小潮小学校 肆

 プールへ向かいながら凛々は記憶を遡っていた。十二年前に凛々が通っていた頃は、小潮小学校にプールの怪異なんて存在しなかったはずだ。この記憶が正しければプールでは安全に作業できる。

「足元、気をつけてくださいよ」

「はいはい」

 小学校特有の段差の低い階段を降りて、三階から二階へ。途中の踊り場には絵が飾ってあった。果たして十二年前に、こんな絵がここにあっただろうか。覚えていない。十二年は体感よりずっと長い年月なのだろう。

「プールの七不思議って何だっけ? あるとしたら」

 低すぎる階段に足を取られそうになりながら凛々は颯希に尋ねた。

「子供の手に足を引っ張られて溺れるといった内容だと思います」

「また子供の手かよ! さっき引っ張られたじゃん」

 花子さんに掴まれて、それが手形のあざになった腕を摩る。今度こそ骨を折られるかもしれない。

 ニ階に着くが既に人気はなく、朝日が窓から差し込んだのどかな廊下がそこにあった。凛々はそれを横目にまた階段を降る。子供サイズの階段は大人には危険だ。油断すると転げ落ちる。凛々は慎重に降りていった。

 踊り場まで降りたところで後ろを着いてきていた颯希に抱きしめるように引き寄せられる。何事かと振り返れば颯希は困った顔で、「十三段でした」と言った。

 その颯希の言葉を待っていたかのようなタイミングで、鳴るはずのない学校のチャイムが鳴り響く。通常ならありえない音量で鳴り響くそれに思わず凛々は耳を塞ぐ。なんとなく踊り場を見てみればやけに古ぼけた大鏡がそこにあり、颯希に抱きしめられて耳を塞ぐ凛々を映していた。

「……階段の段数は数えるなよ」

「すみません」

 颯希は項垂れて、凛々の首元に顔を埋めた。凛々は小さくため息を吐くと、体を捩って颯希の腕の中から脱走を試みる。しかし、もがけばもがくほど腕の力が強まりそれは叶わなかった。

「異世界では何が起こるか分からなくて危険なので離れないでください」

「ここ無風だから颯希の方がやばいだろ。離して」

 凛々の能力は戦闘向きではない。だから風を操り、攻撃も守りも出来る颯希が護衛として付いている。ただ、颯希の能力は風の無い世界――異世界では使えない。この世界での颯希は、身体能力が良くてちょっと力の強いだけのただの女の子だ。

 凛々は颯希の腕から解放された。辺りをざっと見回すが、化け物が襲ってくるような様子はない。静かな世界だ。

「出口を探すからしばらく話しかけないで」

 項垂れたままの颯希を見れば微かに震えていたので、そっと手を握る。普段、力があるからこそ、無力な状態で危険な場所に居るのがとても怖いのだろう。

 凛々の能力は、〈ほつれ目を探せる力〉だ。それは例えば異世界と現実世界の境目だったり、怪異の――弱点ともなり得る――存在の不確かな部分であったり、さまざまなもののほつれ目を見つけることができる。しかしこれは凛々の〈表向きの能力〉だ。

 凛々は背後に居る守護霊を意識する。するとふわりと右肩に見た目だけの手が添えられる。斜め右上を見上げれば、儚く輝く美青年がそこで微笑んでいる。

 守護霊は凛々がわざわざ尋ねるまでもなく、答えを持って現れた。心地の良い声が耳の中でする。

『電話だよ』

 美青年の綺麗な弧を描く口元は動かない。必要がないからだ。絵画のように美しい青年のさらりとした髪は、風もないのにふわりと靡く。

『繋がりが大事だ。分かっているだろう? 繋がっている間になら来た道を戻れる』

 最後にウィンクをして守護霊は解けるように見えなくなった。変わらずそこに居るはずなのだが、姿は見えない。

 凛々は大鏡を見た。そこには凛々と颯希が映っている。しかし鏡の中の凛々は、颯希の手を握っていない。まだ颯希に抱き締められたままこちらを見ている。気味が悪いと顔を顰めても、鏡の中の凛々はきょとんとした顔でただこちらを見ている。

「……颯希。何か居そう? この世界」

 未だに震える手をぎゅっと握って尋ねる。顔を上げた颯希は真っ青で、それを見た凛々は長いは出来ないなと思った。

「おそらく近くには何も。静かすぎる以外には特に問題のない世界だと思います」

「そうか。ありがとう」

 凛々は腰に提げているエプロンバッグからスマートフォンを取り出し、網膜認証でロックを解除する。そこで花子さんも網膜認識が搭載されていたのかな、なんてどうでも良いことを少しだけ考えた。

