第2話 賢者さまの噂
家に戻ると、母はベッドに横になっていた。赤い顔で荒い息を繰り返している母の額に手を当てると、たしかにとても熱い。ユティアは力なく投げ出された母の手をとった。
「ユティア……」
ユティアに気づいたのか、母がうっすらと目を開く。
「お母さん。大丈夫?」
「すこし疲れただけよ」
母はため息をつくような、吐息まじりの声でユティアの問いに答える。これまでにないぐらい憔悴しきっている母の声に、ユティアの胸に一抹の焦りが浮かんだ。
ユティアが物心ついた時から、母の体は弱く、ユティアの記憶にある母はいつも痛々しく笑っていた。ユティアを心配させまいと、必死だったのだろう。
今回もきっと、いつもの薬を飲んで、一晩経てば良くなる。ユティアは自分に言い聞かせて、そっと母に寝具をかけ直した。
――ところが、一晩経っても、二晩経っても、母の具合は良くなるどころか悪くなる一方だった。熱は下がらず、頭痛に苦しみ、夜中にも起きてしまう。ユティアはそっと眠る母の額の汗を拭いながら、自分の無力さを痛感した。
母の容体が変わらないまま3日が過ぎたころ、ユティアは村長のもとに向かうことを決意した。ユティアの持っている薬で効かないのであれば、村長が持っている薬であれば効くかもしれない、と思ったからだ。
とはいえ、村長が手放しでユティアに協力してくれるとは思えなかった。
ユティアたち親子は、村長をはじめ村の人々にはあまりよく思われていない。それは、母が一度この村を出て、そしてよそ者の父と結婚したからだと、ユティアは認識している。
自分たちさえ静かにしていれば、誰もユティアたちを傷つけようとはしない。だからこそユティアたちは息をひそめてこれまで過ごしてきたのだ。
それでも、ユティアは腹をくくり、村長に会いにいくことを決意した。
ユティアは村の中で一番大きな村長の家に向かう。そして、こんこん、と小さくドアをノックした。中からそれに答える声がして、扉が開く。
そこから現れたのは、村長の娘であるアマリアだった。覚悟をしてきたはずなのに、体が固まるのを感じる。同年代のアマリアには、小さな頃から無視を決め込まれたり、罵倒をされていたりされていた。口の中がからからに乾いていくのを感じる。そんなユティアを、アマリアはいぶかしげに上から下まで眺めた。
「何しに来たの」
「あ、あの。村長さまにご相談が……」
アマリアは鼻を鳴らし、ユティアを侮蔑したような目で見た。
「父さんはあなたに用なんてないわ」
「お母さんが病気なんです。どうか、お薬を分けてもらえませんか」
アマリアの冷たい声にめげず、ユティアは声を振り絞った。
「あなたのようなよそ者に分ける薬があるわけないでしょう? 帰りなさい」
扉を閉めようとするアマリアにすがりつくように、ユティアは扉を掴んだ。その瞬間、問答無用で扉が閉まり、ユティアの手が扉の間に挟まる。鈍い痛みが走ったが、ユティアはそれでも声をあげた。
「少しで良いんです……!」
思ったよりも大きい声を出してしまった。アマリアは退かないユティアにぎょっとした様子で、一端は扉を開いた。手にじんじんとした痛みを感じながらも、ユティアは譲らないという気持ちでアマリアの目を見据える。
「お願いします。お母さんのためなんです」
「な、なによあんた」
アマリアはユティアの手と顔を交互に見つめた。信じられない、という気持ちが顔にありありと浮かんでいた。
「そんなこと言われても、うちだって薬はないのよ。お願いだから帰って!」
アマリアはきっと目を吊り上げて、半ば叫ぶように言った。そしてユティアをどんと突き飛ばす。思わぬことに体勢を崩したユティアは、よろめいて倒れた。その隙に扉がばたんと大きな音を立てて閉じる。
これ以上アマリアは取り合ってくれないだろう。ユティアは落胆して帰路に着いた。
*
家に帰り、母の様子を見てくれていたマーナと顔を合わせる。マーナはユティアの浮かない顔をみて、首尾を察したようだった。
「ユティア。お疲れさま」
「……マーナおばさん。やっぱりだめだった」
マーナは母の眠るベットの側から立ち上がり、立ちすくむユティアをそっと抱きしめた。マーナのあたたかさに、思わず涙腺が緩みそうになる。それでも、今ここで泣いてどうする、とユティアは唇を噛んだ。
