第19話 面影の消失

 春は短い。

 少しずつ、陽が長くなっていくのを感じると、春も終わるのだと痛感させられる。

 ユティアは大木にもたれながら本に目を通す。ヘルメスの家に通って、魔術の練習をして帰っては、ここでアレスの姿を待っているだけで、いつの間にか時間が経ってしまっている。いつもなら集中して読めるはずが、ここ最近はどうしてもうわの空になってしまっていた。

 いつものお気に入りの場所に通い詰めてから一週間が過ぎたが、アレスは一度も姿を現さない。これまでアレスがこれほど日をあけることなどなかった。もしかしたら、何かの病気にかかっているのかもしれない。もしそうだとしたら、ヘルメスに薬を作ってもらうように頼もう。そう思ったユティアは、アレスの家を訪ねることにした。


 アレスの家に向かうと、ちょうど家に帰るところだったのか、アレスの母親のサラとばったり顔を合わせる。ユティアの母と幼馴染ということもあり、ユティアにもよくしてくれている。ユティアの母がこの村を出てからも、唯一親交を交わしている人だとユティアは聞いていた。その縁でユティアとアレスは許嫁となったということもある。いつもユティアに対しても優しく接してくれるため、ユティアもサラを慕っていた。

「こんにちは、アレスはいますか?」

「こんにちは、ユティアちゃん。どうしたの?」

「アレスに会いに来たんです。最近会ってなかったから」

 サラは不思議そうな顔をしてユティアを見つめる。

「アレスって誰のこと?」

「え……?」

 思わずユティアの口から困惑の声が漏れた。サラは何を言っているのだろう。

「あの、私の許婚で、サラおばさんの息子の――」

 しどろもどろになりながら答えると、サラは噴き出して笑った。

「何言ってるの、うちには息子なんていないわよ。ユティアちゃん、悪い夢でも見てるんじゃないの?」

「そんな、夢なんかじゃ……」

 悪い夢でも見ているんじゃないか。ユティアは自分の頬をつねる。きちんと痛みはある。夢ではない。ユティアの頭の中は真っ白になった。

 サラは、何を言っているのだろう。

「サラおばさん。アレスのこと、忘れちゃったんですか?」

 サラは訝しげにユティアを見た。

「私が知っている限りアレスっていう人はこの村にはいないと思うけど……。ユティアちゃん、どうしたの? 体調でも悪い?」

「じゃあ、私がこれまで会ってきたアレスは誰なんですか?」

 声が震えた。今にも泣きそうなユティアを見て、サラは顔色を変える。ユティアの頭がおかしくなってしまったと思っているのかもしれない。

「大丈夫です。変なことを言ってしまってすみません」

 サラの目から逃れるように、ユティアは早口で言った。これ以上、サラと話していられなかった。ユティアは素早くお辞儀をすると、足早にそこから立ち去った。


 予想もつかなかった展開に、ユティアの頭は爆発してしまいそうだった。母ならきっとアレスのことを知っているはずだ。ユティアは自分の道への道すがら、すべてが夢であってほしいと祈った。頭が理解することを拒んでいた。

 アレスとはこれまで共に過ごしてきた。ユティアが悩んでいたことも、楽しかったことも、すべてアレスは知っている。アレスとの日々をユティアは覚えている。アレスがいないなんて言われても、信じられるはずがなかった。


「お母さん。アレスのことなんだけど……!」

 家に帰って母の姿を見るや否や、ユティアは母にアレスのことを切りだした。

 ユティアの圧力に、母は驚いた顔をした。

「ユティア。いきなりどうしたの?」

 ヘルメスの作ってくれた薬のおかげか、最近の母はこれまでとはくらべものにならないぐらい元気だった。少しずつではあるが、畑仕事などをする時間も増え、少し無理をしても大丈夫と笑えるほどまでに快復していた。

「いいから教えて。お母さんはアレスを知ってるよね?」

「アレス……?」

 首をかしげる母の姿に、ユティアは絶望的な気持ちになる。

「アレスよ、私の許婚で、サラおばさんの息子の!」

「サラに息子はいないでしょう?」

 ユティアの権幕から何事かを察したように、母は笑うでもなく諭すように言った。

「そんな……そんなはずない。じゃあ、私の知っているアレスは誰なの?」

「ユティア、落ち着いて。アレスのことを教えて?」

 母は静かに言った。母に促され、ユティアはアレスのことを話す。アレスの背格好、ユティアの許婚だったこと、アレスとこれまで毎日のように会っていたこと。

 すべてを聞いた母は、難しい顔をして考えこんだ。

「私はアレスという人物を知らないし、ユティアの言っているアレスに該当するような人もいないと思う。そもそも、この村にユティアと同い年の人は少ないでしょう?   もしこの村の外から来たとしても、そう毎日来ているにも関わらず、誰の目にも留まってないということは考えられない」

 母の言葉は、暗にアレスという人物はいないということを示していた。

「お母さん、本当にアレスのことを知らないの?」

 信じられずに、ユティアは祈るような気持ちでもう一度母に問う。固い表情のまま、母はうなずいた。

「ごめんなさい、ユティア。私には分からないわ。あなたがこれまで会ってきた『アレス』って何者なの?」

「……」

 ユティアには答えられなかった。アレスはアレスだとしか、ユティアには言うことはできない。頭の中が混乱していた。

「ごめんなさい。ちょっと1人にさせて」

 ユティアはそう言うと、1人家を出た。足は自然とネローネの森へ向いていた。


 ヘルメスなら、何かを知っているかもしれない。皆がアレスのことを忘れてしまった原因を、ヘルメスなら突き止めてくれるかもしれない。

 それまでは絶対にアレスのことを忘れるものかと、ユティアは心に強く誓った。

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