第14話  母の戦い

「お母さん。賢者さまを呼んできたよ」

 マルロが話しかけるも、彼女は何も答えなかった。――否、答えられないのだろう。淡い金髪はぼさぼさで、わずかに開いた唇はひび割れている。こけた顔が痛々しい。どれだけの苦痛が彼女を襲っているか、ユティアには検討もつかなかったが、彼女の顔はとても苦しげだった。

「これは……」

 隣に立っていたヘルメスが困惑の声をあげる。


 ユティアも同感だった。ユティアでさえこんなにはっきりと闇が見えるのだから、ヘルメスにも見えているに違いない。ヘルメスの顔に悲痛な色が浮かぶのを、ユティアは見逃さなかった。もしかしたら、ユティア以上に凄惨な状況を見ているのかもしれない。

「やれるだけのことを、しよう」

 ユティアの視線に気づいたのか、ヘルメスはユティアを見て言った。瞳には、それでも諦めの色はない。

「ユティア、君の力を貸してくれるか?」

 ユティアも力強くうなずいた。自分にできることであれば、マルロのためになんでもしてあげたかった。母を失うかもしれない恐怖を、ユティアは知っている。小さな男の子がそんな恐怖と戦っているのだと思うと、やるせない気持ちになった。

「マルロ。私たち頑張るからね」

 ユティアは母に寄り添うマルロに声をかけた。瞳を潤ませて、マルロは小さくうなずいた。ユティアはマルロの頭を優しく撫でた。


「今から治療をはじめる」

 ヘルメスがマルロの母に近づいて、その額に手をあてた。ロビンの婚約者マーナの時と同様、額から光があふれていく。その輝きは徐々に強さを増していった。

「魂の状況を見る」

 ヘルメスが言うのと同時に、ユティアの視界は闇に包まれた。マーナの時と同じ、どこまでも続く漆黒の中にユティアはいる。


 二度目だからか、今回はとても落ち着いている。マルロの母を救うために、ユティアも手を貸したい。その気持ちが、ユティアを冷静にさせているのかもしれなかった。

 目をこらすと、闇の中に微かに光がみえる。今にも消えてしまいそうな光ではあるが、きっとあそこに彼女がいるはずだ。ユティアはそこに向かって駆け出した。すこしでも早く、彼女の苦しみを取り除いてあげたかった。


 近づけるだけ近づいて立ち止まる。目の前には弱々しい光が見えるが、それと同時におどろおどろしいオーラも放たれているのを感じた。まるで小川の水が腐ってしまったかのように、鼻につく匂いさえするように感じる。彼女の姿も闇に溺れているかのようにわずかにしか見えない。かろうじて頭部が見えるかどうか、といったところだった。

「あんた、誰」

 その時、闇の中心から女性の声が聞こえてきた。すこしかすれた、女性にしては低い声だった。

「私、ユティアと言います。あなたのことを助けにきました」

 アンナの時の経験から考えると、きっとマルロの母の魂がユティアに話しかけているのだろう。

「助けにきた? もう手遅れだよ」

 吐き捨てるように、彼女は言う。

「無理じゃありません。ヘルメスが――賢者さまがついています」

「賢者さま? ああ、あのよく効く薬を作ってくれるっていう」

 彼女の顔は闇に埋もれて見えない。

「ご苦労なことだよ」

 顔は見えないが、声に寂しそうな響きがあったのを、ユティアは感じた。

「マルロが、あなたが元気になるのを待っています」

「……分かってる。マルロはあたしが大好きだからね」

「マルロのためにも、元気になりましょう?」

「……」

 ユティアの呼びかけに、彼女は答えない。闇の世界に、沈黙が広がった。

「マルロのことは愛してる。でも、疲れちまったのさ」

 ぽつりと、彼女は言った。

「売れるものはすべて打った。持ち物も、家も、体でさえも。それでも、貧しいまんまなんだ。誰も助けてくれなかった」

 ユティアは息を飲む。

「夫はいない。夫はあたしらを捨てたからね。だから、あたしが働くしかないんだ」

 彼女はぽつりぽつりと語りだす。その声には、どうしようもない悲しみややるせなさが溢れていた。

 あのぼろぼろの家の様子がユティアの頭に浮かんだ。彼女は持ち物を、すべて失ってまで、マルロを生かそうとしていた。それで、命をすり減らしてしまったのだ。

「私には、あなたの背負っている苦しみがすべて分かるわけではありません。……むしろ、村の中でぬくぬくと過ごしてきた私に、分かることのほうが少ないかもしれない」

 ユティアは口を開いた。

「でも、あなたがずっとずっと、頑張ってきたってことは伝わってきます。愛しいマルロを守るために、たった一人で。そんなあなたを、私は尊敬します。誰かのために、戦い続けることのできるあなたが、私には眩しい」

 彼女は何も答えなかった。もしかしたら、眠ってしまったのかもしれない。ユティアの声が聞こえたのかどうかは、分からない。それでも、ユティアは声が聞こえたと信じたかった。


『ユティア。聞こえるか?』

 その時、頭に響いてくるヘルメスの声に、ユティアはうなずいた。

『彼女の状態だが、かなり悪い。正直、助けられるか分からない。今から『魂の濁り』を晴らすために私の魔力を注ぎ込む。ユティアの魔力も貸してほしい』

『私はどうすれば……?』

『できるだけ彼女に触れて、自分の心臓の辺りから魔力の流れを注ぎ込むイメージをして欲しい。君がこれまで魔術を発動させたことがないのは知っている。私ができる限りのサポートはする。案ずるな』

『……わかりました』

 ヘルメスにここまで言われてしまったら、あとは腹を括るしかないだろう。

 ユティアは、彼女に近づいて、かろうじて見えている頭部に触れた。そして、目を閉じ、彼女の姿が、淡い光に包まれるところをイメージした。雨が降っている曇り空に、陽の光が差すような眩しさとあたたかさを、ユティアは思い浮かべる。

 ――どうか、私の力が届いて。

『君の魔力は受け取った』

 その時、ヘルメスの声が響いた。思わず目をあけると、ユティアがイメージした通りに淡い光が彼女の全身を覆う。そして、一際強い光がまたたいた。あまりの眩しさにユティアが目をつぶると、次の瞬間にユティアはマルロの家に戻っていた。

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