないんだから。


 俺の鎖が、今も家族を縛っているのなら、その未練から解放させてやる――

 三人を乗せた霊柩車は、低いエンジン音をアルファルトに轟かせ、目的地へと走り抜けていく。

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