3.なにも知らない

 叶葉かなはは、週三だったバッティングセンター通いを週四に増やした。本当は毎日でも通いたいらしかったが、日課とするには財政状況が許してくれないとのことだった。

 週に一、二回くらいは、沙耶さやがあくびを噛み殺しながら眺めていることもあった。


 沙耶が叶葉から槍のことを聞いてから、一ヶ月が経過した。ホームラン性の当たりはいまだ出ていない。


 

 大学での叶葉はよく目立つ。

 なんといってもでかい。女だてらに170を超える身長はそう多くはない。思い思いの格好が闊歩する大学ならまだしも、一律同じ制服の着用を義務付けられて、なにかと集団行動を強制される高校生活では、さぞかしうすらでかく見えたことだろう、と大学からの付き合いの沙耶は考えている。


 でかい上に顔形も整っている。沙耶の目には美容室代をケチって自分で雑に切ったとしか見えない中途半端な長さの髪に、飾り気のないパーカー姿も、多くの人からは、見た目に無頓着だけどそこも格好いい、と肯定的に捉えられている節がある。顔がいい奴は楽だ、と沙耶は妬ましく思っている。


 心ここにあらずで、バッティングのことを考えているに違いない顔も、叶葉のことをよく知らない相手には、なにごとかの重大な問題についての思索にふけっているように見えるらしかった。近寄りがたいなどと噂されているのを耳にした時、そう思われている方が双方にとって幸せかもしれない、と沙耶は半笑いになったものだった。


 そして、叶葉はいつも一人だった。目立つに決まっている、というのが沙耶の感想だった。


「なんか顔についてる?」


 大学の食堂で叶葉が頼むのは、決まってそぼろ丼だ。今日この時もそうで、栄養バランスを考えろ、というため息混じりの沙耶の小言がスルーされた結果だった。


「別に。飽きないね、それと思って」


 沙耶は割り箸の先で、向かいに座る叶葉を指す。叶葉が「行儀悪い」と注意してから、どんぶりを沙耶から遠ざけた。


「あげないよう」

「いらんて」

「ねえ、あたし午後休講でなくなったんだけど」

「知ってるよ。同じ講義とってるんだから」

「沙耶、バイトは?」

「夜勤。それまでヒマ。叶葉は? またバッティングセンター?」


 沙耶の問いかけに、叶葉が頷く。


「来る?」


 叶葉は人懐っこく笑った。普段は噂されているような澄ました顔をしているくせに、時たまこういう顔をすることがある。近寄りがたいという評判には、到底似つかわしくない顔だ。もっとこういう顔を見せてやればいいのに、と沙耶は思う。


「まあ、行ってもいいけど」


 沙耶はあえて気のない風な返事をした。なのに、なにが嬉しいのか叶葉は「じゃあ今日こそはホームランを打つよ」などと声を弾ませた。

 

 叶葉を噂する人たちはきっと見たことがない顔だろう。好物がそぼろ丼で、注意してもそればかり食べていること、実は身長の話をされるとほんのわずかにうんざりしたような顔をすること、結構な田舎から出てきて親と折り合いが悪いらしいこと、バッティングセンターの常連であること、得体の知れない槍を所持していること、長袖に隠された左手首に傷跡があること、最後のはともかく、これらも知らないことだろう。沙耶の知る叶葉の交友関係を思えば、あるいは沙耶しか知らないことかもしれない。


 沙耶はほんの少しだけ、頬が緩むのを感じた。


「なに? なんか変なとこでもある?」


 沙耶はかぶりを振った。


 けれども、沙耶だってなにも知らない。なぜ叶葉はこんなにもホームランを打つことに躍起になって、槍を自分のものにしようとしているのだろう。


 沙耶には理解できないことだった。




 沙耶が訪れた時のバッティングセンターはいつも閑古鳥が鳴いている。叶葉はたまたまだよ、と言うが、たまたまを三度も四度も見せられては信用する気にはなれない。潰れるのが早いかホームランが早いか見ものだった。

 

「今日も、おばあちゃんはいないみたいね」


 沙耶はいまだに、叶葉に槍を預けたバッティングセンターの店主であるというおばあちゃんを目にすることができていない。見てどうなるというわけでもないだろうが、しかし今日も友人が小銭をドブに捨てる様を眺めていると、文句の一つでもぶつけてやりたくなる。


