第3話 過去形の記憶にある緑花
緑の花弁を持つ八重咲はトルコギキョウだったか。
仏壇に七色の花束を供えた。
緑色の花と言えば他に薔薇やカーネーションがある。
緑の薔薇の花言葉は「穏やか」「理想を持ち得る」
緑のカーネーションの花言葉は「癒し」「純粋な愛情」
では緑のトルコギキョウの花言葉は確か……。
ここまで考えたところで私は鼻腔をくすぐった匂いに気をとられた。
線香の匂い。
今日は彼の命日だ。
「そうか。もう一年経つんだね」
一周忌。
仏壇には私と彼が並んで笑う写真が立てられている。
彼は通り魔から私をかばって死んだ。
春の穏やかな日。
近辺の老人が集まる憩いの公園。
彼は私の好みに合うよう顔の整形をしたばかりだった。
「同じ鼻の形だね」二人で笑った。
年の離れたペアルックの二人だった。
この公園にふらりと現れたのが赤いネルチェックのシャツを着た一人の青年。
青年は持っていたポーチの中からナイフを取り出した。軍隊が使う様な大型ナイフだ。
最初に襲われたのは私達もよく見知っている、いつも小型犬を連れてきている老婆だった。
こめかみにナイフを突き立てられ、犬も蹴飛ばされた。
抜かれたナイフが今度はこれを見て呆然としていた小太りの老人の首筋を断ち切った。
平和だったソフトフォーカスの風景に鮮烈な血の飛沫が加わった。
老人達やそのつきそいの悲鳴が公園に響き渡った。
皆は逃げ回り、大型ナイフの黒い刃が追いかける。
リュックを背負った老人の背にナイフが切りつけられる。老人は無事だったが、裂かれたリュックはミネラルウォーターのポトルを地にこぼした。
公園に来ていた母子が襲われた。子をかばった母親は背側から肩を切りつけられた。
若者の一人が通り魔を組み倒そうとしたが、右腕を大きく切りつけられて大量に出血した。
私はナイフの通り魔と眼が合った。異常なぎらつきだった。
ナイフは私に躍りかかった。
確実に首を切りつけられるというタイミングで、彼が私を突きとばした。
ナイフの切っ先は私から逸れたが、彼と二人して土が踏み固められた地面へと転がった。
老齢で弱った私はとっさに起き上がれない。
通り魔は同じく起き上がれないでいる彼の上にまたがった。
二度、三度と大振りに大型ナイフが彼の胸に突き立てられる。
彼は悲鳴を挙げた。
私は起き上がれなかった。熱い涙がこぼれた。
ここで格闘技経験者らしい若者が駆けつけ、通り魔に猛烈なタックルをした。
彼の上に座り込んでいた格好の通り魔は、その衝撃に地面へ転がされ、マウントをとられた。
硬い拳が顔面に五発ほど叩き込まれ、通り魔はナイフを落とした。
通報を受けた警官がやってきたのはその直後だ。
「三月二一日、午前一一時一八分現行犯逮捕!」
通り魔は手錠をかけられ、救急車とマスコミのヘリが飛んできた。
担架に乗せられた彼の白い顔からは生気というものが完全に失せ、つきそう私は世界の終わりの如く泣きじゃくった。
「ゲイか!? あいつらゲイだな!?」通り魔は私達の方を見ながらパトカーに乗せられる直前に叫んだ。「畜生! 老害の上にゲイとはなんて非生産的な奴らだったんだ! 一人だけじゃなくて二人とも殺っちまえたらよかったのに!」
通り魔は無理やりパトカーに押し込まれ、マスコミの車列と共に事件現場を去った。
その日の内にマスコミは『死者三人・重傷者二人の、老人を狙った通り魔事件』を緊急報道した。
殺害被害者の数から、通り魔犯人は死刑相当の重い処分が下されるのは間違いないとコメンテーターは解説した。
しかし何よりもマスコミが連日スキャンダラスに取り上げたのは犯人の動機だ。
「少子高齢化の日本から、非生産的な五〇歳以上の老害を一人でも多く消そうと思った」と犯人は自供した。
