第四話

 ――こんどは……どこだ?

 早送りのように時間が流れていき、次に意識が戻ると、そこは小学校の校門前だった。

 桜が満開に咲き、風が吹く度に花弁はなびらが舞い上がり、新入生の子供たちが後を追って走り回っていた、

 入学式と書かれた立て看板の横では、真新しい真っ赤なランドセルを背負って、弾けるような笑顔を向ける茜と、結婚当初より、やや化粧と目の下の隈が厚くなった妻の巴が、カメラの前で並んでポーズをとっていた。

 ――この日は、そうか、茜の入学式だ。

 あの頃は会社の業績が上向き、仕事も忙しくて滅多に家に帰らない日々が続いていた。

 巴には専業主婦として一人で家事育児を任せていた。それで問題はないと思っていた。

『ねぇ、あなた。入学式には出るわよね?せっかくの晴れ舞台なのよ?』

「すまん……これから商談が入ってるんだ」

『パパ、おしごといっちゃうの?』

『幼稚園の時もそうだったでしょ?たまには茜の成長した姿を見てあげてよ』

「悪い……今日は夕飯要らないから!」

 写真を撮り終わると、恨めしそうに見る妻と寂しそうな娘を残して、俺はその足で学校をあとにした。

 ――このあと、確か商談に向かったんだが、ギリギリまで粘っていたせいで、遅刻して、結局破談になっちまったんだ。

 もし、あの日あの場所に残っていたら、何か変わっていたのだろうか

 ――再び意識が途絶える――




 ――さて……次はどの場面か……

 意識が回復すると、そこは豆電球だけが点いている真っ暗な室内だった。

 壁時計は深夜の一時を指し、ちょうど帰宅したタイミングだったのか、くたびれたジャケットとネクタイををソファに放り投げると、冷蔵庫から取り出した発泡酒を飲み、リビングで一人くつろいでいる俺の姿があった。

 その顔には、若かりし頃の情熱や希望など見受けられず、途方もない疲労と乗しかかる責務に追われた末の皺が、深く刻まれている。

 自分の溜め息だけが響くリビングに、二階から誰かが降りてくる足音が聞こえてきた。

 鬱陶しそうに目を擦り、機嫌の悪さを隠そうともしない妻が、苛立たしげに明かりを点ける。


『あなた、今何時だと思ってるのよ……』

「しょうがないだろ……。どこも景気が傾いてるんだ。従業員を守るためには身を粉にしてでも働かんと示しがつかないだろ」

『そうやって……なにかと理由つけては家の事蔑ないがしろにして……。どうせ私にだけ任せとけばいいとか思ってるんでしょ?』

「なぁ……お前の愚痴は勘弁してくれ。もう疲れ果ててるんだよ」

『あなたがそんなに家族に無関心だから、茜は外をほっつき歩くようになっちゃったのよ!』

「おい、時間を考えろよ。近所迷惑になるから静かにしてくれ」

『娘の事より世間体ですか……。もういいです……』

 そういい残すと、言っても無駄とばかりに、力任せに扉を閉め二階に戻っていった。

「ちょっと待てよ……ったくよ。業績がいいときはバカみたいにブランドもんばっかねだってた癖に、いざ経営が下向きになると途端にヒステリーかよ。こっちの苦労も知らねぇで暢気のんきな女だ」

