第30話 箱

 ヘルメスへの恋心を自覚したユティアは、心臓が早鐘のように打っているのを感じた。なぜ、今まで気づかなかったのだろう。

なぜ、気付こうとしなかったのだろう。


 ——ヘルメスへの気持ちは、師弟としての尊敬だと思っていた。

 何かあると思わずヘルメスのことを考えてしまうことも、ヘルメスの笑顔が好きなことも、表情の読めない顔でさえも、かわいいなと思ってしまうことも。


 これが、恋というものだろう。それに気づいたユティアは、なんとなくの恥ずかしさに叫び出してしまいそうになった。きっと、今自分の顔は真っ赤だろう。暗くてよかった。


「ユティア、大丈夫か?」

 いきなり黙ってしまったユティアを心配してか、ヘルメスが言う。

「だ、大丈夫です!」

 ユティアの声は情けなくも裏返ってしまった。それでもヘルメスは笑うでもなく、前を向いた。

「足音の反響音が変わってきている。もしかしたら、奥が近いかもしれない」

 ユティアも、はっとして前を向いた。そして、カンテラを出来るだけ前に掲げる。足音に耳を澄ますと、ヘルメスの言っていることが理解できた。たしかに、先程までは足音がどこまでも反響していくかのように思ったが、今はそれほどには反響していない。もし、奥が近いのであれば、もうそろそろアレスが封印される場所が近いはずだ。

 恋だなんて、浮かれているわけではない。ユティアは気を引き締めることにした。


 すぐに、ユティアたちはぽっかりと開いた場所に出た。先ほどまでは横幅はあまりない道を通ってきたはずだ。それなのに、いきなり人が30人ほど入ることができるような広い空間が目の前には広がっている。


「ここが、アレスが封印されている場所でしょうか?」

「だろうな。なにか、魔法陣が書いてある」

 ヘルメスは、地面を指していった。しゃがんで足元を照らすと、たしかに魔法陣が書かれている。この空間の地面いっぱいを覆うほど、大きな魔法陣だった。魔法陣は、何か黒いもので書かれている。

「これは、師匠の魔法陣に似ているな」

 ヘルメスは、魔法陣の紋様を見ながら言った。魔法陣を上からなぞりながら、ヘルメスは言う。

「かなり昔のものではあるが、師匠の書いた魔法陣と言ってよいだろう。書き方がそっくりだ」

 ヘルメスは感慨深そうに言った。

「この魔法陣で、アレスを封じたということでしょうか?」

「そうだな。この魔法陣は、血で書かれている」

 ユティアはひっと声をあげた。今まさに、魔法陣に触れようとしていたところだった。

「血、ですか?」

「ああ。私たちの体が4大元素でできていることは教えただろう? 私たちの体を巡る血にも、もちろん4大元素が取り込まれている。簡単な魔法陣であれば必要ないが、大掛かりな魔術を使うときには、自分の血を使って魔術を完成させることが多い。魔術師はこんなことをしないがな」

 ユティアはヘルメスの師匠を思った。これだけの大きさの魔法陣を描くために、どれだけの血を必要としただろう。そして、自分を傷つけてさえも、彼を封じようと願い、実行した。それは、なぜなのだろう。

「魔法陣の中心に、何かあるぞ」

 ヘルメスが中心をさした。

「なにが、あるんでしょう」

「魔法陣の中心にあるということは、あそこにアレスを封じた何かがあるということだ。ユティア、気をつけろ。私が見てみよう」

「はい」

 ユティアはうなずいた。ヘルメスが静かに中心に近づいていき、そして何かをしゃがんで拾ったようだった。手のひらに収まるか、収まらないかぐらいのそれを、ハンカチに包んで持ってくる。

「これは……?」

 ユティアはたずねた。ヘルメスは手のひらの上のハンカチをそっと開いた。そこには、古びた箱のようなものがあった。


 その時、どくん、と心臓が鳴り、頭に猛烈な痛みが走った。まるで、頭蓋骨を誰かに握りつぶされているような、そんな感覚。ユティアは思わず、地面に足をついた。

「ぐっ……」

「ユティア、どうした?!」

 ヘルメスが慌てて駆け寄り、倒れ込むユティアの体を抱いた。

「どうした? どこが痛むんだ?!」

 あまりの痛みに、ユティアは何も話すことができない。口から出てくるのは、ただのうめき声だけだった。どくん、どくん、と心臓が音をたてるたびに、頭が割れるように痛む。あまりの痛みに、意識が朦朧としてきた。

 ヘルメスの腕が、しっかりとユティアを抱いている。ユティアの目には、ヘルメスの姿しか映らない。

——これで、死んでしまうのだろうか。

 ユティアはそう思った。ヘルメスの腕の中で死ぬことができるなら、それも本望かもしれない。

「ユティアっ! くそ、私はまた同じ過ちを――」

 薄れてゆく意識の中、最後に見えたのは、泣きそうに顔をゆがめているヘルメスの姿だった。

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