第3話 4月10日――『グリーンフィアー』

『グリーンフィアー』と呼ばれるそれは、世間一般では悪夢のように言われている。実際起こったことを考えればそれは実際に悪夢であり、そして地獄の始まりだった。

 

 第7温室についた俺は、いつものように自分の事務所で支度をする。靴をブーツに履き替え、自衛隊が使っていたという迷彩柄の防刃仕様の制服に、プロテクターを付けていく。防刃手袋をはめ、最後に防弾プロテクター付きのヘルメットをかぶれば、いつもの『トマト農家』の完成だ。

 一通り確認すると、俺は『武器庫』に向かうために事務所を出た。行ってサバイバルナイフをもらわないといけない。

 装備が擦れ、ジャキジャキと音を立てる。もちろん、これが昔の『トマト農家』とはかけ離れているのはわかっている。俺が子供の頃、普通の『トマト農家』といえば、近所にいるよくわからない柄のTシャツのおっちゃんだった。だが、これが今の普通だ。

 昔なら戦争でもしに行くのかとでも言われそうな、この格好こそ、今の『農家』の格好だ。こうなってしまったのも全て『グリーンフィアー』のせいだ。


 すべてが始まったのは、アメリカの山中だったと聞いている。聞いている、というのは正確にはどこから始まったのかわかっていないからだ。所詮はネット上の噂。今となっては確かめるすべもない。

 ネットいわく、最初は登山客が行方不明になったという知らせだったという。山においては、毎日のように聞くようなニュース。不用心な登山客が、不用心に道に迷い、その尻拭いをレスキュー隊がやる。その日も、そうなるはずだった。

 レスキュー隊はわかっていた。自分たちが見つけるのは、運悪く怪我や空腹で動けなくなった間抜けか、何かの拍子で出来上がった崖下の死体かのどちらかだ。その登山客が迷子になったのも、一見森で平坦なように見えるせいで、油断した登山客がよく迷子になるポイントだった。

 おそらくいつものような結末になる。彼らはそう思っていた、はずだ。それを確かめるすべはない。彼らは、帰ってこなかった。

 

 ジャキジャキと音を立てて、武器庫へと向かう。周りを見れば、俺と同じような格好の連中が同じように歩いていくのが見えた。コイツらはすべて俺と同じ『トマト農家』だ。正確に言えば43コロニー第7温室所属員云々カンヌンと長いものが続く。そこで『収穫』しているのが、トマトなのだ。

 いつものように武器庫に行けば、俺はコロニ―の門衛に出したように所属票を見せる。そうすれば武器庫番がうなずいて、奥から俺のサバイバルナイフを出してくれた。

 受け取って、すっかり使い込まれ、くたびれた革の中からナイフを取り出して確認する。黒いステンレスの刃に、俺の顔が写っていた。

 昔、たまたま拾った代物だが、すっかり長い付き合いになってしまった。定期的に手入れをして研いでいるおかげか、ここまで縁は切れていない。刃の鋭さを確認し、鞘に戻したそれを、ベルトのホルダーに差し込む。これで準備は完了だ。本当なら拳銃でも欲しいところだが、厄介なことに俺たちが行う作業にはこれこそがふさわしいのだ。なにせ、俺達がやるべきなのは、『収穫』なのだから。

 俺は武器の具合を見終えると、いつものように温室へ向かった。


 レスキュー隊が帰ってこない。それは奇妙なニュースとして地元に伝わったという。間抜けな観光客ならわかる。しかし、今回帰ってこなかったのはレスキュー隊だ。隊員七名に救助犬が二頭。行方不明の人数としては多すぎる。そこに、ヘリのパイロットの証言もあった。

 当初部隊は地上と上空で連絡を取り合っていたのだが、それが突然切れたのだという。もちろん、何かあったのかと、パイロットは下を確認した。つい先程までこの部隊はヘリのほぼ真下にいた。何かあってもすぐに目につく、はずだった。

 だが眼下に広がっていたのは、ただなにもない森だったのだという。森は、最初からそこに誰もななかったかのように、ただ風で木々をなびかせるだけだった。それは、悪夢の産声だったのかもしれない。『グリーンフィアー』は、そうして始まった。

 

 それから、世界中で奇妙なことが起き始めた。山で遭難するものが急増した。森の広がる山の中、入っていく人々が出てこない。大規模な捜索隊が結成され、山狩りをしても見つからない。毎日のように遭難者がニュースになり、いつしか人々は山に入るのをやめるようになった。

 行方不明者はどこに行ったのか? 様々な説がニュースに溢れ、しかし、どれが正解なのかもわからない。言いしれない不安が膨れ上がる。

 その答えは、最悪な形で現れた。


 バタバタと何人もの足音が迫ってきて、俺は顔を上げた。

 準備を終えた俺はいつものように『温室』への通路を進んでいけば、いつもの仕事が始まるはずだったのに、ヘルメット越しに見た光景に思わず舌打ちが出た。

 向こうから来たのはストレッチャーを中心にした、赤い一団だ。怒号を上げ、俺のように歩いている奴らを脇に押しのけ猛然と突き進んでくる。

 ため息を付いて道を譲る。

 一団が近づいてくると、鉄さびの匂いが鼻を突いた。そして、その赤色の正体もよく見える。

 連中が運んでいるのはストレッチャー、の上のけが人だ。そして、周りを囲んでいるのは今や貴重となった救命衣を真っ赤に染めた医者たちだ。

 けが人はどうやら派手にやられたらしい。押さえつけるタオルの端からでも、左肩のあたりから胸の中心部まで、真っ赤な鋭い三本爪の跡がはっきり見える。

 一団はすぐに視界から消え去った。あのまま医務室まで行くのだろうが、果たして助かるだろうか? 

 俺が学生だった頃は間違いなく卒倒ものだっただろう景色も、今や見慣れた日常だ。周りの連中も、すぐにもとのように歩き始める。中にはけが人に悪態をついているやつまでいる始末だ。俺も今更なんの感慨も浮かばない。そんなことを思い出して自分が嫌になる。

 やっぱり昔なんて懐かしむべきじゃない。

 俺は考えを消すように首を振り、また『温室』への道を歩きだした。

 

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