「さて、せっかく沙耶が来てるんだしね、今日こそ打つよ」


 叶葉は軽く素振りをする。沙耶はじっと睨みつけた。


「目つき悪いね」


 叶葉は苦笑のつもりか、困ったように顔を歪めた。沙耶はわざとらしく、ふん、と鼻息をもらしてなにも言わなかった。


「沙耶もやらない?」

 

 叶葉の手招きに背を向けて、沙耶は吐き捨てた。


「絶対、やらねえ」


 沙耶はレジカウンターに近づいていった。


「どーも」

「はい、こんにちは」


 レジカウンターで雑誌を読んでいた店番が、沙耶を認めて顔を上げた。ともすれば沙耶たちと大して歳の変わらないくらいの女性で、バッティングセンター店主の孫娘とのことだった。


 常に閑古鳥が鳴いているようなバッティングセンターに、週三回も四回も通ってる客の顔を覚えない店員もいない。それが女子大生ともなればなおさらだ。

 お互い名前は名乗っていない。初めて顔を合わせた際、

 

「行きつけの店の店員に、顔を覚えられると次の時に行きづらくならない? 私はなる。だから君の名前は聞かないし、私も名乗らないよ」


 そんな無用なこだわりを披露されたものだが、人当たりは悪くない。沙耶がバッティングセンターに足を運んだ際には、軽く世間話などをする仲になっていた。


「どーすか最近、景気は」

「どうもこうも、ここ店員いる? あなたたちだけじゃなく、知った顔しか来ないんだけど」


 沙耶は「わたしに聞かれても」と返して、


「おばあちゃんってどうなんです?」


 孫娘は頬杖をついて嘆息する。


「だめかも」

「だめですか」

「ボケてんのよね、基本的に」

「ボケてますか」

「なにその相槌」


 沙耶はマシンに向き合う叶葉を横目で見やって尋ねた。


「話とかすることってできないですか?」

「できないことはないけど、お勧めはしないわね」


 バットがボールを弾き返す音が耳に届いた。孫娘が沙耶と同じ方向に目を向けて、


「元々、変わってる人ではあったのよ。おじいちゃんがいなくなってっからは特にね。だからそう、時間の問題ではあったんだろうけど」


 ボールが高く上がって、的には届かず落ちていく。以前よりも、叶葉の打球は高く上がることが増えているようだった。最近は野球選手のバッティング動画などを見て、自分に合う打撃フォームを探しているとのことだった。花の女子大生が熱心なことだ、と沙耶も小さく嘆息した。


 孫娘の視線がボールを追う。あるいはそうではなく、遠くでも見ていたのかもしれない。


「だから、聞かれても大したこと答えられないわよ。嫌いってわけじゃないんだけど、正直よくわかんない人だし」

「でしょうね」


 バッティングセンターの景品を槍にするような人間を、理解するのは難しい。それを欲しがっている人間のことも。


 話題の切れ目に、「あ、そうだ」と突然、孫娘がレジカウンターを探り始めた。


「あげる」


 一枚の紙が差し出される。


「なんすかこれ」

「ポイントカード。1プレイでスタンプ押したり押さなかったりする」

「なんでそんな気分で押すみたいなこと言ってんですか」

「だって気分で押してるし」


 適当な店に、適当な店番。現代日本とはここまでいい加減な店舗経営が許されるものなのか。


「十個たまったらいいことがあるかも」

「1プレイ無料とかそういう?」

「まあ、そう」

「超いらねえ」

「いいけどさ、店の人間の前でいい度胸だな。あれよ、ためるって行為はなんとなくわくわくするし、十個は一区切りではあるでしょう? 目標、かな。そういう目安にしたっていいんじゃない?」


 なにやらそれらしいような、よくわからないようなことを言う。そもそも、沙耶は今後の一生で二度とバットを持つつもりもなかったが、それこそ店の人間の前で口にすることではないだろう。

 これ以上はなにも言わず、沙耶はポイントカードをしまった。


「おばあちゃん、よくなるといいですね」

「ありがと。私も同じ」


 一際いい金属音が響いた。見ろ見ろ惜しい惜しいと叶葉がやかましい。沙耶は大口開けたあくびをして、叶葉へと近づいていった。

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