第4話 富士さん

 ドラゴンパークへ入る前から漂っていた臭いは、奥に入れば入るほど強くなっているはずなのに、俺の鼻はすでに慣れ始めていた。

 武田さんはパークをゆっくり周り、1種類ずつドラゴンを紹介していく。


 あの子は2ヶ月前に、よその園から来たばっかりの時は近寄らせてもくれなかったんだけれど、最近になってようやく慣れ始めてきたんだよ。

 あの子はね、僕が始めて担当した子でね、今でも通るたびに挨拶してくれるんだよ。


 愛情のこもった目で語るが、残念ながら全部大きさの違うトカゲにしか見えない。俺より身長が高いドラゴンを見た時は驚いたが、どちらかというと空からウンコが降ってくるのではないかと気が気でなかった。ちなみに俺にウンコをぶつけたドラゴンはパークを散歩中で不在であった。


 パークの一番奥まった場所は鬱蒼と森がしげっていた。来園者もすれ違う飼育員もいない。森の小道にいるのは俺と武田さんの2人だけだ。

 万一、脱走してきたドラゴンが武田さんに襲いかかる事態が起こったら、武田さんを置いて助けを呼ぶしかあるまいと不穏なことを考えていたら、すーっと辺りが冷えていくのを肌で感じた。

 春の日差しは暖かなのに肌寒い。超えてはいけない境界を知らずに踏み越えたようであった。この先に何がいるのか。見たい気持ちと見たくない気持ちが混じり、歩みを遅らせたい俺をよそに武田さんは何食わぬ顔で歩き続ける。森が開けた場所には広々とした展示場が眼前に広がっていた。


 そこには10階だてのビルぐらいの巨体をもつ白銀の鱗に覆われた巨大なドラゴンがいた。

 彼を見た瞬間、俺はぞわりと肌が泡だった。

 大きい、それだけで圧倒的な威圧感を感じるのに、遥かなる時を越えてここに存在することが肌身で分かる神秘性があった。

 その瞳は今閉じられているが、その目で見つめられたら平然と立っていられる自信がない。

 ホオジロザメのようななんの感情もない真っ黒な目であったら夢にでてきそうである。

 地元だというのに、こんなドラゴンがいるとは知らなかった。


「富士さんだ」

「富士山?」


 ふふんとした顔をして武田さんは、このドラゴンに圧倒されている俺を笑った。

 どうやら、このパークにはトカゲしかいねぇと思っていた俺の感想を見破っていたようで、最後の最後にこの巨大なドラゴンを残し、びっくりする様子を見ていたようだ。

 この男、やっぱり鋭いぞ。


「マウントフジではなくミセスフジだよ。畏敬の念を込めて不死さんと呼ぶ常連さんもいる。うちの目玉ドラゴンだ。彼女、何歳に見える?」

「100歳ぐらいでしょうか?」

「実は正確には不明なんだ。江戸時代第五代将軍徳川綱吉の時代に、空から富士山に降り立ったところを発見されてその名前がついたんだ。生類憐れみの令が敷かれた一因とも言われている。このドラゴンが死ぬときは徳川幕府が終わるときという噂が流れたもんで幕末には暗殺未遂もあってね。幕府に緊急保護をされたのをきっかけに今でもここで暮らしている。いやあ、江戸時代どころか、とうとう令和まで来てしまったけどね」


 そういえば昨年あたりに新聞で、江戸時代から生きるドラゴン、令和の時代へ、という記事を見かけたような気がする。


「富士さんは世界でたった一匹しかいないと言われているドラゴンだ。種名もそのままフジドラゴン。どこから来たかも分からないし、いずれは飛び立っていくだろうと言われ続け約400年が経過した」


 会話の途中で、富士さんの尻尾がゆらりと立ち上がり、ズシンという音とともに倒れ、大地が揺れた。


「お、久々に尻尾が動いているところを見た。今日は機嫌が良いな」

「地震っ! 起きましたよっ!?」

「ここ一帯が揺れただけだよ。ちなみに俺の先輩の代に一回、立ち上がった富士さんが倒れたことがあるらしいけれど、そのときは事務所まで揺れが届いて本棚の本が全部落ちたとか」

「ちょっとした災害レベルですね。ちなみにご飯は何を食べるのですか? あの巨体では牛をまるごとあげても足りないように見えますが」

「富士さんは肉食じゃなくて草食だ。基本は乾草メインで好物はリンゴとパンだ」

「……リンゴとパン?」

「そこらへんは動物園でゾウにあげているごはんとほぼ同じだね。でも毎日食べるわけでなく、二週間に一回だけだよ。省エネだねえ。ドラゴンて未だに代謝がどうなっているのか不明なんだよ」


 目の前の巨体のドラゴンが山積みのリンゴとパンをむしゃむしゃ食べている様子を想像し、俺はなんだかなぁという気分であった。

 今まで感じていた神秘性が一気に薄れた気がする。

 まぁ、人間がどう思っているかなんて彼にとってはどうでも良いのかもしれない。



 園内一周をしても俺の教育担当は事務所に戻ってきていなかった。


「OJTの五十嵐くんが帰ってくるまで、本でも読んでいてね」


 そう言われ渡されたのは


 “ドラゴンのふ・し・ぎ☆”

 “ドラゴン学”

 という題名の絵本だった。


 うん、こういうのって、小さい子供を自分の領分へ引きずり込もうと狙う専門家が書いているから意外に侮れないって知っているよ。

 でも社会人になったばかりの男が、職場で絵本を読む姿ってシュールすぎない?


 結局、その日。

 定時までにOJTとやらが帰ってくることはなかった。


「いやぁ、ちゃんと帰ってこいっていたんだけどねぇ。おかしいなぁ」


 武田さんはぼりぼり頭をかいた。

 上司の命令まるで無視だぞ。園長補佐、それでいいのか。

 しかし武田さんはまるで怒ることなく、彼だししょうがないなぁと言っていた。

 なんなんだ、このゆるゆる空間は。


「まぁ定時になったし着替えてあがって良いよ」

「ありがとうございます。お言葉に甘えて失礼します。このお借りした制服はどうしましょう」

「ああ、それ河合くんの制服だから。下の洗濯機で洗って乾燥させてそのまま自分のロッカーに放り込んでいいよ」


 俺は制服を見た。

 新品さはまるでなく使い古してあるのは分かるし、それどころか胸元の刺繍には島本と書かれている。


「俺、島本じゃないのですけれど」

「パークってお金がないから基本、制服も着回しなんだよ。それ、3月に辞めた島本くんの制服だ。同じぐらいの身長で良かったよ。あ、さすがに長靴は新品だから安心して良いよ。水虫とかうつったらやだもんねぇ」


 笑う武田さんに俺は愛想笑いしかできなかった。



 初めての勤務先での半日は、ドラゴンのウンコを頭からかぶり、シャワーを浴び、動物園を回って、なんとなくドラゴンに関する本を読んで終わった。

 俺って本当に働いたのか。

 これ、本当に社会人?インターンシップの方がよっぽど教えてくれるぞ。

 疑問がつきぬまま、俺はその日終えた。

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