「あたしも、なにもしてあげられなくてごめんね」
マーナがぽつりと呟いた。
「そんなことない。いつも私たちに色んなことをしてくれるじゃない」
ユティアは思わず言い返す。マーナがそっと離れた。おそるおそるマーナの顔を見ると、マーナは悲しげにほほ笑んでいた。倒れたときに一緒にいたマーナは、自分に責任を感じている部分もあるのかもしれない。マーナは、血はつながっていないにも関わらず、ユティアたち親子のことをまるで家族のように支えてくれるよき理解者だった。
「……お薬をもらえなかったから、様子を見続けるしかないのかな」
ユティアはぽつんとつぶやく。母の生命力に賭ける他ないのかもしれない。ユティアの言葉にしばし考えこんだマーナは、意を決したように口を開いた。
「ユティア。もしかしたら、お母さんを救える方法があるかもしれない。――賢者さまって知ってるかい?」
「賢者、さま……?」
初めて聞く名前だった。その言葉を反芻する。マーナは難しい顔のままうなずいた。
「息子が教えてくれたんだ。この村の人たちはあまり近寄らないけれど、町の人たちはよく賢者さまを頼るんだってさ。どんな病気だってすぐに治ってしまう秘薬を作ってくれるんだそうだよ。この国の王族の人たちも、偉い貴族の人たちも、賢者さまの作る薬を頼りにしているぐらい効くらしい」
マーナの息子はこの村を出て近くの町で暮らしている。それが原因となり、マーナはあまり村の人々からよく思われていないらしいが、この時ばかりはそれに感謝せずにはいられなかった。
「賢者さまにお薬を作ってもらえれば、お母さんは助かるの?」
「分からない。でも、行ってみる価値はあるんじゃないかとあたしは思うよ」
ユティアは逡巡した。ユティアはこの村から出たことがなかった。――これまでは、出る必要もなかった。自分の足で、この村から出ることを思うと、どうしても戸惑いがあった。
それでも、ユティア自身が母のために、賢者さまに会いにいく必要があるのだ。
「……私、行ってみる」
そう決意すると、マーナはユティアの瞳を見つめてうなずいた。
「お母さんの様子は私が見てあげるから、行ってきなさい」
そう言ってマーナはユティアに懐から何かの袋を取り出して渡した。手のひらにすっぽりとおさまってしまう大きさとは裏腹に、ずっしりとした重さがある。
「マーナおばさん――受け取れない」
袋の中身はお金だった。ユティアは思わずマーナに袋を返す。しかし、マーナは首を横に振って受け取ろうとしなかった。
「良いんだ。ユティアとお母さんのためだろう。私が金を持っていたってしょうがないさ。むしろ、使ってくれたほうが私も嬉しい。賢者さまの薬がどれぐらいかかるか、分からないだろう?」
正直なところ、ユティアの家は貧しい。マーナからの援助はとても助かるが、同じような暮らしをしているマーナからお金をもらってしまうのは気が引けた。
「なんだ。私を心配しているのかい? そんなのいいんだよ」
「でも……」
「じゃあこうしよう。いつでも良いから返しておくれよ。それで良いだろ?」
「……分かった。絶対返すから」
ユティアはマーナの目を真っすぐに見つめて言った。マーナはユティアの視線を受け止め、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「なんでそんな泣きそうな顔をしてるんだい」
今生の別れでもないだろうに、とマーナは言う。だって、と思わず泣きそうになるユティアの頭を、マーナは働き者の節くれだった手で撫でた。
「絶対大丈夫だ」
マーナの手に撫でられていると、心の弱いところに太陽の光が差し込むようだった。母のために、今自分ができることをやるしかないのだ。
ユティアは決意を胸に、家を出た。マーナは心配そうに、戸口に立って見送ってくれた。マーナが手を振るのに、ユティアも同じく大きく手を振り返しながら足を進める。
すでにお昼を過ぎ、高くのぼった太陽が、ユティアを照らしていた。
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