第五話
思いきり扉を閉めると、胃から酸っぱいものが込み上げてきたので、トイレへと一目散に駆け込んだ。
胃袋が空っぽになるまで吐き出すと、立ち上がる力も残っておらず、しばらくは便器にもたれ掛かっていた。
「クソ……なんで、今ごろあいつの名前を聞かないといけないんだよ……」
近頃、年のせいか不眠が続いている。まともに睡眠を取れたのはいつが最後だろうか。ろくすっぽ熟睡することが出来ていない。
仕事が忙しいとか、中年男の宿命だとか、周りの奴等と似たような言い訳はいくらでもできるが、それは現実から目をそらした誤魔化しにすぎないことは、自分でもよくわかっている。
翌日が休日だったこともあり、アルコールの力を存分に借りることで久しぶりに深い眠りへと船を濃いでいた。もちろん一日中惰眠を貪るつもりで床についていた。それなのに――
何かの罰とでもいうように不快なインターホンに叩き起こされた俺は、睡眠の邪魔をするのはどこのどいつだと乱暴に扉を開いた。
新聞の勧誘なら突き飛ばしてやる覚悟をしていたが、正面には辛気臭い真っ黒なスーツを着た男が立っていた。
『私、
「はぁ……」
男の俺から見ても、いや、起きぬけの腐ったような中年男から見ても、目の前の男はずば抜けて容姿端麗で、百貨店のショーウィンドウの中から飛び出してきマネキンが、目の前に立っているのかと思ったほどだ。
自らを葬儀屋と名乗る怪しげな人物で、よくわからないがファッション雑誌の表紙モデルをやってるといわれた方がしっくりくる
というか今時、葬儀屋の飛び込み営業なんて聞いたことないぞと訝しんでいると、その男からもう十数年来聞いていなかった、聞くまいとしていた名前を聞かされることになってしまった――
「くそっ……なんで今さら思いだしちまうんだよ」
頭を掻きむしり、不意な一撃に激しく動揺した心を落ち着かせようと、まだ歯も磨いていないうちから冷蔵庫の中の缶ビールを取りだし、プルタブを強引に開けて一息に半分ほど流し込んだ。
胃液が通過したあとの口の中では味も感じず、ただ苦い思い出だけが広がっていく――
あの頃の出来事は忘れよう忘れようと、必死に記憶の奥底に閉じ込めてきたというのに……たった一言、彼女の名前を聞いただけで、塞き止めていた蓋は弾き飛び、脳裏には数々の思い出がフラッシュバックし、鮮明に甦ってしまった。
我ながら、何年経っても本当に情けない男だ。
茉莉と始めて出会ったのは、私が勤めていた部署に彼女が異動してきたその日、自己紹介の時だった
課の人間が一同に揃うなか、一歩一歩力強く歩き皆の前に立つと、女性社員にも関わらず開口一番「営業成績一番をとってみせます!」なんて
見も蓋もない言葉で表すなら、それはきっと<一目惚れ>というやつだった。
仕事では持ち前の閃きのよさと、なにがなんでも結果を出すまで粘り続ける姿勢に、上層部の評価もうなぎ登りだった
そして、僕の彼女に対する想いもまた、天井知らずのうなぎ登りだった。彼女の知らないところで、恋心は募っていた。
これまでの人生を振り返っても、他人に語れるほどの恋愛経験はしてこなかった。自分に自信がないことが大きな要因でもあり、唯一交際した大学生の頃の彼女には、「あなたほどつまらない人はそうそういない」とまで罵られたほどだ。
もちろんその後、その彼女との一ヶ月の付き合いは見事にフラれて終わりを迎えた。
その後の学生生活も、社会人になってからも色恋にはよりいっそう奥手になり、自分から声をかけることもなかったのだが、茉莉を見た瞬間――年のように心がときめいたことを覚えている。
何が自分を変えたのかはわからないが、身分不相応だと知りつつも僕は彼女に猛アプローチを繰り返した。
