第四話

 ハッキリと思い出した。思い出してしまった。

 そうだ……私は、全てを忘れていただけで、既にこの世の人間ではなかったんだ――


 あの日、深夜まで仕事をしていた私は、帰宅後につまらないことで陽平と喧嘩をしてしまい、顔もみたくないと憂さ晴らしにドライブに出かけて、スピードを出しすぎていたときに運悪く酷い頭痛に襲われて……それで、単独事故を起こして死んでしまったんだ。


『片瀬様に限った話ではありませんが、突然亡くなられた方というのは、ご自分が亡くなられたことにそもそも気づいていないことが多いのです。病気なり、老衰なり、本来なら自分の死を受け入れ、彼岸ひがんへと渡っていくのがことわりなのですが、それが叶わなかった片瀬様はこのもの長い時間ときを、此岸しがんでさ迷い歩くことになり、こうして曼殊沙華まんじゅしゃげに辿り着いたのです』

「そうだったんですか……。でも、私はどうしてさ迷い歩いていたんですか?」

『本来魂というのは、この此岸しがんを離れて彼岸ひがんへと渡っていくのが自然の摂理となっています。ですが、なかには生前に強い未練を抱えたままお亡くなりになる方もいらっしゃいます。そのような方の魂というのは、未練が太い鎖のようにその魂を縛りつづけ、この現世にとどまらせてしまうのです。そうすると還る場所がなくなった魂は、ひたすらこの此岸しがんをさ迷い続けることになり、徐々に生前の記憶も無くしていき、最後は未来永劫、浮遊霊として漂うことになります。片瀬様の場合も成仏できないなにかしらの未練が残っていることによりさ迷い続けていたのでしょう』

「未練ですか……。きっと私の未練というのは、陽平のことでしょうね……」


 私の死んだあと、陽平がどうなったかは、映像で確認することはできなかった。

 私の死後、陽平はどうなったのか。

 十五年という長い歳月で、彼は幸せを手にすることができたのか――私は知りたかった。


『でしたら、今の陽平さんと会ってみましょうか。もちろん、彼方あちらには此方こちらの姿は見えませんけどね』


「えっ!?ほんとうに会えるんですか?」

『任せてください』

 まだ心の準備も出来ないまま、深山さんは、どこが陽平の部屋かまるで知っているとでも言うように、迷いなく目的の扉の前までいくと長い指でインターフォンのボタンを押した。


 <ブー>


「ど、ど、どうしよう」

『片瀬さまの姿は見えないですから、お気になさらず』

「そんなこと言ったって十五年振りなんだから緊張しますよ!どうしよう……奥さんが出てきたら」

 そんなやり取りをしていると、外からでも聞こえるくらいの足音が近づき、乱暴に扉が開かれた。


「はい……どちらさんですか」

 昼過ぎだというのに、今ごろ起きたような、不機嫌を隠そうともしない陽平の姿があった。

 その目には睡眠の邪魔をするなという意思が、ありありと滲み出ている。

 昔はそんな目をするような人ではなかったのに、その睨みには迫力があった。

 その目の下には、真っ黒な墨で塗りつぶしたような隈と、何日か剃っていないような無精髭が目立つ。


「うそ……この人が陽平なの?」

 私の声を無視して深山さんは話しかける。

『突然のご訪問で申し訳ありません。私、曼殊沙華まんじゅしゃげという葬儀屋を営んでいます、深山と申します』

 丁寧にお辞儀をして名刺を渡すと、不審に思いながらも陽平は大人しくそれを受け取った。

「はぁ……葬儀屋が何の用ですか」

『実は、生前の片瀬さまのお話を伺いたく――』

「――っ!帰ってくれっ!」

 力一杯扉を閉めると、鍵を閉める音とともにご丁寧にドアチェーンをかける音まで聞こえた。

 完全にやらかしてしまったのは明白だった。


『失敗してしまいましたねぇ』

 頭を掻いて苦笑いする顔が、無性に腹立つ。

「ちょっと、どうしてくれるんですか!会って数秒で終わりましたよ!」

 私の魂の叫びをまるで無視するように、深山さんはその場を去ろうときびすを返した。

「ちょ、ちょっとどこに行くんですか??」

『あなたは実体が無いのですから、入ろうと思えばそのドアだってすり抜けられますよ』

 そう言われて恐る恐る手を伸ばすと、鉄のドアをなんの感触もなく私の手はすり抜けた。

『失敗してしまった私は一足先に帰っています。片瀬さまも悔いのないように――』

 そう言い残し、深山さんは役目を果たしたとでもいうように千代ちゃんを連れて帰ってしまった。


 一人残された私は、どうしようか立ち竦んでいた。この扉の向こうに先程の陽平がいると意識すると、一歩が踏み出せずにいた。

 なにより、ちらっと見た陽平の姿は、時間の積み重ねだけじゃない深い心労が、体の表面に張り付いてるような、見ているこちらが辛くなるような姿をしていた。


 なんとかしてあげたい。

 それが私の未練ねがいだ――

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