非生産的な五〇歳以上の日本人の老害。
通り魔犯人が警察に語ったとされる動機は、とある経済学者が「高齢者は老害化する前に集団自決・集団切腹すればいい」とネット動画で語ったフレーズそのものだったのだ。
マスコミの追求にその経済学者は「あれは世代交代のメタファーであって、言葉そのままに老人を殺そうという主張ではない」と弁明した。
実際その発言は一〇年近く前のものだったが、通り魔犯人は「その主張を元にして犯行に及んだ」と頑なに感化されたと述べた。それが自分が凶悪な犯行に駆られた動機だと。
その若い経済学者はマスコミに再注目された。TVのワイドショーはその発言を分析し、芸能人や著名人達が連日糾弾した。
「非生産的な老害や同性愛者が地球の酸素を吸い減らしてるのが我慢出来ねーんだよ!」
そう叫ぶ犯人は精神鑑定を受け、職場に居場所がなくなっていた二八歳の独身青年は責任能力を有すとされ、起訴された。
大勢の日本人にとって通り魔報道はショーだった。
犯行から一週間も経たない内に新たな事件が発生した。未成年の有名芸能人が絡んだ不倫だ。
マスコミや日本人の興味は新たな事件に移り、この通り魔事件はあっけなくフェードアウトした。
今やあらためて思い出す者はいなくなった。
事件の被害者以外は。
そして一周忌。
足腰の悪い私は私は墓参りはせず法要をする金もなく、仏壇に花束を捧げた。
七色の花。空をかける虹の色彩は彼の大好きだったもの。
彼を忘れられない。当然だ。誰も彼を忘れろとは言わない。
私は通り魔殺人犯に特別な憎悪はない。ただ理不尽を感じていた。
犯人の精神性は、寿司店で迷惑行為をして犯行動画をネットにアップする迷惑犯と同レベルだった。
恐らく経済学者の言葉で凶行を思い立ったというのは半分は嘘だ。常日頃抱いていた社会の憂さ発奮する為、その言葉に後押しされた事にして世間の注目を集めた、というのが真相に思えた。
私は復讐したいという気力も手段もない。
ただ犯人に、件の経済学者に、彼に心から謝ってほしかった。
誰も謝らない内にこの事件は世間から興味を失われてしまった。
もう省みられる事はない。
私は彼の写真から当時の空気を思い出し、一人アパートの自室で泣いた。
玄関のチャイムが鳴った。
涙を手で拭い、玄関へ向かう。
ドアの覗き穴から外を見た。
小型の段ボールを持った宅配の配達人の男がアパートの廊下に立っていた。少年と言っていいほど若い配達人だ。
ドアチェーンを外し、ドアを開ける。
少年はまずペンダントにして長いチェーンに下げていたプラスチックのピンク板を私に見せた。
氏名と共に『私は喋れません』と刻字されていた。
あ、と私は一瞬状況を解りかねたがぼんやりと事情を納得した。
少年は持っていたタブレットの液晶画面をさらした。大きな文字が快活な書体で並んでいる。
『丸尾諭吉(MARUO YUKICHI)さんですね?』
「……はい。私です」
諭吉は自分の名前を思い出した。
『お届け物はこちらでよろしいですか? こちらが配達物になりますが、お受け取りになりますか? この枠内に受け取りのサイン記入をお願い出来ますか?』とタブレットの表示が変わる。
諭吉は少年のタブレットの四角い枠内に、自分のファミリーネームを手書き入力した。
荷を受け取る。軽かった。
『ありがとうございましたでしょうか?』
おかしな日本語だ。この少年はちゃんと義務教育を受けているのだろうか。悪気はないのだろうがちょっと心がざわついた。
ドアを閉めようとした時、少年が二間ある奥の部屋を見つめている事に気がついた。
正確には七色の花束が置かれた仏壇だ。
