第8話 賢者の石
それから一週間が経ち、ユティアは、再度母の薬をもらいにヘルメスの元に行くことにした。あれから何となく気まずくなってしまい、アレスとは会えていない。
――アレスのことは好きだ。
でも、それは「幼馴染」としての好きなのだろうと、ユティアは思う。〝恋愛〟というものを本でしか見たことがないユティアにとって、恋愛感情というのは未知のものだった。
おとぎ話の主人公は、王子さまと出会い、恋に落ち、そして結ばれる。恋をした相手に抱く、ドキドキするような、胸が締め付けられる気持ちを、ユティアは知らない。だからこそ、アレスへの気持ちは「恋」ではないと、ユティアは判断していた。幼馴染として、ずっと一緒に過ごしていたアレスに対して、この判断は薄情なのかもしれない。自分が薄情な性格だとは思いたくなかったが、そうとしか思えない自分自身が嫌になってしまいそうだった。
小さくため息をつきながらネローネの森を歩いていると、すぐにリリィが現れた。
「ユティア! また来たのね」
ふわふわと飛び回るリリィは、この間と同様にとても楽しそうだった。ユティアのまわりを一周回ったリリィは、浮かない顔をしているユティアの顔をじっと見つめた。
「ユティアはちょっと元気ないの?」
「……そう、かもしれない」
思わず素直に答えてしまっていた。
「あら。何か悪いことがあったのね?」
リリィは心配そうに首をかしげた。
「悪いことはなにもないんだけど、ちょっと迷っていることがあって」
「迷う?」
「自分の気持ちが分からないの」
リリィはぱちくりと目をまたたいた。
「自分のことが分からないの? 自分なのに?」
「う……。そうなの」
真っ直ぐな物言いに、ユティアはぐっと言葉に詰まる。
「ニンゲンって不思議なのね。ワタシはそんなことで迷ったことなんてないわ。だって自分のことだもの。自分の中以外に、答えはないでしょう?」
リリィはくるりと宙で一回転する。軽やかな動きに、ユティアはうらやましささえ覚える。リリィのように、軽やかに生きられたなら、どんなにいいだろう。
「好きな人と好きなことをすればいいのよ、ユティア」
「好きなことって、なんだろう……」
ユティアが小さくつぶやくと、リリィはまた目をまるくした。
「好きなことも分からないの?」
「うん」
改めて好きなことを問われると、ユティアは答えられなかった。好きなものと言われても、本を読むことしか思い浮かばない。あとは花を眺めることぐらいだ。
「好きなことをしていればきっと分かってくるの!」
リリィはそう言って力強くうなずいた。
「きっと大丈夫よ、ユティア」
リリィの言葉にはもしかしたら根拠はないのかもしれない。でも、ユティアの胸の中にはじんと響いた。
「ありがとう、リリィ」
「少し元気でた? ワタシはユティアが元気だったら嬉しい。だってユティアはお友達だもの」
リリィはそう言って屈託なく笑う。
「お友達……」
「そうよ、お友達。ワタシはユティアが好きよ。ワタシのことに気づいてくれて、ありがとう」
「そんな、お礼を言われるようなことなんてしてない」
「ううん。ワタシには、シルフのお友達があんまりいないの。だからひとりで寂しいって思う時もある。でもね、ユティアがきてくれたら寂しくなくなるの。また遊びにきてね」
ユティアはうなずいた。
「また来るね」
ちょうど、ヘルメスの家が見えてきたところだった。ユティアはリリィに手を振る。リリィは楽しそうに手を振り返すと、またどこかへ飛んでいってしまった。
*
ヘルメスの家に辿りついて、ヘルメスの家の扉をノックする。しん、と静まり返った家の様子に、ユティアは不思議に思って再度ノックする。
「ヘルメス! ユティアです」
ユティアは扉に向かって少し大きな声をだした。応える声はない。もしかしたら、不在なのかもしれないと思った瞬間、ガチャリと扉が開いた。
「……ユティアか」
「ヘルメス……!?」
扉が開いて出てきたヘルメスは、やつれきった顔をしていた。前回会った時は綺麗に整えられていた黒髪はぼさぼさで、ところどころ寝ぐせがついているうえ、目の下には大きな青いクマができている。顔色もあまりよくはなさそうだった。
「だ、大丈夫ですか?」
「ん? 私は大丈夫だ。少し用事が立て込んでいてな」
大丈夫、とヘルメスは言っているが、様子を見る限りはあまり大丈夫そうには見えない。一瞬今日は帰ったほうが良いのかとも思ったが、ヘルメスは何でもないようにユティアを家の中に促した。それでも、ヘルメスの足取りは、老人ようによろよろとしている。
「本当に、大丈夫なんですか?」
ユティアは振り返って思わずたずねた。うん?とヘルメスは眉毛をあげる。綺麗な青い瞳がしっかりとユティアを見つめ返した。まだ二十代のはずのヘルメスの瞳が、今ばかりは歴史を重ねてきた老人のような顔をする。ぎゅっと、胸を掴まれるような心地がした。
――この感覚はなんだろう。
