4.捨てられたの
今日もホームランは出なかった。
それでも、
上機嫌な背中が振り返る。沙耶のささやかな努力が水泡に帰した瞬間だった。
振り向いた叶葉は口を開かない。
「なにか言えよ」
沙耶の口調は絡むようなものになる。叶葉が笑った。
「なんでもないんだけどね。でもまあ楽しいから」
「見ればわかる。楽しい理由はわかんないけど」
「体を動かすのは楽しいよう。沙耶だってそうでしょう」
「わたしインドア派」
「またそういう適当なこと言う」
ハイだ。叶葉は傍から見てはっきりそうと分かるくらいにハイになっている。まさかこいつ酔ってやしないだろうな、と沙耶は訝しがった。
その矢先、叶葉は突然に口をつぐんだ。足が止まる。
「今度はなに?」
答えはない。沙耶の声が聞こえていないかのように、目を瞠っていた。
叶葉の視線は沙耶を通り過ぎて、車道を超えて、辿った先は向かいの歩道を歩む一人の後姿だった。
沙耶の位置から顔は見えない。カッチリしたスーツ姿から、男性ということは分かる。別に、背中に張り紙が貼られているわけでもなければ、ひどい寝癖で髪が跳ねていることもない。後姿だけで言うなら、注目に値するのはその背の高さだけだ。180cmは超えている。背の高い相手にはつい目つきが険しくなる沙耶だが、まさか叶葉も同じということはあるまい。
硬直していた叶葉は、平静を装って表情を変えまいとしている。が、沙耶から見れば動揺しているのが丸わかりだった。
「なんなの?」
今度の叶葉は反応した。かぶりを振る。男性は気づかず、後姿が遠ざかっていく。
「なんでもない。行こうか」
叶葉が向き直って歩き出す。沙耶は足を動かさない。
「沙耶?」
弱々しい目をした叶葉が振り返った。沙耶は呆れる。
「なんでもないって顔してないからね。鏡見る?」
叶葉は目を伏せた。沙耶は追求を続ける。答えたくないのならもう少しうまいことやれと思う。
「あれは誰? 知り合い?」
叶葉の口は開かれない。沙耶も苛立ってきて、口調が強くなった。
「あのさ、本当になんでもないならいいんだよ。なら少しはそういう顔してよ」
息を吸って、
「友達でしょ」
一言だけ告げて、口をつぐんだ。恥ずかしくなった。
その甲斐はあったかもしれない。視線が下がっていても、叶葉の目が右に左に揺れているのがわかった。ぴたりと止まって、息を吐いた。顔が上がる。
少しの間が空いた。どこから話そうものか、とっかかりを探していたのかもしれない。叶葉が口を開く。
「沙耶はさ、兄弟っている?」
思いもしなかった出だしだった。沙耶は眉根を寄せながらも律儀に答えた。
「いるよ。上も下も」
へえ、叶葉は意外そうに、
「なんだか、沙耶がかわいい妹やってるのも、いいお姉ちゃんやってるのも想像できないな」
「かわいい妹でも、いいお姉ちゃんでもないからね。なんのアンケートよこれ」
叶葉が歩き出す。今度は沙耶も足を動かし後を追う。叶葉は沙耶に背を向けたまま、
「あたしもいる。兄が一人」
沙耶はつまらなそうに、
「それがさっきの?」
叶葉は笑った。
「よくわかったね」
「バカにしてんのか」
沙耶は振り返って、先ほどまでスーツの後姿があった場所へと目をやる。もはや視界にはない。あの背の高さならさぞ歩幅も大きかろう。ひがむ沙耶の感想はともかく、マラソンをしていたわけでもないのだから、今からならば追いかけることはできそうだった。
「お兄ちゃーんって走ってってもいいけど」
以前に聞いたところでは、叶葉は大学入学を機に田舎からこちらまで出てきているはずだ。この近辺が兄の生活圏内の近くであるかもしれないと思うと、兄を追って来たように見える。
