第四話 終幕

 広いように見える谷でも、人の噂が駆けるのは速い。薔薇の姫君の結婚相手が遂に決まった、という話は早々に広まった。

 娘と若者は、結婚の準備に大わらわ。

 娘の父親は、結婚相手として仕立屋の若者が連れてこられたことに驚きはしたものの、娘の判断を信じて寛容に受け入れた。もとより、「姫君」という呼び名こそあれ、娘の家は貴族というわけでもなく、祖先の開拓した土地を少しばかり上手く利用したに過ぎない。身分違いだなんだと文句をつける連中には、そのように言って聞かせた。

 若者の家族は既にいなかった。家族代わり、とは言わないが徒弟として面倒をみた仕立屋の親方に報告をすると、あれよあれよという間に、薔薇の姫君の花嫁衣装をこの工房で仕立てることになった。先に決まっていた婚礼の日取りに間に合わせなくてはならないにも関わらず、当の二人だけでなく親方たちも浮き足だって、趣向を凝らした衣装をつくることになってしまった。おかげで工房は、夜もランプの明かりで仕事をしなくてはならなくなった。

 他にも様々な挨拶や宴会の手配などに追われるうち、日々は矢のように過ぎ去っていく。どうにか花嫁衣裳の仕上げも間に合い、二人の婚礼は、いよいよ明日となった。


 この日、娘と若者のどちらも仕事を休ませてもらっていた。とはいえ若者の方は家でじっとしていてもそわそわと落ち着かず、町をぶらつけば人々に祝いやからかいの言葉を浴びせられるので所在がなかった。そこでこれは良い機会だと、彼は娘を山に誘うことにした。


「お嬢さん、僕はこれから山に行こうと思うんですが、よければ一緒にいかがでしょう? 僕の見た景色を、あなたにも見ていただきたくて。何度か登るうちに安全な道を見つけましたから、お嬢さんでもきっと大丈夫です。いつものドレスでなく小麦畑に出るような恰好で来ていただければ」


 娘は「折角あなたと出かけるというのに、お洒落させてくれないのね」と苦笑しつつも承諾した。着替えて出てきた娘は、青い羊毛のワンピースに白い亜麻布リネンの前掛け、頭にはショールを巻き、一見して彼女が"薔薇の姫君"だとはわからない。

「静かに過ごすにはちょうどいい服装だわ」と娘は笑った。


 若者は娘の手を取り、共に山道を進んだ。こうした道を歩き慣れていないだろう娘を気遣い、ゆっくりと、なるべくなだらかな道を選んで行く。歩きながら彼は、何度も山へ通った日々を思い出していた。山のことを何も知らず、衝動だけで突っ走った結果、命を落としかけた。それを風歌姫ハルピュイアに助けられた。段々と峰雪草の生えていそうな場所に見当がつくようになり、怪我もしなくなった。山へ行くのはいつも一人だったが、今はこうして彼女と二人。

 これまでの全てが今日という日に繋がっているのだ、と若者はふいに理解した。そうしてこの山と、谷に住む風歌姫ハルピュイアに深く感謝するのだった。


 昼前に町を出発して、太陽が頂点から少し傾いたころ、二人は山の高台へと辿り着いた。

 草木と岩ばかりの山道から急に視界が開けたことに、娘は驚きの声を上げた。それから思わず若者の手を離して、崖の縁へ駆け出した。

 娘はそのとき初めて、谷の全景を知った。地図で知ることと自身の目で見ることとはまるで違う。山沿いに建つ幾つもの風車、まだ青々とした小麦畑、小さく見える街並み、それよりももっと小さな人々。彼らの生命線であり悩みの種でもある川が、ひときわ大きな『一番風車』から先、谷の外へと続いていてその果ては見えない。


「私たちの谷って、こういうところだったの」


 娘はひとちた。それからくるりと若者の方を振り返って言う。


「連れてきてくれてありがとう。これを見せたかったのね」


 すると若者は穏やかに微笑んで、軽く肩をすくめた。


「それも勿論ありますが、お嬢さんに聞いていただきたい話と、できれば会わせたい人……がいまして」


 その言葉に娘は首を傾げて、彼の話すのを待った。若者は少し照れくさそうに頭を掻いて、ぽつり、ぽつりと話し始めた。


「実を言うと僕、最初に山へ入ったとき危うく死ぬところだったのです。崖に咲く峰雪草を見つけて、手を伸ばした拍子に足を滑らせて」


 それを聞いた娘はひゅっと息を呑み、口許を手で押さえた。彼女の表情を見た若者は、「嗚呼でも無事だったんですよ、この通りね」と慌てて言った。


「この谷の守り神が、僕を助けてくれたのです。谷に風を生む歌を歌い、空を舞う"天使様"が。本人には『私は誰の使いでもない』って笑われましたけどね。本当の名は、ハルピュイア」


