第16話 初めての魔術 前編

 ユティアは帰路についていた。胸の中にはいろんな感情が渦巻いている。

 自分が誰かを救いたいと思ったのは事実だ。それでも、本当に自分なんかができるのだろうか、という思いが去来しているのも確かだった。ヘルメスは、ユティアには類まれな魔力があると言ってくれたが、それでもこれまで魔術など一度も使ってこなかったのだ。今から学び始めるのは少し遅いのかもしれない、と不安にも思う。


 そして、もし力をつけることができたとしても、ヘルメスのようにそれを使いこなすことができるのだろうか。ヘルメスはいつも涼しげな顔をしているが、それがこれまでの研鑽のたまものであることは明白だった。ユティアがそこに追いつくまでには、あとどれだけかかるだろう。

 そんなヘルメスに「自分にも手伝わせてほしい」なんて啖呵を切ってしまったのだ。冷静になってみれば、大きな口をきいたものだと顔から火が出るような思いがする。


 ――それでも、できることをするしかない。


 決心をしたユティアの心に、ある人物の姿が浮かんだ。アレスだ。アレスには、ユティアの意志を伝えなければいけない。否、伝えなければならないと思う。ユティアは、アレスとともに外の世界に出ることはできない。外の自由な世界で生きるのではなく、ユティアはヘルメスのもとで、自分の持てる力を最大限に使いたいのだ。



 今日は、ヘルメスから初めて魔術を教えてもらう日だった。ユティアとヘルメスはネローネの森にいた。木が密集するネローネの森の中で、そこだけぽかんと何も生えてない空間がある。まるで、最初から訓練場として作られていたかのような、そんな場所だった。

 緊張で心臓がおかしいくらいに跳ねている。初めて魔術を使うことに対するわくわくと、そしてそれと同じかそれ以上の不安。


「こんにちは、ユティア、ヘルメス!」

 その時、ぽんっと音が鳴って、眼前にいきなりリリィが現れた。

「リリィ! どうしたの?」

「ヘルメスに頼まれたの! あなたが魔術を使うための手伝いをして欲しいって」

「そうなんですか?」

たずねると、ヘルメスはうなずいた。

「リリィがいれば、周りの元素量も濃くなる。そうすれば、初心者であっても元素を掴むことが容易くなるだろう。といっても、君の力の強さは未知数だからな。……リリィ、念のため手加減してくれるか?」

「分かったの!」

 リリィは大きくうなずいた。

「ユティアのためにワタシも頑張るわ」

 そう言って、リリィは一回転する。きらきらしたリリィの表情を見ていると、ユティアもだんだんと心が弾んでいくようだった。


「それじゃあ、はじめようか」

 ぱん、と手を叩いてヘルメスが言った。今日のヘルメスは、いつもの足元まである黒いローブではなく、これから畑仕事でもするような軽装だ。ユティアにも、動ける格好でと指定があった。とは言っても、毎日畑仕事をできるような簡素なワンピースを着ているので、ユティアの恰好はいつもとほとんど変わらなかった。

「まずは、体力づくりだ。走るぞ」

「えっ?」

 ユティアは思わず驚きの声をあげた。魔術を教えてもらえると聞いてきたのだが、まさか走るとは思わなかった。困惑したままヘルメスを見る。

「なんだ? 体力がなければ魔術を使うことはできないぞ」

 ヘルメスはじろりとユティアを見た。

「はい……」

「じゃあ、私の後についてきてくれ」

 そう言って、ヘルメスはいきなり走り出した。ユティアもその後について走る。リリィも、ふわふわとユティアの後を追うように飛んでいる。


 ヘルメスの走る姿は、まるで鹿のようにしなやかに見えた。体のバネをうまく使っているのか、飛ぶように、軽やかに、体がしなっている。どれだけ走ったとて、疲れないような姿勢に見えた。対するユティアといえば、どたどたと走るしかなく、ヘルメスのような軽やかさは皆無だ。それでも、ユティアはヘルメスの速さに必死で喰らいつく。


「ヘルメス……少し……休みましょう」

 もうユティアの体は限界だった。頭に心臓ががあるかのように、どんどんと心臓の音がうるさい。喉はカラカラで、舌が口の中にへばりつく。ひゅうひゅう、と喉が鳴った。脚は重く、鉛のようだ。

「ユティア、がんばってなの!」

 リリィがユティアを励ます。その気持ちはとても嬉しかったが、それでも体は正直だ。もう体は限界を迎えていた。

 かろうじて脚を進めているのは、ただのプライドだった。ヘルメスの弟子になると言った以上、ヘルメスの許しがなければ脚を止めてはなるものか、とユティアは固く心に誓っていたのだ。

 ユティアがこれだけ疲れ果てているというのに、ヘルメスはまったく堪えていない涼しい顔をしている。若干汗をかいているように見えるが、ただそれだけだ。

「あと少しだ。がんばれ」

 少し遠くで先導していたヘルメスが少しスピードを落として近づいてくる。ユティアに並走して、ヘルメスは言う。

「もうそろそろ……限界です……っ!」

「そうか。がんばれ」

 そっけなく、ヘルメスは言う。

「ユティアー! がんばれなのー!」

 リリィが大きな声で、ユティアに声援をおくった。すでに脚はぱんぱんで、ただ精神力だけで脚を運んでいるような有り様だった。

「あっちだ」

 ヘルメスが指をさす。そこに向かって最後の力を振り絞って向かった。すると、そこはぽっかりと木のない空間——最初の場所だった。

「ゴールだ」

 ヘルメスが淡々と告げる。ユティアは思わず地面に転がるように倒れ込んだ。ぜいぜいと荒い息を整える。息を吸って吐いてを繰り返すだけで胸が痛かった。

「ユティア、がんばったのー!」

 リリィがユティアのまわりをくるくると飛んだ。自分よりも、ユティアの完走を喜んでいるようにも見える。そんなリリィを見ながら、ユティアは息を整えながらも、思わず自分の口元が緩むのを感じた。

「思ったより気力も体力もあるみたいだな」

 弟子になる、というのも本気みたいだな、とヘルメスはつぶやく。

「この調子であれば、すぐに魔術も習得できるだろう」

「ほんと、ですか?」

「魔術を使うためには、精神力も必要になってくるからな。その点ユティアにはそれがあるように思う」

 すでにへとへとのユティアにとって、その言葉は涙が出そうになるぐらい嬉しかった。

「あ、ありがとうございます……!」

「ユティア、褒められたの? すごいわ!」

 リリィもにっこり笑ってユティアを褒めてくれる。

「まあ、まだやってみないと分からないがな。さぁ、立て。今度は実践だ」

 ヘルメスに急かされて、ユティアはノロノロと立ち上がった。——スパルタにも程がある。そう思いながら、ユティアは恨めしげにヘルメスを見つめた。ヘルメスはユティアの視線を感じているに違いないにも関わらず、さらりとそれを受け流した。

「さぁ、やってみよう」

 そうして、ユティアの実戦がはじまった。

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