それは、沙耶の知らない叶葉だった。
「行かないよ」
かぶりを振って、叶葉は足を止めない。普段は沙耶の歩幅に合わせる叶葉が、沙耶をまるで考慮せず歩を進めていた。沙耶は少し駆けるようにして叶葉と並ぶ。
「隣にいたでしょう?」
「隣? なにが?」
「女の人」
「……いた?」
「いたよ」
沙耶は首を捻った。
「背、低いから。沙耶と同じくらいかな。隣に兄さんがいると目立たないかもね」
「言っとくけどね、わたしは背低くないからな。叶葉がうすらでかいだけだかんな」
自身の背丈については反論したが、それ以外の叶葉の言には沙耶は納得した。確かに、平均身長ほどの女性と、遠目から見ても180は優に超えている男性が並んでいたら、女性の方は視界に入りにくい。なにより叶葉の視線は、ブレることなく男性へと向かっていて、それをたどった沙耶の目に留まらないのも無理はなかった。
沙耶はつまらなそうに、
「彼女とか?」
叶葉は笑った。
「よくわかったね」
「バカにしてんのか」
姿も目にしていないのにわかるわけがない。三億パーセント適当な言葉だった。
「結婚するんだって」
ごく平坦な声だった。さらりと告げられて、沙耶は一瞬、言葉の意味を捉えそこねた。
「それはおめで、とう?」
思わず妙な語調になった。なにやら話がいつの間にやらよくわからない方向へと向かっていて追いつけていないし、沙耶に告げた叶葉が、喜ばしいと思っているようには到底見えない顔をしていたからだ。
曇ったビー玉のような目を前だけに向けている。口元はなにかしらの感情を浮かべないように、努めて平静を保とうとしているらしい。作り物の無表情だ、と沙耶は思った。
「兄貴取られて拗ねるには、十年くらい遅くない?」
沙耶は冗談交じりに揶揄したが、叶葉は鼻で笑った。
かちんときた。
似合わない仕草が沙耶には気に食わない。
そういうのは沙耶の領分であって、叶葉がやっていいことではなく、沙耶が見たいものではないのだ。
まったくもって勝手な認識のもと、沙耶は無言で叶葉に視線をぶつけてやった。叶葉が気づかないふりをしていようが関係ない。言葉以外のすべてで不満を表現してやるつもりだった。
しばらく気がついていないふりをしていた叶葉は、やがて根負けしてため息をついた。
ちら、とわずかな間、横目を沙耶に向けて、
「捨てられたの、あたし」
早口で言い捨てた。
「はぁ? なんの話?」
「捨てられた子犬が戻ってったって、結果は見えてるでしょう?」
遠くに目を向けて、叶葉は小さくつぶやいた。それで終わり、というつもりらしい。それきり口を閉じて、沙耶が視線で訴えようが続けることはない。
わからない話だった。
真意はわからないが、沙耶の目からは、叶葉は思いのほか思いつめた顔をしているように見える。
沙耶は少し考えて、
「それが叶葉のことだっていうなら、子犬、ってのはおこがましいわ」
叶葉の顔を見上げて茶化した。
叶葉は少し考えて、
「なるほど、沙耶の方がふさわしいね」
沙耶の顔を見下ろして乗ってきた。
しばし睨み合う。
バカバカしい、と沙耶は視線を切る。どうでもよさそうにそっぽを向いて、
「本当に捨て犬だってんなら、わたし、憧れてるのよ。あれに」
「あれ?」
「不良が捨てられた犬だか猫だか拾って、案外と善人に思われるやつ」
ああ、とか叶葉は曖昧な声を上げて、つまりどういうこと、と言わんばかりの視線を沙耶に向けた。沙耶は視線を逸らし続けた。
つまりどういうことなのかは、自分でもわからなかった。
お払い箱に槍を 芙よう @huyo_wat
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