第17話

 午後を過ぎ、ヨルムンガンドは王都まであと少しという所まで来ていた。


 いろいろトラブルがあって、想像していたよりもだいぶ遅れているのだが、この列車にはスケジュールなんてない。

 時間を気にするような忙しい乗客は、時刻表のある大手の鉄道会社の列車に乗る。


 だから急ぐ必要もないだろうと、俺はのんびりとヨルを走らせていた。

 ふと、操縦席の魔導モニターに、慌ただしく動き回る人物が目に入る。


 こんな風にちょこまかと動くのは、元気娘のコスモスだろうと思ったら違った。

 姉のグラジオラスだった。


 グラジオラスは、おしとやかなお姫様のような女性。

 表情も所作も物腰柔らかで、何をするにも窓辺の白百合がそよ風に揺れているように絵になるんだ。


 しかし今の彼女は、地震が来たハムスターみたいにせわしない。

 食堂車の調理場にいるのだが、食料庫から食材を引っ張りだしてきては刻み、風呂釜みたいな大鍋で煮込んでいる。


 もうランチの営業は終わっているし、ディナーの準備にしてはちょっと大掛かりすぎる。

 俺はいったい何事があったのかと、操縦をヨルに任せて食堂車に行ってみた。


 調理場に現れた俺に気付くと、グラジオラスは調理の手を休め、きちんと居住まいを正して俺にぺこりと頭を下げる。


「あっ、アーサーさん。お疲れ様でございます」


「挨拶はいい。それよりも、いったいなにをやってるんだ?」


「はい、聖女スープを作っておりました」


「聖女スープ?」


「はい、聖堂で恵まれない方への炊き出しのために作られるスープです。

 ボリュームと栄養が満点で、あたたかくてとっても美味しいんですよ」


 そう聞くとちょっと興味が沸いてきたが、今はそれどころじゃない。


「そうか、でもディナーの量にしちゃ多過ぎないか?」


「いえ、これはディナーのために作っていたのではありません

 ちょっと、胸騒ぎがしたもので……」


「胸騒ぎ?」


 グラジオラスによると、ごく希に胸がざわめくことがあるらしい。

 そのときは良くないことが起こりがちなので、こうして大量の食料を作っていた、というわけだった。


「なにか災害でも起こる前ぶれなのか? それなら停車して、様子を見たほうが……」


「いえ、大袈裟にしてしまうと、乗客のみなさまに不安を与えてしまいます。

 胸騒ぎがあっても、大事には至らないことがほとんどですので……。

 これはコスモスさんからもよく言われるのですが、わたしの胸騒ぎは心配性から来るもののようです。

 スープは念のためと、わたしの気持ちを落ち着かせるために作っていたものです。

 ですので、みなさまには内緒にしておいていただけませんか?」


 眼鏡ごしの潤みがちな瞳で、すがるように俺を見るグラジオラス。

 女性に免疫のない俺は、それだけで脈が乱れた。


「わ……わかった。それじゃ、手伝うよ」


「えっ、そんな、とんでもありません。

 わたしの不安のために、アーサーさんまで巻込むわけには……」


「気にするなって。備えができたほうが落ち着くんだろう?

 それに、スープってのはたっぷり作ったほうが美味しいからな。

 力仕事は俺に任せろ。

 食料庫から食材を出してやるから、お前は調理に専念してくれ」


「で、でも、殿方に、そのようなことをお願いするのは……」


「いーからいーから」


 戸惑うグラジオラスをよそに、俺はさっさと食料庫に入っていく。

 野菜の入ったダンボールを3つまとめて運びだし、調理台の脇にどさりと置いた。


「グラジオラス、ボーッとしてないで、さっさと調理しろよ」


「は、はい」


 そして俺と大聖女様のスープ作りが始まった。


 俺は食材の運び出しと、でかいヘラで大鍋をかき回すのを担当。

 グラジオラスは食材の調理と味付けをやった。


「よし、グラジオラス、煮たってきたぞ!」


「ありがとうございます。スープの味付けは、このような感じでいかがでしょう?」


「うぉっ!? 聖女スープって初めて食ったけど、めちゃくちゃ旨いな!」


「うふふ、ありがとうございます」


 花がほころぶような、素敵な笑顔のグラジオラス。


「コスモスさんや聖女の方たちとはよくお料理をするのですが、殿方といっしょにお料理をしたのは初めてです。

 なんだか新鮮で、とっても楽しいです」


「まぁ、俺は食材を運んで鍋をかき混ぜてるだけだけどな」


「でも、さすがは殿方だけありますね。

 食材を運んでくださる量も、かき混ぜてくださる力強さも、わたしとは大違いです」


「胸騒ぎ、だいぶ落ち着いたみたいだな」


「はい、ありがとうござ……きゃっ!?」


 俺とグラジオラスは話しながら調理をしていたのだが、不意に彼女が躓いた。

 手にしていた瓶から、油がこぼれて床を濡らす。


「あっ、危ない!」


 俺はグラジオラスを受け止めるべく、反射的に動いていた。

 彼女を抱きとめたまではよかったのだが、床の油に滑ってしまい、ふたりして倒れてしまう。


 ……どっすーん!


 グラジオラスが俺に覆い被さる形になったのが不幸中の幸いだった。


「いてて……。だ……大丈夫か?」


「う、ううっ……、す、すみません……。すこし、クラクラします……」


 衝撃で閉じてしまった瞼を開けると、そこにはグラジオラスの、超どアップがあった。

 鼻先が触れていて、あと少しでも近づいたら、唇が触れるかというほどの距離だった。


 俺は慌てて彼女を押し返す。

 すると、


 むにゅり。


 両手に無限の弾力が生まれる。

 それは、俺がいままで生きてきて、いちばん柔らかい物体だった。


 そして俺は、とんでもないことをしたのに気付いた。


 大聖女グラジオラスの胸を、わし掴みに……!


 慌てて離れようとするも、彼女が俺に跨がっているせいでままならない。

 しかも彼女はまだクラクラしているのか、キュッと目を閉じたまま、悩ましげ吐息を漏らしている。


 誰かから見られたら、完全に誤解を受ける光景だと思った瞬間、


「あっ……ああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?」


 調理場の入り口のほうから、コスモスの絶叫がした。


「な……なにをやっているのっ!?」


「あ……コスモス! ち、違うんだ、これは……!」


「なにが違うのよっ!?」


 俺の弁解を一蹴する勢いで駆けつけてきたコスモスは、俺からグラジオラスをひったくるように助け起こす。


「大丈夫!? お姉ちゃんっ!?」


「あっ、コスモスさん。アーサーさんは悪くないんです。

 わたしが胸騒ぎを起こしておりましたので、こうして鎮めてくださろうと……」


 ものすごく端折った説明に、コスモスの誤解が加速する。


「お……お姉ちゃんの胸騒ぎを利用して、エッチなことをするだなんて!

 さ、最低っ! アーサーくんのこと、見損なったわ!」


 それからいくら俺が誤解だと言っても、コスモスはまるで聞く耳を持たず……。

 俺は王都に着くまで、操縦室からの外出禁止を言い渡されてしまった。

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