第26話 長老

 ユティアが通されたのは、隣の部屋にある寝室だった。そこに入った途端、むせ返るような腐臭がした。ユティアは耐えられず息を止める。

「これは……」

 ユティアは絶句した。そこにいたのは、黒い影だった。

 まるで影そのものが具現化したような、どろとろとした塊が、ベットに座っているようだった。ユティアの目には、人の姿には到底見えない。ここに長老が寝ているようには思えなかった。

「母は、しばらく寝たきりになって、そこから動けない日々が続いているのだ」

 村長が説明する。ユティアは意を決して彼女のベットに近づいた。黒い塊は、ぶちゅぶちゅと不快な音を立てている。かろうじて、長老の顔が黒い塊の隙間から見えていた。


 村長の言っていることを踏まえると、『魂の濁り』と同じ現象のように思えた。しかし、これだけの黒い塊に覆われていることを考えると、もしかしたらもう助からないかもしれない。以前ヘルメスが救った、マルロの母を思い出す。あの時は、意識を取り戻したとはいえ、それ以上のことはできなかったのだ。ひたひたと、絶望感のようなものに襲われる。

「『魂の濁り』かもしれないです」

 ユティアは村長に答えるように言った。自分の出した声は震えていた。

「『魂の濁り』とはなんだ」

「……私たちの身体は4大元素からなっています。人それぞれで持っている元素量が違うのはご存知ですか?」

 ユティアがたずねると、素直に村長とアマリアは首を横に振った。ユティアもきっと、この村でだけ過ごしていたならば一生知ることはなかったはずだ。

「体内の4大元素の量が著しく低下すると、こうして『魂の濁り』と呼ばれる現象が起きるんです」

「これは、治せるの?」

 アマリアが、乾いた声でたずねた。

「何とも言えないです。私にできることはします」

「私も、できる限り手伝おう」

 そっと、ヘルメスが言った。はっとしてヘルメスを見ると、ヘルメスはユティアを応援するかのような、優しい瞳でユティアを見つめていた。

「ありがとうございます」

 何も言わずとも、ヘルメスがユティアのことを信頼してくれていることが伝わってきた。

「今から、魂の様子を見ます。そして、『魂の濁り』を取り払う」

 ユティアが大きく深呼吸をした。そして、老女に近づく。目を凝らして、彼女の細い皺だらけの手を取った。ユティアは自分の意識を手に集中させる。彼女とユティアの手が触れているところが、あわい光を放ち始めた。水色と、新緑の間のような翡翠色が、ユティアたちを包み始める。ユティアはそこから、魂を見るために、自分の意識を集中させる。そして、次の瞬間には闇の中にいた。


 自分の手のひらでさえ見ることができない深い闇の中に、気づけばユティアは投げ出されていた。

 この間練習した成果か、1人で魂の様子を見ることには成功したようだ。ほっと胸をなでおろす。そして、辺りをきょろきょろと見渡した。自分自身の手さえ確認できないような闇だ。あたりにも何があるか分からない。ユティアはがむしゃらに足を動かした。

 腐ったような匂いだけが、どこからか漂ってくる。ユティアはその匂いだけを頼りに歩く。まさに野生の勘が頼りだった。

 どれくらい歩いただろう。ユティアは闇の中に、弱々しく光があることを目にとめた。目を凝らさなければ分からないぐらいの光は、それでも小さく瞬いていた。それに近づくにつれて、匂いはだんだんと強くなる。ユティアは思わず吐きそうになりながらも、気力だけで歩みを進めた。光の中心には、長老と思しき影が闇にほとんと飲まれかけていた。


「長老さま」

 ユティアはそっと声をかけた。アンナやマルロの母の時は、魂の核はユティアに答えてくれた。しかし、長老からの返答はない。

 事実、ユティアは長老にほとんど会ったことがなかった。存在こそ知っていたが、滅多に人前に姿を表さないのだ。長老の具合がこれだけ悪いことを知っていれば、村の皆も何かしただろう。

 長老は自分の身体が弱っていくのを知りながら、黙っていたのだろうか。ユティアはそんな風に思ってしまう。

 ユティアの問いかけに対しての返答はない。答えられないほどに、魂の核が弱っているのかもしれない。ユティアは次の手順にうつることを決めた。


 ここからは、以前と同じだ。自分の魔力を注ぎ込んで、この『魂の濁り』を晴らすのだ。

 ユティアは手を伸ばして長老に触れた。

 ひんやりと、凍るように冷たい感覚がして、思わず背筋を凍らせる。それでも、手を放すわけにはいかない。

 ユティアは目をつぶって、集中した。自分の魔力が、彼女に注ぎ込まれていく様をイメージする。元素を集めた時と同じだ。自分のまぶたの裏に、その光景をありありとイメージする。自分の手から光があふれていくイメージだ。

 ――よし、イメージができている。

 魔力の波が、ユティアの体から長老に向けて流れていく。ユティア自分の魔力が長老の魂の核に注ぎ込まれていくのを実感した。


 その時、ほっとしたのもつかの間、ぐっとユティアの魔力がなにかに押し返される感覚があった。長老の魂が、ユティアの魔力に抗っているのかもしれない。『魂の濁り』がそう簡単に取り除けないということか。

 ユティアは流す魔力の量を多くした。そうすれば、押し返されてもそのまま流していけると思ったからだ。しかし、先ほどの倍ほどは魔力を流しているにも関わらず、依然として押し返す力は強い。

『ユティア。私の力も貸そう』

 その時、ヘルメスの声がユティアの頭の中に響いた。はっとして目をあけると、ユティアの手のひらから、橙色の光も放たれはじめているのが目についた。見おぼえのある光――ヘルメスの魔力に違いない。

 それを確認した瞬間、がくんと押し返す力がなくなったのを感じた。ユティアの魔力と、ヘルメスの魔力が合わさって流れていく。すると、がらがらと闇の世界が崩れていく。闇が浄化されて、光に包まれていく。

 長老の魂の核は、はっと目を見開いてユティアを見た。

「おぬしが治してくれたのか?」

 しわがれた声が、ユティアに問う。

「私と、私の師匠の力です」

 長老は、どこか寂しそうにうなずいた。

「わしを治してくれたこと、礼を言う。老い先短い老ぼれではあるが、おぬしに礼をせねばな」

「いえ、お礼なんて要らないです」

 ユティアが首を横に振ると、長老の核は微笑んだ。そして、そのまま目を閉じる。

 それを見た瞬間、ユティアの意識も、浮上していった。



「これで、一命はとりとめたと思います」

 ユティアは村長たちにそう告げた。ユティアの力では、彼女を最後まで治せたのかどうかは分からない。魂の様子を見た限り、黒い影は消えていった。回復したと言っても過言ではないと思った。

 もう闇は寝室にない。かろかやかな風が寝室の中を吹き抜けていくのを、ユティアは肌で感じた。

「感謝する」

 村長はそう告げた。長老の顔色は、これまでとは違い血色感がある。しばらくすれば、起き上がりそうに思えた。

 

 まさか村長から感謝の言葉を貰えるとは思わなかった。少なくとも、自分の力を証明できたのだ。ユティアは肩の荷が下りるのを感じた。

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