 そのとき、娘と若者の間に一陣の風が吹きぬけた。擦れ合う青草がざわめき、二人がまばたきをする一瞬の間に、風歌姫ハルピュイアが舞い降りたのだった。

「ハルピュイア!」と若者が駆け寄っていくのを、娘は引き留めようと手を伸ばしたが届かない。


「良かった、ちゃんとまた会えたね。僕の奥さんを紹介したかったんだ。僕の恋が実ったのは、君のおかげだもの」


 風歌姫ハルピュイアは胸がつきりと痛むのを不思議に思った。せっかく彼に会えたのに、一体どうして。

 それを深く考えるよりも先に、娘が叫んだ。


「"それ"から離れて!」


 若者と風歌姫ハルピュイアが娘の方を振り向くと、彼女は真っ青な顔をして、震える手でナイフを握っている。


「どうしたんです、お嬢さん。いま話したばかりじゃありませんか。彼女が僕の恩人、ハルピュイアですよ。何も怖いことは─」


「そんなはずないわ! "天使様"なもんですか、こんな、こんな化け物!」


 娘から見れば、風歌姫ハルピュイアは正に異形いぎょうだった。両腕の代わりに生えた翼、猛禽によく似た大きな鉤爪、それとあまりに不釣り合いな、幼い少女の顔。


「大丈夫ですから、ナイフなんてしまってください。彼女はこの谷に風を運んでくれる。僕たちを傷つけたりしませんよ」


「あなた、怪しい術でもかけられているの? 私と同じものが見えているの? 谷に風が吹くのは地形のせいよ、こんな化け物の力じゃない!」


 風歌姫ハルピュイアは、初めて向けられる強い敵意に戸惑うばかりで、一声も発することができないでいた。飛び去った方が良い気がするのに、翼も足も動かない。


「さぁ離れなさい! 私の夫を返して!」


 娘は狙いも定まらないまま必死にナイフを振りかぶる。その切っ先は奇跡的に風歌姫ハルピュイアに届こうとしていた。風歌姫ハルピュイアはそれでも動けないでいる。

 しかし娘のナイフが切り裂いたのは、彼女の夫の腹だった。

 若者は咄嗟に風歌姫ハルピュイアを庇ったのだ。


「う、嘘、どうして」


 若者の赤い血に濡れたナイフを、娘が取り落とす。それと同時に、腹を押さえた若者がよろけて倒れた。生い茂る草がみるみる血だまりと化していく。

 それを見た風歌姫ハルピュイアが、首を絞められた鳥のような、木の幹を割るいかづちのような、悲痛な叫び声をあげた。

 それは意識の朦朧とした若者には効果が無かったが、目の前で立ちすくんでいた娘には絶大な効き目があった。風歌姫ハルピュイアの悲鳴は娘の鼓膜を裂き、頭の中を引っ掻き回すように響き続けた。そうして正気を失った娘は、声から逃れようと頭を抱えながらふらふらと歩き回り、そのうちに足を踏み外した。娘の体は崖下へ真っ逆さまに落ちていき、やがて岩の上でぐしゃりと潰れた。彼女自身の血によって、青い服と白い前掛けは赤黒く染まった。それが、"薔薇の姫君"と呼ばれた娘の最期だった。


 風歌姫ハルピュイアは若者の体を抱え、無力に震えていた。


「君に、助けてもらった、命を、君に返す……だけ、だよ」


 若者は息も絶え絶えながら、風歌姫ハルピュイアにそう言って無理に笑おうと唇を歪めた。風歌姫ハルピュイアは顔を絶望に歪めて首を振る。


「いや、いやよ、いかないで」


 風歌姫ハルピュイアの絞り出したその声は、歌に似た抑揚も無く、まるで人間が話すようだった。それを聞いた若者は血を吐きながらも笑いをこぼした。


「嗚呼、君の歌、好きだけど、その声も、すてき、だな……」


 消え入る声でそう言ったきり、若者は動かなくなった。







 いよいよ婚礼の日だというのに、薔薇の姫君と若者は一向に帰ってこない。最初は茶化していた町の人々も次第に顔を曇らせ、皆で二人を探しに出た。

 娘の体は、その日の内に見つかった。山へ向かう二人を見ていた者があり、その方面を探そうと向かう途中に血まみれの岩が見えたのだった。頭は割れ、首や手足も折れ、見るも無惨な有様だったが、半分ほど残った顔や持ち物から、この遺体が薔薇の姫君であるとわかった。