 一気飲みして空になった缶を、俺は腹いせにフローリングに思いきり投げつけていた。

 それで気分が晴れるわけでもなく、床に当たったスチール缶の甲高い音が、心を逆撫でていた。


 ――一連のやり取りを客観的に見ていて、俺は心から辛くなった。確かに世界的な金融危機の余波でうちの会社も打撃を受けていたのは事実だ。

 だけど、巴が言っていたように大事な一人娘の茜をないがしろにしていい理由には断じてならない。

 それなのに……父親にも関わらず家族と正面から向き合おうとも思っていなかった。放棄していたといってもいい。

 <俺は仕事が忙しいんだ>

 <家族に構ってる時間なんてない>

 <家の事で問題が起きるのは妻であるお前のせいだろう>

 と、免罪符にもならない言い訳をでっち上げては、毎晩毎晩喧嘩に発展するほど険悪な仲だった。そんな環境で子供が悪影響を受けないはずがない。

 俺は家庭の事は全て妻に任せっきりで、ただ仕事にだけ向いていればいいとどこかで思い違いをするようになっていたのかもしれない。

 そして、この頃から俺も巴も互いに愛想を尽かして家を開ける回数が増えていった。


 二本目のプルタブを開けた俺は、空きっ腹にひたすらアルコールを流し込んでいる。

 お酒でとにかく気を紛らそうとしているのがすぐにわかった。何故なら他にどうすればいいかわからないからだ。

 頭上でチカチカと点滅する電灯が、家族の危険信号を伝えている警告信号に見えたところで、再び意識が途切れる――



 ――ここは、どこだったか……

 何処かの個室だろうか。ガラスの向こうには、立派に手入れされた日本庭園が広がり、清流の中を鯉が気持ち良さそうに泳いでいた。

 その雰囲気から察するに、何処かの高級料亭のようだった。

 俺の隣には、年相応に年齢を重ね肉付きがよくなった巴と、美しい木目のテーブルを挟んで斜め左には少女から大人の女性へと成長した茜、そして俺の正面には、場の空気に呑まれまいと緊張した面持ちの男性が着席していた。


『お義父様、お義母様、このような事後報告になってしまい、大変だった申し訳ございません。今現在、茜さんのお腹には私達の子供が宿っています』

 目の前の男性は、挨拶もそこそこに畳へ額をつけ、土下座をした。

 ――くそっ、そうだ、ここであの忌々しき報告を受けたんだ。

「で、出来ちゃったのか?俺はそんな話聞いてないぞ!おい、お前、どうやって責任取るつもりなんだ」

『もちろん結婚するつもりです。いずれプロポーズはするつもりでしたが、順序が逆になってしまったのは私の責任です。殴られてもしょうがないと思ってます。ですから……どうか結婚をお許しください!……』

 事の顛末を聞かされておらず、ただただ狼狽ろうばいする俺とは対照的に、隣の巴は表情を変わらず――

 恐らく事前に聞かされていたのだろう。

 その妻は、『頭をあげてください』と土下座を止めさせ、二人に諭すよう言った。

『あなた達が考えに考えた末の決断で結婚をしたいというならすればいい。私は反対しないわよ。ただ、結婚生活の大変さは結婚してみないとわからない。いいわね?』と、どこか他人事のように賛成を表明した。


 ――俺が何を考えてるか、よくわかるぞ。口だけじゃなんとでも言えるんだよって、目の前の二人に腸煮えくり返ってるんだよな……。

 それに勝手に結婚に賛成する巴にも怒ってるんだろ?ほんと愚かな男だよ……。

 でもな、俺には何一つ怒る資格もないんだ。俺はずっと家族を、茜を放っていたんだからな。

 なんでそんなことが理解できてなかったんだろな、俺ってやつは――


「私は認めんぞ……。そんな無計画な男に大事な一人娘をやるなど、絶対に許さんからな!」

『まってよお父さん!彼は……ちゃんと私のことも、お腹の子のことも考えてくれてるよ。……そもそもさ……私をずっと無視し続けてきたお父さんが今さら父親面なんておかしいと思わない?今日だってね、顔合わせだけはちゃんとしようって彼がいうからしたまでのことなの!でも、それも無駄だった……あなたはなんにも変わらない!』

 そう啖呵を切ると、茜はお腹を抱えながら、涙をこぼし走り去っていった。

 ――ほらみろ。俺の日頃の行いが招いた結果がこれだよ。早く後追えよ……何突っ立ってんだよ!

『すみません……僕は茜の後を追います』

 結局二人が戻ってくることはなかった。

 こんなときでも馬鹿丁寧に頭を下げ、茜の後を追っていく男の姿を俺は思考を停止させて漫然と眺めていると、それまで隣で黙ってみていた妻が、溜め息を漏らし突然切りだした。


『私達、終わりにしましょう』

「は?急になんだよ」

『私、もうあなたについていくのは我慢の限界です』


 そこで無情にも意識は途絶えた――



 高級料亭から舞台は一変し――目覚めた先は、蛍光灯が今にも切れそうな換気がなされていないかび臭い部屋だった。

 レンジで温めたばかりのコンビニ弁当を、一人寂しくもそもそと食べている俺がいた。

 当時は気にしてなかったが、白髪も、しわも、一気に増えたようにみえる。

 躰も一回り小さくなったのだろうか、まるで中身が抜けてしまったような蝉の脱け殻だ。

 背中から少しずつ魂が抜けているのではなかろうか――


『近頃のコンビニも馬鹿に出来ないなぁ……』

 誰の返事もないというのに、独り言を呟く俺の姿はみていて痛々しく、おもわず目を背けた。

 もう誰も会話をする相手もいない。

 会社は人手に渡った。

 ここには、恐ろしいほど空虚な時間しか流れていなかった――


 ――なぁ、お前は、それで良かったのか?――

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