第1話 外の世界への誘い
春の風がユティアの髪を揺らす。ユティアは読みかけの本を閉じ、自分が体をあずけている大木を見上げた。やわらかい萌黄色の葉が、ユティアを見下ろしている。
ユティアは春が好きだった。
春はユティアの好きなアネモネの花が咲く。赤、紫、白、色とりどりのアネモネの花が一斉に咲くと、春が来たのだと実感する。
あとひと月もすれば、初夏だ。また畑仕事が忙しくなる時期がやってくる。今のように、畑仕事の合間を縫って本を読みに抜け出すことは、あまりできなくなってしまうかもしれない。初夏には劣るとはいえ、春も畑仕事が忙しい時期ではあるものの、ユティアは何かと時間を作っては、この場所に来ていた。
村のはずれにある大木の下が、ユティアのお気に入りの場所だった。大木に身を預けながら本を読んでいると、まるで大木に守られているように落ち着くのだ。
ユティアはしばし目を閉じ、風の音に耳を澄ませる。それに応えるかのように、ざざ、と木々が木の葉を揺らした。
ふと、砂を踏む音が聞こえ、ユティアは音のするほうに目をやった。すると、遠くから幼馴染であり、婚約者のアレスがこちらに手を振りながらやってくるのが見えた。
婚約者という言葉だけをみれば、アレスとユティアの関係は恋人のように思える。しかし、婚約と言っても、小さなときに親同士が口約束で交わした約束で、恋人としてお付き合いをしているわけではなかった。
それでも、ユティアとアレスはこの秘密の場所で落ち合うのが決まりになっていた。ここで各々好きなことをしたり、おしゃべりに興じたりと自由に過ごすことが、ユティアの息抜きだ。そんな日々を繰り返しているうちに、いつかはアレスと結婚するのかもしれないが、ユティアにはまだその未来が見えずにいた。
「アレス。今日の仕事はもう終わったの?」
ユティアが声をかけると、アレスは嬉しそうにうなずいた。茶色のやわらかな髪が陽の光にきらめく。たれ目がちの目を下げて、アレスは朗らかに笑う。
「うん。今日は早めに切り上げてきた」
そう言って、アレスはユティアの隣に腰を下ろした。
「ユティアはまた本を読んでいるの?」
アレスはユティアの読んでいる本に目を落とす。
「そう。この間お隣のマーナおばさんがくれたの。息子さんが昔買ってきたのが残ってたから、ぜひにって」
「よかったな。ユティアはいつも本ばかり読んでるもんなぁ」
呆れたような、そんな声音でアレスはつぶやいた。
「本ばかり読んでたら悪いかしら?」
「そんなことないよ。ユティアはいつも勉強熱心だし、すごいなーって思っただけ。この村の中でもこんなにすらすら文字が読めるのはユティアぐらいだよ」
「アレスも練習したらすぐ読めるようになるわ」
「そんな、僕には文字なんて勿体ないよ」
そういって、アレスはどこか遠い目をした。アレスに限らず、この村に住んでいるほとんどの村人が、自分たちで食べるものは自分で作る、自給自足の生活を強いられていた。ユティアのように、自分で本を読みたいと思わない限り、文字を使う機会はないだろう。アレスの言い分ももっともだと思った。
「……ユティアは、将来どうなりたいとか、そういう夢はあるの?」
ふいに、アレスが静かな声でユティアに問う。再び春の風が、ざざん、と木々を揺らした。
「将来の夢、かぁ。私はお母さんの病気が治ればいいなって思うけど、それぐらい……かなぁ」
この村で暮らす以上、多くは望まない。毎日静かにつつましく。それで良い。
「じゃあさ、ユティア」
アレスは姿勢を正し、ユティアの瞳をまっすぐに見つめた。
「僕と一緒に、この村を出ない?」
アレスの言葉に、ユティアは思わず目をまたたいた。この村で暮らす人間にとって、村の外に出るということがどれだけのことか、アレスには分かっていないように感じたのだ。
「ちょっと待って、アレス。この村を出るってどういうこと? そんなの――」
思ったままの言葉が、ユティアの口から漏れた。
「無理じゃないよ」
アレスはユティアの言葉を遮る。
「これまでこの村から出た人がいないわけじゃない。ユティアのお母さんだってそうだろ? 僕は、この狭い村の中で一生を終えたくない」
「……」
ユティアは言葉に詰まってうつむいた。言い返すことも、アレスの顔を見ることさえできなかった。
ユティアの母はこの村を一度出て、そしてユティアを生んで戻ってきた。それは事実だ。しかし、そんな母がまたこの村に戻ってきてしまったということは、すなわち、この村の呪縛からは逃げられない、ということにならないだろうか。
「ユティア、僕は君となら一緒に外の世界に行けると思っているんだ」」
アレスは、ぎゅっと固く握りこんでいたユティアの手をとった。思わずアレスを見上げると、夏の鮮やかな木々のような、きれいな緑の瞳がユティアをまっすぐに見ていた。熱のこもった瞳に、ユティアは愕然とする。
――アレスは、これまでこんな瞳で私を見ていただろうか。
「アレス……でも、私」
ユティアの口から出てくるのは否定の言葉ばかり。そんな自分をユティアは歯がゆく思った。外の世界に出たくないわけではない。むしろ、憧れは日に日に大きくなる一方だ。だからこそユティアは、そのたびに外の世界への憧れを自分の中で殺してきたのだ。
アレスと一緒であれば、外の世界に行けるのだろうか、そんな気持ちがユティアの胸に湧き上がる。それでも、ユティアにその一歩を踏み出す勇気はなかった。
その時、誰かが遠くからユティアの名を呼んだ。ユティアが声のした方を見ると、隣に住んでいるマーナが血相を変えてこちらに小走りに向かってくるのが見えた。
「ユティア! お母さんが倒れた」
マーナが声を張り上げてユティアに伝える。それを聞いた途端、ユティアは、さあっと血の気が引いていくのを感じた。思わず立ち上がり、マーナに駆け寄る。
「マーナおばさん、お母さんが倒れたってどういうこと?」
「さっき一緒に畑仕事をしてたんだけどね。いきなりふらっときたみたいで倒れてしまったんだよ」
「分かった。今すぐいく」
マーナにうなずくと、ユティアはアレスを振り向いた。心配そうな瞳でユティアを見るアレスをみて、ユティアの胸はチクリと痛む。
「ごめんなさい。この話はまた後でね」
アレスは静かにうなずいた。後ろ髪を引かれながらも、ユティアは母の元へ急いだ。
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