第六話

 時計の針が日をまたいだ深夜に、見知らぬ電話番号から電話がかかってきた。


「はい。もしもし」


 <田島さまのお電話でよろしいでしょうか>


「ええ、そうですけど……どちらさまですか?」


 その電話がかかる二時間前、夜遅くに帰宅した彼女と、つまらないことで喧嘩をしてしまった。

 それまで溜まっていた鬱憤を全て吐き出すように怒り心頭だった彼女は、車のキーを手にすると着のみ着のまま出掛けてしまった。

 たまにストレス発散と称して一人ドライブに出掛けることはあったので、今日も気分が収まったらそのうち戻ってくるだろうと、軽く考えていた。

 それなのに何時間経っても一向に帰ってくることはなく、携帯にメールの一つも入らないことに胸騒ぎを感じつつ、出きることと言えば茉莉の携帯に着信を残すかメールを送ることしかなかった。


 時計の針が一秒、また一秒と刻む音を一人聴きながら寝ずに待っていたのだが、突然かかってきた見知らぬ番号がディスプレイに表示されたとき、体が硬直し、心臓の鼓動が鐘を打つように体を揺らしたことを今でもはっきりと覚えている。


 <――実は、大変申し上げにくいのですが、奥様が事故に遭われました>


「事故、ですか?茉莉は無事なんですか?」


 事故という単語を聞いた瞬間、何処かにぶつけた程度のことかと思った。

 大事なときに何をしているんだと、それまで帰りを待っていた焦燥感を茉莉にぶつけたい気持ちでいっぱいだった。


 電話口の向こう側の人物は、そのような電話を度々経験しているのか、台本に沿ったような、ほんの少しの同情をにじませつつ淡々と話を続けた。


 <これも申し上げにくいのですが、茉莉さんは即死だと思われます>



「即死……」



 足元の大地が全て崩れ落ちていく音が聴こえた。

 それはあっという間の出来事で、そのあとに何を言われたかは覚えていなかった。

 ――即死だって?そんな馬鹿な……さっきまであんな元気にしてたじゃないか。

 きっと幻聴だと自分に言い聞かせ、受話器がみしりと音を立てるほど強く握った。



 それから急いで警察に向かった。それまでの記憶はない。ただ、冷たい霊安室で対面したときの茉莉は、誰かわからないほどの損傷具合だったことは覚えている。

 後に聴かされた話だと、直接の死因は「脳梗塞」、生活習慣から推測された原因はによるものだと医師に告げられた。

 あれほどまだ見ぬ未来は光り輝いていたはずなのに、たった一本の電話で僕の時間は止まってしまった。

 いっそ、後を追ってしまえばよかったんだ――



「……今さら思い出して……なんになるんだよ……」

 部屋の片隅に伏せられた写真立ての中で、十五年たった今も変わらず茉莉は笑顔をみせていた。

「なぁ……どうしてあの日……俺を残して死んじまったんだよ……なぁ……」




 写真立てを、割れてしまいそうなほど強く胸に抱き締め声を殺して泣く陽平の姿に、死んでから今の今まで記憶を無くしていた自分を心から呪った。

 十五年間という途方もない歳月は、彼の心を癒すどころか、いつの間にか前にも後ろにも身動きがとれないほど、自責と後悔の念がその身を縛っていたんだ。

 陽平もまた、未練に縛られている――


 私は自然と陽平に寄り添っていた。

「陽平、ごめんね……。喧嘩して、家を飛び出して、あげくの果てに一人で勝手に死んじゃってさ」

 触れられない彼の背中に、抱きつくように肌をあわせる。

「私のことをずっと想っていてくれたのは、素直に嬉しいよ。だけどね……もういいんだよ。もう陽平には充分過ぎるほど愛してもらった。陽平も苦しくなるほど愛してくれたでしょう?だからね……もう私のこと忘れていいんだよ。もう自分を責めなくていいんだよ。私は……私の大好きな陽平が……幸せに生きてくれないと、いつまで経っても、死にきれないんだからね」

