2.三億年くらいかかりそうね

 週三でバッティングセンターに通っているという叶葉かなはは、しかし野球にはさらさら興味がないようだった。なにしろ「野球? ルールは全然知らないよ。オフサイドトラップとか」などと言ってのける。もっとも沙耶さやにも答えられないし、オフサイドトラップという単語も初めて知ったのだけれども、それは置いておく。

 野球に対して失礼な認識の女子大生が、一体なぜバッティングセンターの常連になったのだと問えば、


「だって、背高いくせに運動しないとかずるいんだよな、とか沙耶がわけわかんないこと言ったからね。ジム通うより安上がりだったから。沙耶が言ったんだよ、沙耶が」


 要するに、貧乏が悪いのだと叶葉は言いたいのだろう。沙耶はそう解釈した。


 叶葉の部屋から三十分は歩いた。もう九月も半ばが過ぎようとしているのに、日中の熱気は真夏のそれだ。背筋を伝う汗を不快に思いながらもたどり着いたのは、小さなバッティングセンターだった。中に入れば、古めかしいゲーム筐体がいくつかと自販機にベンチ、ネットで仕切られて打席、数台のピッチングマシンが見える。それだけの、よくこのご時世まで生き残っていると思わせるような、寂れたバッティングセンターだった。


 客の姿はおろか、店の人間すらいない。


「これでも土日はそこそこ人いるんだけどね、平日の昼はこんなもんだよ。店番のおばあちゃんは三日に一回くらいはいるかな」


 叶葉が伸びをしながら、常連らしいことを言った。適当な店のようだった。


「それで? この暑い中、なんでこんなとこ連れてきたの?」


 沙耶は叶葉をじっと睨みつける。


「あの、ほら、あたしが槍を手に入れるのが、どれだけ難しかったかわかってもらえれば、沙耶もあの槍のありがたみがわかるかなって」

「ありがたみなんかねーよ。だいたい難しいもなにも、打てなかったんでしょ」


 ごまかしにもなっていない言葉を沙耶は一蹴する。「いやほんと大変なんだって」と食い下がる叶葉を、沙耶は雑に流すが、


「まあいいんだけどさ、ねえ、120kmって書いてないこれ? なんの数字?」


 沙耶は叶葉が向かおうとしていた打席の看板を指差す。

 今日のところは勘弁してやろう、と思う自分は人がいい。自画自賛甚だしい沙耶の自己満足に、叶葉はわずかに安堵した顔を見せて答えた。


「ボールの速度」

「誤字?」

「120出てるはずだよ、多分。マシン古いっぽいし、ほんとに出てるかはあたしには判別つかないけど、結構速いのは分かるよ」

「結構どころか車じゃん。当たったら死なない?」


 ふふん、と叶葉は人を腹立たせる笑いを浮かべた。


「ま、見ててよ。ホームラン打ってくるから」


 意気揚々と叶葉が左打席に入った。素振りをする姿は、沙耶の目にはえらく様になっているように見える。見ているだけで暑苦しい長袖パーカーのフードが、邪魔そうに揺れた。


 マシンが動く。いつボールを吐き出すのかと焦れる頃、いきなりボールが放られた。

 叶葉がバットを振る。金属音が響いてボールが弾き返された。


「は?」


 一拍遅れて声が出た。一連の流れが速すぎて、理解することに時間がかかった。沙耶にはすべてが一息のうちに過ぎ去ったように思えた。


 叶葉が沙耶を見やった。瞬きを繰り返す沙耶を目にして、満足気に頷いた叶葉はマシンへと向き直る。バットを振る。

 

 二十五球、金属音が響き渡った。


「どうよ」


 1ゲームが終わって打席を出た叶葉は、得意そうに笑いかけてみせる。沙耶は心から感心の表情を浮かべて拍手をした。


「すごい。本当に驚いた。すごい」


 若者の語彙力低下を嘆かれかねない感想に、叶葉がいい気になる。ゴミのような言葉だが、紛うことなき沙耶の率直な感心ではある。


 感心が少し落ち着くと沙耶は、ふと、自分にもできることなのではないかと思い至った。

 叶葉は実に簡単そうに、あっさりとボールを弾き返していた。あるいは、傍から見るよりは120kmというのはあまり大したものではないのか。そう、野球のことをよく知らないのは沙耶も叶葉も同じではないか。


 そんなことがあるはずはないのに。


「やってみる?」


 叶葉に対し頷きを返して、沙耶は三百円を投入した。渡されたバットは想像よりも三倍ほどは重く感じた。この時点で、やはり無理ではないか、という考えが頭を一瞬よぎったが、気の迷いと断じて打席に入った。

 叶葉の構えを見様見真似で再現したつもりの、叶葉が知ればひどくショックを受けること間違いなしの構えを取った。


「80kmでいい?」


 叶葉が尋ねた。沙耶が答える。


「いや、120でいいよ。叶葉が打ったやつ」

「ええ? 無理だと思うよ。80からにしようよう」

「やってみなきゃわかんないでしょ」


 「ちゃんと言ったからね」と叶葉は渋っていたが、沙耶には根拠薄弱な自信があった。聞く耳持たず、一回、軽くバットを振ってみせた。叶葉の顔が曇るのは見えず、沙耶はよし、と自信をみなぎらせた。