 一方、若者の行方はようとして知れない。娘と言い争いになって突き落としたから山奥へ逃げたのだ、と言う者もいたが、その証拠があるわけでも無い。大勢で山中を探したが、見つかったのは高台と、獣の寝床のような痕跡、誰のものかわからぬ乾いた血の跡、そして白い羽根だけだった。

 谷に住む人々は悲嘆に暮れたが、じっくり悲しんでもいられなかった。谷の全ての風車が止まってしまったのだ。毎日休みなく吹いていたはずの爽やかな風は消え、老人の溜め息のような弱々しい風が時折思い出したように吹くばかり。

 このため、姿を消した若者が天使様の怒りを買ったのだという噂が、町に広がることになったのだった。




 その頃、人の目には捉えられぬほどの速さで谷を飛んでいく者があった。その影はやがて、人里から遠く離れた山中の洞窟に降り立った。漆黒の翼に銀の髪、中性的な顔の表情は険しい。大きな足の爪がしっかりと地面を掴み、洞窟の中へ歩みを進める。

 そこは風歌の谷の風歌姫ハルピュイアの住処だった。寝床へ横たわる彼女を見て、黒い翼の風歌姫ハルピュイアはいっそう顔をしかめた。純白の翼からは羽根が抜け落ちて、皮膚がまだらに見えてしまっている。金色の髪からは艶が失われ、ふっくらとしていたはずの肉は削げ落ちている。


「いつも必ず巡っていた おまえの風が届かない

 最も明るく響いていた おまえの歌が聞こえない

 おまえに何が起きたのだ」


 黒い翼の風歌姫ハルピュイアの声は、古めかしく重厚な響きを持っていた。それを聞いた風歌姫ハルピュイアはよろよろと体を起こし、「お姉さま」と平坦な声で呟いた。

 それでまた、黒い翼の姉は眉をひそめる。


「我らは風を歌う者

 歌は風 風は命 我らそのもの

 おぞましきは人の声

 なにゆえ歌を忘れたか」


 黒い翼の風歌姫ハルピュイアは、彼女らの中で一番上の姉だった。あちこちに散らばる妹たち全ての風を、彼女は聞き分けることができた。


「お姉さま、ごめんなさい。わたし、言いつけを守らなかった。人を、好きになってしまったの」


 風歌の谷の風歌姫ハルピュイアは、けほけほと乾いた咳をしてからかすれた声で続けた。


「わたし、恋の歌を歌ってみたかった。彼の幸せを願っていた。それだけで良かったはずなのに、わたしが欲張ったから。また会いたいなんて、言ってしまったから……彼が死んでしまってやっと、この気持ちが恋だとわかったの。だから何度も歌おうとしたわ、恋の歌を。だけど私のせいで彼が死んだ、彼はもうどこにもいない、そう思うと胸と喉が締め付けられて、どうしても歌えないの。他の歌を歌おうにも、私の心は彼でいっぱいになってしまったから、やっぱり歌えないの」


 風歌姫ハルピュイアかたわらに置いていた髑髏どくろと薄汚れた布の兎を、みすぼらしくなってしまった翼でぎゅうと抱えた。

 そうして全てを悟った姉は、大きな黒い翼で妹を丸ごと包んでやった。


「嗚呼、憐れで愚かな妹よ

 おまえも私を置いていくのか

 歌を忘れた風歌姫ハルピュイアは 死して風塵ふうじんとなる運命さだめ


 黒い翼の姉は、妹の温もりを感じながら悲しげに歌った。


「人のために妹を失うのは おまえが初めてではない

 おまえたちが人と関わるのを 私に止めるすべはない

 誰も風を縛ることはできないのだから」


 やがて姉が抱いていた翼を解くと、風歌の谷の風歌姫ハルピュイアは姉の顔を真っ直ぐに見ながら、青白い顔でにっこりと微笑んだ。


「ねぇお姉さま。命を失うのは怖いし、風を歌えないのは苦しいけれど、それでも。彼に会わないままこの谷で生きるよりは、ずっと幸せだと思ってしまうの。わたし、あの人を好きになって良かったわ」


 それがこの風歌姫ハルピュイアの姉妹の、別れとなった。




 風歌の谷に、もはや恵みの風は吹かない。

 風車の羽は動かず、それに頼っていた人の営みは止まった。次に川が増水すれば町は沈むに違いなかった。町を照らす太陽のようだった薔薇の姫君も、もういない。

 町の人々は、谷を捨てることになった。姿を消した若者を呪いながら、散り散りに新天地を目指した。そうして谷には、もの寂しい廃墟だけが残った。


 その谷は今、「風凪かぜなぎの谷」と呼ばれている。

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風歌姫─ハルピュイア─ 灰崎千尋 @chat_gris

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