第6話
それから俺は、どうやって丘の上まで戻ったのか、よく覚えていない。
夜になってユーピトア三姉妹を、街にある屋敷まで送り届けたあと、ヨルムンガンドをフラフラと操って帰った。
コスモスに抱きつかれたときの匂いと感触が余韻としてずっと残っていて、心も身体も雲に包まれているかのようだった。
丘の上にある、レールを逆Uの字に曲げた車止めのところにヨルを停車させる。
ブレーキエアーが抜けるプシューという音は、まるで溜息のようだった。
『やれやれ、抱きつかれただけで骨抜きになるだなんて……。
アーサーには女の子に免疫が無いだろうと思っていましたが、まさかここまでとは』
「うるさいな。コスモスの身体があまりにも柔らかかったから、ちょっとビックリしてるだけだ」
俺は浮ついた足取りで操縦席を出ると、隣の乗務員車両に向かう。
乗務員車両というのはヨルムンガンドの乗務員用の部屋がある車両なのだが、その一室が俺の自室になっている。
自室に入るなり俺はベッドに身を投げ出した。
仕事終わりのいつもの光景だが、今日はだいぶ違う。
使い古した臭くて汚れたベッドじゃなくて、ベッドメイクされたばかりのキレイでいい匂いのベッド。
コスモスがベッドメイクしてくれるのを見てしまったので、俺の頭はコスモスのことでいっぱいになってしまう。
「うぉぉぉ……! コスモス、コスモスぅぅぅ……!」
ひとしきりベッドの中で身悶えしたあと、俺のなかで急に現実が襲ってきた。
「明日から仕事、探さなきゃな……」
俺はユーピトア三姉妹の『一日パーサーになりたい』という夢を叶えるために、工場を無断欠勤したうえに工場長に辞表を叩きつけてしまった。
新しい仕事を見つけるまでは、俺は無職だ。
工場長には勢いで『機関士になるわ』なんて言っちゃったけど、なれるわけがない。
以前なら悲嘆に暮れていたところだが、今の俺はそうでもなかった。
これも、記憶が戻ってくれたおかげかな。
それに、コスモスがあんなに喜んでくれたんだ。
俺の人生で誰かに喜んでもらえたことなんて、一度すらなかった。
最高の女の子を、最高の笑顔にしたんだ。
男としちゃ、最高のご褒美じゃないか。
「しかしあの笑顔も、一度っきり……。
もう二度と、生で見ることはできないのか……」
コスモスは人気絶頂のアイドルだから、願いが叶った今、俺なんかとはもう会っちゃくれないだろう。
あの笑顔をまた見られるとしたら、新聞ごしの、ファンに向けた営業スマイルに違いない。
「それでも、いいや……。
明日……新聞、買ってこよう……」
俺は満足感と寂しさが入り交じった複雑な気持ちで、眠りに落ちていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
しかし俺は想像よりもずっと早く『あの笑顔』と再会する。
「ねぇ、起きて、起きてってば!」
身体をゆさゆさと揺さぶられ、俺は何者かの手によって叩き起こされた。
まるで昨日の朝に時間が巻き戻ったような感覚で、瞼を開けると……。
そこには、パーサーの制服の上に、エプロンを着けたコスモスが……!?
「う……うわああああっ!?」
「って、なんでそんな反応なの!? 会ったばかりの昨日はともかく、今日も驚くなんて!」
「な、なんで、ここにいるんだよ!?」
「なんでって……まだそんな段階なの!? わたしをパーサーにしてくれたんじゃなかったの!?」
「い、いや、したけど、あれは一日だけの約束かと思って……」
「ええっ!? そんなわけないでしょ! なんで一日限定なのよ!?」
「コスモスはアイドルだから、てっきり『1日パーサー』みたいなもんかと思って……」
「ひどい! わたしの夢をそんな軽いものだと思ってたのね!?
わたしはヨルムンガンドのパーサーになるのが、子供の頃からの夢だって言ったでしょう!?
そのために、何年も前から準備してたんだから!」
そう言われてみると、あの用意周到さはそこらの思いつきでできるもんじゃないな。
「そ……そうだったのか? でもそれだったら、なんで今になって、俺のところに……?」
「クロちゃんが『職業適性検査』を受けられる12歳になるまで待ってたのよ!
パーサーになるのはわたしたち姉妹の夢だったから……って、そんなことは今はいいの!
早く起きて! 機関士さんがいないと、列車は動かせないんだから!」
俺はコスモスから追い立てられるようにして、食堂車両へと向かった。
車両の扉を開けたとたん、いい香りに包まれる。
「おはようございます、アーサーさん。
朝食の準備は整っておりますから、どうぞお座りになってください」
長女グラジオラスが、エプロン姿でコーヒーのポット片手に微笑む。
「遅い」
三女クロッカスは食卓についており、ナイフとフォークを手に、むっつりした表情を向けてきていた。
「わたしもおなかぺっこぺこ! さ、早く早く!」
コスモスから背中をぐいぐいと押され、俺は食卓の椅子に座らされる。
そこには、夢の続きのような華やかなメニューが並んでいた。
焼きたてのパンにバター、ほっこりと湯気をたてるコーンスープ。
カリカリのベーコンに黄金色のスクランブルエッグ。
たっぷりフレッシュサラダに、フルーツとヨーグルト。
飲み物はオレンジジュースにコーヒーに牛乳と、朝の定番がしっかり揃っている。
俺は朝食を食べる習慣がなかったので、これはもう『ごちそう』と言っていいレベルだった。
しかも美少女姉妹と同じ食卓を囲むだなんて、これはもう『いつ死んでもいい』と思えるレベルだった。
これまでの俺は、なにに接しても冷たく感じ、なにを口にしても砂を噛んでいるように味気なかった。
しかしこの食卓にはあたたかさがあり、食事にはしっかり味を感じる。
まるでひと口食べるたびに、人間としての感覚が戻ってくるかのようだった。
「こ……このパン、う……うめえっ!」
「へへーっ、お姉ちゃんのパン、すっごく美味しいでしょ!?」
「ああ、最高だっ! こんなにうまいパン、初めて食べた!」
「ありがとうございます。たくさんありますから、たくさん召し上がってくださいね」
「このベーコンもうめえっ! 卵もうめえっ!」
「あ、それはわたしが焼いたんだよ! ベーコンはクロちゃんのリクエストでカリカリ目にしたけど、卵はふわとろで美味しいでしょ!?」
「ベーコンは炭みたいなカリカリに限る。それ以外は万死に値する」
「うめえっ! とにかくうめえっ! うめぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーっ!」
「アーサー、とうとうヒツジになってしまった」
三女の突っ込みに、長女と次女も笑顔になる。
「うふふふ」と微笑む彼女たち。
それは、俺がいつも向けられていた嘲笑とは違う。
俺が、ずっと渇望していたもの。
ひび割れ、乾いた心に染み渡るような、『あの笑顔』だった。
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