「いえ、何でもないです」
ユティアはそう言って、前を向く。そして、眼前の部屋の様子を見て愕然とした。
この間まで綺麗だった部屋が、まるで泥棒でも入ったかのように荒れ放題だったのだ。
「これ、どうしたんですか?」
困惑を隠すことなくヘルメスにたずねると、ヘルメスはぽりぽりと頭をかいた。
「いや、依頼が立てこんでいて、気づいたらこうなっていた」
「依頼が立て込んでいたって、こんなに汚くなるはずがないじゃないですか」
「き、汚い……? 汚い……のか」
ヘルメスはユティアの言葉にショックを受けたようにつぶやいた。ユティアは言いすぎたかと一瞬後悔したが、部屋の様子を改めて見てそれを撤回するものかと心に誓った。
まるで小麦の収穫をした後の畑のように、床にまで何かの薬草が散乱している。これは家の中なのかと疑いたくなるように、草や土までが床に散らばり、その上にはメモ代わりなのか何かをびっしりと書き留めた紙が散乱している。そして、開きっぱなしにされた本があちこちに無造作に置かれている。本好きなユティアからしたら、到底それを許すことはできなかった。
「ヘルメス。この家を綺麗にしてもいいですか?」
「か、構わないが」
ユティアの声にあまりに凄みがあったのか、ヘルメスは二つ返事で承諾した。ユティアは腕まくりをして、片付けを始める。自分の中にやる気が満ちあふれていくのを感じた。
まず落ちている本を何とか置き場所を作って机に移し、本棚にたまっていた埃をはらう。次に棚という棚にたまっている埃を落とし、水拭きを行った。ヘルメスの家の家具たちはかなり古いものであるが、それでも良い素材を使っているのだろう。水拭きをするとぴかぴかと輝きを放っていくようだった。
最初はユティアの様子をおずおずと陰から見ていたヘルメスは、まるで猫が様子をうかがっているようだった。すらりと背の高いヘルメスが、縮こまってユティアを見る様子はどこか可愛らしく見えた。
「ユティア、私に手伝えることはあるだろうか」
「じゃあ、この本たちを元通りにしてくれますか?」
ユティアの言葉に、ヘルメスは素直にうなずいた。てきぱきとヘルメスの手によって本が元にあったところへ戻されていく。そんなヘルメスの姿を見ていると、あまり整理整頓が苦手という風には思えなかった。
「ヘルメスは、掃除が苦手なんですか?」
本棚に本を移しているヘルメスの背中に、ユティアは声をかけた。
「……いや、普段であればそんなことはないんだが」
「そんなに忙しかったんですか?」
「ああ。王侯貴族の連中は人使いが荒くてな。ここ三日は寝てない」
「ええ!? 三日!?」
ユティアが驚きの声をあげると、ヘルメスは振り返った。
「どうした?」
「どうした、じゃないですよ。とりあえず寝てください!」
「いや、ユティアに掃除をしてもらっているにも関わらず、何もしないというのはおかしいだろう」
「そもそも私はお手伝いに来たんです。これぐらいやらせてください」
ヘルメスは渋っていたが、顔色を心配したユティアに根負けしてソファに体を沈める。最初はどこか心配そうにユティアを見守っていたヘルメスであったが、すぐにこくりこくりと船を漕ぎはじめた。
それを横目で見ながら、ユティアは次に床掃除をはじめる。床を箒で掃くと、ぶわっと土や埃が舞う。ユティアはくしゃみをしながらも、すべての床をはききった。最後に床の水拭きをする。床に土が落ちていたこともあり、二度拭き、三度拭きを行わなければならなかったが、それでも最初とはまるで見違える部屋になった。
ユティアが満足して床の水拭きを終えるころには、ヘルメスは小さく寝息を立てて眠りについていた。起こそうか起こさないかを迷って、ユティアはじっとヘルメスの寝顔を眺める。クマの残る顔は、それでも整っていて、肌は滑らかでしみ一つない。ユティアは、ヘルメスをそのままに眠らせておくことにした。こんなに気持ちよさそうに寝ているところを起こすのもかわいそうだ。
どうしようかと辺りを見渡すと、本棚から一冊の本が落ちそうになっているのが目についた。元に戻そうと手に取ると、ひらりと紙がそこから滑り落ちる。ユティアはその紙を拾い上げた。
「賢者の石の作り方……?」
そこに大きく書いてあった文字を、ユティアは小さく読み上げる。
――賢者の石、とは何だろう。
そう思うも、その下に書いてあるのは専門用語なのか、ユティアにはさっぱり分からない文字が連なっていた。その下に、何やら魔法陣の図を使っての図解をしているようだ。なんとか解読しようとユティアは目を凝らす。
難しい言葉ばかりではあるが、ユティアにも読める文字も書かれている。ゆっくり読めば何かが分かるかもしれない。
そうしてしばし紙と格闘していると、誰かの声が聞こえた。エントランスの方からだった。
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