 マシンが動く。ガタガタ音を立てるわりには、ボールの補充がやけにゆっくりに感じられた。あんなオンボロマシンが120kmのボールを投げるようには見えなかった。


 アームが動く。ボールが放られる。ボールが近づくのを目にする。


 弁解をさせてもらえるならば、とすべてが過ぎ去ったあとに、沙耶は語った。ここだ、とは確かに思ったのだ。


 思ったその時には、すでにボールは通り過ぎていた。その間、沙耶はぴくりとも動くことができなかった。


 沙耶は振り返って、ネットが受け止めたボールが転がる様を見つめる。


 めちゃくちゃ速かった。当たったら死ぬと思う。


 わずかな沈黙のあと、わざとらしい咳払いをして、


「今のでタイミングは掴んだし」


 誰も何も聞いていないのに、誰が何を聞いても明らかな強がりを口にして、沙耶は二球目に備えた。今度は振る。絶対に振る。

 ボールが放られる。ものすごく速い。腰が引ける。それでもバットを振った。ボールが通過してから振ったバットになにが当たるものか。


 沙耶は転がるボールを睨みつける。後ろで叶葉が目を合わせまいとしているのが見えた。


 が、なにを思ったか沙耶は、どうだ、と言わんばかりに叶葉を振り向いた。もはやヤケクソなそれに、叶葉は言葉もない。鼻を鳴らして沙耶はマシンに向き直った。三球目。今度は打つ。絶対に打つ。



 二十五球、ボールが沙耶の前を通過した。マシンの動きが止まった。三百円を支払って、二十四回の素振りをした沙耶は、憮然としてバットを下ろした。


 腕が痛い。


「……だから言ったのに」


 呆れた声がする。沙耶は振り返った。


「……もう二度とやらねえ」


 叶葉がため息をついた。


「はじめっから120kmなんて打てるわけないじゃない。あたし、これでもちゃんと練習してるんだから」

「うるさいな。でも、練習してたって」


 先ほどの沙耶は叶葉のバッティングを素直に感心した。が、それと同時に抱いた感想がある。


「三億年くらいかかりそうね、ホームラン」


 沙耶は前方にある「ホームラン」と書かれた的に目を向けた。

 打席から真正面15、6m先にピッチングマシン、そのさらに奥、打ち返されたボールを受け止めるネットの高い位置に、「ホームラン」の的がかけられている。叶葉の打ち返したボールは的にかすりもしないどころか、一球たりともネットまで届くことがなかった。


 確かに叶葉は120kmのボールを二十五球すべてバットに当てた。当てはした。

 バットに当たったボールはそのほとんどが前方の床面に叩きつけられ転がっていくし、たまにボールが高く上がってもピッチングマシンの前あたりで力なく落下していった。ホームランが惜しいと思えるようなことは一球だってなかった。


 叶葉も自覚していたらしく、渋い顔をする。


「やっぱ力かな。パワーかな。プロテインとか?」


 本気で悩み始めた叶葉をよそに、沙耶は尋ねた。


「120km以外で打っちゃダメなわけ?」

「一番難しいやつじゃないとダメだって」


 沙耶は今度は空席のレジカウンターに目を向けた。


「おばあちゃんってのは何者なの」

「普通のおばあちゃんだと思うよ」

「普通のおばあちゃんは槍なんか持ってないと思うよ」


 あまり期待はしていなかったが、叶葉もよく知らないらしかった。


 沙耶と叶葉の二人しかいない小さな店内を、沙耶はぐるりと見回して、匙を投げた。


「意味わからん」


 店員がいたりいなかったりするのは異常だが、それを除けば、店内は寂れたバッティングセンター以外の何者でもない。つまり、おかしいのは槍を景品にしようなどと考えたおばあちゃんに他ならず、しかしこの場にいないのであれば、沙耶に状況を解き明かす術はなかった。暑い中を歩いて、三百円をドブに捨てて、腕を痛めて、なにを得るでもなかった。


 気落ちして、どっと疲れたような気がする沙耶は、身を投げ出すようにしてベンチに腰掛けた。

 ベンチの軋む音を耳にして、沙耶が不機嫌そうに口元を歪めた。叶葉を見上げる。


「やっぱさっさと返しなよ、槍。正直、不気味よ」


 理解ができない。おばあちゃんとやらがなにを考えているのかまるでわからない。何者なのかすら不明。

 槍に至っては存在すら信じがたい。今の所は実害もない。なにごともないかもしれない。断定はできない。いつか、突然に爆発でもしたりはしないと、ないとは言えない。


「よく知らない人に、よくわかんないものをもらっちゃいけないって、教わらなかった?」

「どうだったかな」

「教わってるのよ、普通」

「まぁ、そうかも」


 歯切れの悪い返答をする叶葉を、沙耶はあえて無視して続ける。


「呪いのアイテムかなんか押し付けられたんじゃない? なんか、古いし」

「古いと呪われてるの?」

「知らんけど。とにかく、それくらい不気味に感じるってこと。わかるでしょう?」


 沙耶は息を吐いた。言えるだけのことは言った。これしか言えなかった。結局、今のところは実害はないのだし、沙耶が迷惑を被っているわけでもない。どうやら、世間様にだって同じだ。沙耶がどれだけ不気味さを不気味さを覚えようと、あまり強くは言えなかった。


 槍のことだけではなく叶葉自身にも異様さを感じるていることも、言えなかった。


 そして、叶葉が困ったように曖昧に笑うのを見て、沙耶は自分の言葉で、叶葉の意思を曲げられなかったことを悟った。


「ごめんね、沙耶」


 一応は悪いと思っているらしい叶葉がしおらしく謝った。はいはい、と沙耶は適当に流しながら、あるいは長い付き合いになるのではないか、と叶葉の部屋で見た槍を思い浮かべた。

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