 私がどれだけ思いを伝えようとも、決して伝わらない言葉は、泡となり、陽平の体に融けてゆく――

「私は、私が止めてしまった陽平の時計の針を、前に進めてあげたい」


「なぁ、茉莉」

「え!?なに??」

 突然呼び掛けられたことに驚いたが、私の声が聞こえているわけではなく、どうやら一人で呟いているようだった。

「今の僕の姿を見たら……茉莉は何て言うかな。良い歳してへこたれてんなっていうのかな」

「……うん。いい加減前を向きなよ。陽平は陽平の人生を生きなきゃ」

 伝わるはずはないのに、あの日の続きのようにお互い言葉のボールを気持ちよく投げ合った。

 もちろんそんなことは偶然であって、そう錯覚しただけだと思う。

 だけど、今この瞬間だけは、心が繋がっている。そんな気がしてならなかった。

 きっと、伝わっている。大丈夫――



 玄関からドタドタと足音が聞こえてきた。

「陽平さん!?大丈夫??」

 いつの間にか知らない女性が部屋に入ってきて、大粒の涙を流している陽平にすかさず寄り添った。

 その手には、大事そうに鍵が握りしめられている。

 私の代わりに、陽平を抱き締め慰めている女性を見て思った。

 ――なんだ、ちゃんと寄り添ってくれる人がいるんじゃない。なら、なおさら前を向いて貰わないと困るわよ。


 私は二人からそっと離れた。邪魔をしてはいけない。

 きっと、私のことが大好きな陽平のことだから、全てを忘れるのは難しいかもしれない。

 だけど、隣でこれだけ支えてくれる人がいるなら大丈夫。死んでしまった私が出来なかったことは、あの女性が、私の代わりに長い人生をかけてやってくれる。

 去り際にそっとバトンを託し、二人の姿を見届けると、なんだか心が軽くなった気がする――そうか、これで私は未練こころのこりを晴らせたんだ――

 お邪魔虫は退散しようと、ふわふわとする足取りで陽平の部屋からすり抜けた。

「私みたいに、泣かせるんじゃないぞ」

 二人の門出を祝い、雲を飛び越えて飛んでいった――



 ガラガラと、立て付けの悪い引き戸が開くと、憑き物が落ちたように、すがすがしい表情の女性が訪れた。

『お帰りなさいませ。用事はちゃんと済ませましたか?』

 新聞を眺めていた男は、どうせ心が読めているだろうにわざわざ訊ねてくる。

「ええ、おかげさまで。もう未練こころのこりはありません」

『そうですか。それは良かった』

『あ、足元が消えてきたよ!』

 千代ちゃんにいわれて足元に視線を落とすと、爪先から光の粒となって私の体が消えていく。

 だけど、心は落ち着いていた。


「わたし、あの世に行くんでしょうか」

『ええ。こちらに長く滞在してらしたので、天国あちらで少々説教を受けるかもしれませんが、まぁその辺は適当に聞き流していただいて構いません』

 そう言うと、憎いほど似合っているウィンクをしてきた。

「ふふ、次に生まれ変わったら、深山さんみたいな男も悪くはないかもね」

「それはそれは光栄ですね」

「なんて冗談ですよ。生まれ変わっても、また、陽平と一緒になりたいに決まってますから」

 それまでは、名前も知らない彼女に陽平を貸しといてあげよう。


彼岸ひがんまでの道は私が繋げておきますので、天に向かって真っ直ぐ飛んでいってください』

 そういって何やら呟くと、それまでなにもなかった床一面に、綺麗な彼岸花が咲き誇り、一つ一つの花弁から暖かい光が放たれると、天井を突き抜け天高くへ舞い上がっていった。


 天国はきっとこんな美しい場所なのだろうと、感動するほどの光景だった。

 もう顔の辺りまで消えかかっている体で、最後にお礼を伝える――


「あの、何から何までご迷惑お掛けしました」

『いえ、お客様は仏様です。ご依頼を叶えるのが私に課せられた使命ですので。それでは逝ってらっしゃいませ』

「ありがとうござい……まし……た」

 光の粒子が屋根をすり抜け、空へと融けていった。




 お客が還っていった静かな曼珠沙華まんじゅしゃげで、千代は深山に、粗茶と共に労いの言葉をかけた。


『お仕事お疲れ様です』

『ありがとう千代』

『あのお姉ちゃん、ちゃんと天国まで行けたかな』

『大丈夫だよ。未練は晴らしたし、本人も現世ににとどまるつもりもない。曼珠沙華の御導きに従えば迷いはしないさ。いつものように俺は何もしていない』



 千代は、お兄ちゃんの仕事を終えた横顔が好きです。千代にはまだ早いと、少女漫画も見せてもらえませんが、千代はもう大人です。

 友達としての『好き』と、男として『好き』の違いくらいわかっています。

 鈍いお兄ちゃんのことだから、千代の気持ちをリカイしているとは思えないけど、ふと見せるアンニュイな表情がたまらなく好きなのです。

 

『お兄ちゃん!』

『なんだい?』

『ソレいけないんだよ!ヒゲしちゃダメなんだよ!他の人には出来ないお仕事なんでしょ?兄ちゃんじゃないと出来ないお仕事なんだから、自信持たないと』

 純粋に相手をとがめる、その幼子特有の残酷な正論ナイフが、男の胸に深々と突き刺さるが、それを表情には出さない。

 伊達に長生きはしていないのだ。


『俺にしか出来ない仕事……か。そうだな、確かに俺にしか出来ない仕事だな』

『そうでしょ?だから自信持ちなって!』


 彼の真意を知ってか知らずか、背中をバンバンと叩くその手から伝わってくる衝撃が、彼には優しい慰めに感じられた。

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