 左手の腕時計の秒針は止まっている。おそらく異世界に入った瞬間に止まったのだろう。スマートフォンの時計と時刻を見比べれば、スマートフォンの方が数分進んでいた。時計は〈この世界の時間〉とリンクしていているが、改造されているこのスマートフォンは〈所有者の時間〉とリンクしている。そして、このスマートフォンはいかなる場合でも同じ時間同士で繋がるようになっていた。

「着信待ちをする」

 凛々は颯希にそれだけ伝えた。颯希は「はい」と返事をした。相変わらず青ざめて震えている。可哀想だと思うが、凛々にはその不安を払拭してあげられるほどの強い戦闘能力がない。早く来いと、スマートフォンの画面を無意味に睨め付けることしか出来ないのだ。

 颯希は凛々の可愛い可愛い妹分で、それは組織内で知らない人は居ないほど有名だ。背丈はとっくに超されたが、凛々にとって颯希は変わらず可愛い妹分である。しかし、その颯希でさえも凛々の〈表向きの能力〉しか知らず、それを凛々の能力だと思っている。

 この表向きの能力は、凛々の守護霊が賢いだけで、実は能力でも何でもない。凛々の本当の能力は組織内で働く上で使い道がなく、仕方なく守護霊の助言を能力としているのだ。本当の能力は凛々と守護霊しか知らない。

 守護霊の助言は、この賢く美しい青年が凛々を気に入り、守護してくれている間だけ貰える。凛々はこの〈表向きの能力〉を失わないために、青年に好かれ続ける必要があったが、いまいち何が青年のツボなのか分からずにいる。青年はそんな凛々の側に――凛々が知る限りでは――能力に目覚めてから今までずっと居た。

 得体の知れない異世界で、気ままに探索することも、こちらのタイミングで勝手に元の世界に帰ることも出来ずに、時間を持て余した凛々は考え事をしていた。凛々は守護霊からたくさんの愛と助けを受け、自分は何も返せずにいることをもう何年も前から気にしているのだ。



 一向に着信が来ないスマートフォンに、痺れを切らした凛々がダメ元でこちらから電話をかけようとした時、この場に不釣り合いな明るく愉快なメロディーでスマートフォンが着信を知らせた。凛々は誰からかも確認せずにすぐに出る。

「もしもし? 遅いんだけど」

 向こうは何やらガヤガヤと騒がしい。

『……は? 何言ってんだ⁈ そっちが遅いからかけたんだろ? どこに居るんだよ』

 声で朔太郎(さくたろう)からだと分かる。朔太郎は年下のくせに組織内で凛々と同期だからって平然とタメ口を叩く生意気な奴だ。

「異世界だけど?」

『はあ? ふざけてないで早く来いよ。リーダー不在だと何も出来ないんだよ、うちの組織の腐ったシステムだと』

「分かった分かった。すぐに向かうからこのまま電話は切らないで」

 ずっと朔太郎の文句が耳元で煩いが、繋がっている確認になって今は良いかもしれない。凛々は怯えることに疲れ切った颯希の手を引き、降って来た階段を一段ずつ上がる。最後の一段まで上がり切ると、朝日の差し込む廊下がそこにあった。

 段数は十二段。小鳥の囀りも聞こえるので問題は無さそうだ。凛々がほっとしたのとほぼ同時に、颯希も安心したのだろう。凛々の手を握ったまま、その場に力なくへたり込んだ。

 振り返って、颯希越しに階段の下の踊り場の大鏡を見た。そこにはちゃんと階段が映っていた。遠くて小さく学校のチャイムが聞こえた気がした。

『おい、聞いているのか? ……本当に異世界に入ったのか? 迎えに行くから行き方教えて』

 ずっと生返事で相手をしていた朔太郎が心配し始めたので、凛々は慌てて、「いや、今戻れたから平気」と言った。

「じゃあ一回切るよ。今二階にいるけど、すぐプールに向かうからみんなにはもう少しだけ待機しててもらって。よろしく」

 一方的に言いたいことを言い切ると、凛々は電話を切った。ちらりと颯希を見ると、颯希は何事もなかったようにスッと立ち上がった。

「……大丈夫?」

「大丈夫です。向かいましょう。……向こうにある別の階段から」

 颯希はまだ少し青白かった。

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幻の空明 ---わた雲--- @---watagumo---

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