最初は気味悪がられ、僕の誘いは何度も断られた。うんざりした彼女に「異性として見ることはできない」と突き放されたこともあるけど、自分でも呆れるほど粘りに粘って、これでダメなら諦めようと覚悟した五回目の告白で、とうとうOKを貰えたのだ。
その時の彼女の顔ははっきりと思い出せる。呆れ顔で、だけど、どこか嬉しそうな笑顔を。
念願叶って付き合い始めた頃は、お互い仕事もプライベートも充実し、とくに彼女は上司からの期待も厚かった。
そのため、仕事にかける情熱と時間の比重がだんだんと傾いていた時期だった。
そもそも挨拶で一番を狙うと豪語するバイタリティの持ち主だから残業も厭わないバリバリの仕事人間なのはわかっていたけれど、いくら人一倍仕事ができるとはいえ、体は一つ、凡人と同じ人間にはかわらない。
華奢な体に無理が祟らなければいいなと、日々彼女の体調を心配した僕は思いきって同棲を提案することにした。
僕の提案はもしかしたら一蹴されるかもしれないと危惧していたが、茉莉は特に渋ることもなくその場で縦に頷いてくれた。そして晴れて一緒に暮らすことが決定した。
仕事面で能力的に彼女についていけなくなってしまった僕は、彼女の体調を最優先に気を配ってあげようと心に決めたのだ。
同棲を初めてから、皮肉なことに彼女はより一層仕事に打ち込んでいった。男でさえ気圧されるような仕事に自ら率先して取り組み、それを成功に導くものだから僕からなにか口
プロジェクトリーダーという僕には想像も出来ない大きな責務を負った彼女は、徹夜で仕事をすることも当たり前になり、常にイライラしていたことで二人はほんの些細なことでも口論をするようになってしまった。
あの頃の二人の仲は、油を注し忘れて錆びついたブレーキのようで、常に不協和音を奏でていた。
いつの頃か、「私より仕事が出来ないくせに偉そうなこと言わないで!」と怒鳴られたことがあった。
確かに仕事では彼女に敵わないことは、早い段階で理解していた。それでも男のプライドは別なもので、そんな風に言われていい気持ちはしない。結局聴くに堪えない口喧嘩は連日続いた。
あのときだ――このままだと彼女は仕事でおかしくなってしまうと思ったのは。
だから彼女の隣で支えられるようにならないといけない。そう覚悟を決めたんだ。
それから少し経ち、海を望む公園で僕は彼女にプロポーズをした。
前日に帰りが遅いとつまらないことで喧嘩をしてしまい、もしかしたら断られるかもしれないと否定できない可能性が頭をよぎったが、ずっとイライラしていた茉莉の表情は、プロポーズ後にコロコロ変わって、本人もなんと返答すればいいか迷っていたようにみえた。
一生分の静寂を使いきったような時間だった。僕は彼女の返答を待ち、ついに私に抱きついてオーケーをしてくれた。最高に幸せな時間だった。しそて絶対に幸せにしてあげようと誓い、絶対にこの
今振り替えると、あの、彼女の涙と温もりを感じた瞬間こそが、幸せのピークだったのかもしれない。
それから彼女主導で、式場から引き出物、式の演出や、誰に案内を出すかまで、トントン拍子に段取りは決まっていった。
それは式場のスタッフが驚くほどのスピード感だった。
そういえば、ドレスを選んでいたときに茉莉が急に泣き出すものだから、まさか結婚が嫌なのかと邪推をしてしまったが、それは杞憂だった。
落ち着いてから訊ねると、幸せだったから泣いた、なんて言われたものだから、男冥利に尽きるというものだろう。
日々の業務に忙殺されていたはずなのに、平行して次々と段取りを決めていく彼女の顔は、疲れよりも、むしろ幸せそうな――そんな顔に見えた。
だからこそ、彼女を守ると決めていたはずの僕はその変化に気付くことが出来なかった。気付こうとしなかった。
僕の人生最大の怠慢。
彼女の肉体は、既に限界を迎えていた。
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