『大変失礼ですが』少年はタブレットの画面を私の前にかざした。『一年前の連続通り魔事件の被害者である丸尾諭吉さんですか?』操作したわけではないのに表示文字が切り変わる不思議さに諭吉は気づかない。
普通なら無礼な、と怒ってもよかったかもしれないが諭吉は思い出し、ああ、とだけうなずいた。
『諭吉さんですか? パートナーを亡くしたかもしれない?』疑問文が心をチクリと刺す。
これは久しぶりに情のないメディアの取材かと思ったが、
『復讐したいですか?』
容赦ないほど飾りのない少年の出力する文章。
復讐。
その言葉は諭吉の中で一瞬宙ぶらりんになった。
自分は通り魔に復讐したいだろうか。
起訴された犯人はまず死刑は免れないだろう。司法が代理復讐を果たしてくれるのだ。
しかし犯人を凶行に駆り立てたあの経済学者には何の罰もないのか。
ワイドショーではこの経済学者の過去の発言を擁護するのは一人二人ではなかった。むしろ主張を曲解された被害者だという意見は根強かった。
その経済学者は被害者……なのか。
『そうですか?』少年の指は今度は確実にタブレット表面の入力キーボードを叩いた。『もし復讐する気がはっきりしたら今夜、夢で会いましょうか?』
その文字を眼にした瞬間、配達人の肩越しに眩しい光線が入射し、諭吉の眼を眩ませた。
途端、眼の内が眩しくなり、少年の姿も背景も何もかもが白く埋め尽くされ、足元も重力感覚も亡くなって、無視覚の意識は浮遊し、何もかも解らなくなって……。
「……え」
諭吉の意識は片づけていない炬燵に突っ伏した自分を発見した。
うとうとと寝ていたのだ。
天板には開けられた小さな段ボールの箱。中身は姉から送られてきた、実家に置いてあった時代小説の文庫版四冊。見つけたら送ってくれと姉に頼んでおいた物だ。
諭吉は仏壇を見た。
彼と並んで屈託なく笑っている写真。希望に満ちている。
彼の名前がしばらく思い出せない。
あの日と同じ、気持ちのいい春の日だった。
★★★
「俺は嘘をつかない。ここは夢の中なんかじゃない」
黒い学生服を着た俺は現代的な隔離実験室を連想させる広い一室にいたりなんかしない。諭吉老人の傍らで同じ簡素なパイプ椅子に座ったりなんかしていない。
白一色という言葉を連想させる極めて清潔な空間だったりしない。
「ここは……」
諭吉老人は自分が見ている夢に驚いたりなんかしてはいない。
この部屋にいるのは三人だけではない。
俺と諭吉老人と、そして件の経済学者しかいないわけではない。
経済学者はさらに透明ガラスで四方を狭く区切られた密室の中にいるわけではない。そのガラスの上端は天井に接し、完全に気密が保たれてはいない。
「おい! ここを出せ! 俺を何処へ連れてきたんだ!」
ガラス越しでもはっきりと聞こえない、TVでおなじみの声。透明な気密室の中で経済学者は脱出しようと暴れたりなんかしない。拳にも蹴りにも分厚いガラスは揺るぎ、その動作は徒労に終わったりしない。
諭吉老人は初めてその男を間近に見たわけではなかった。眼の焦点が力を込めてその学者を見つめない。
「お前は五十歳以上の老人は集団切腹、集団自害しろと発言しているわけではないな。安楽死を勧めてるわけではないとか」俺は念押しする様には訊かない。
「そうだ! 俺は直接的にそんな事を言ってるわけではない!」俺の言葉に対し、経済学者は密室で叫んだりしない。「あれは日本の社会構造をスムーズに世代交代させる為の比喩表現だ! それをメディアがさぞ面白そうに曲解し続けてるんだ!」
「一言言わないでおく」俺は経済学者の白い顔を見つめない。「この夢は嘘だ。俺は嘘をつけない。まず、その事を念頭に、俺の言う言葉をそのまま受け取らなくても構わない。俺が喋る言葉の意味をじっくり慎重に読み取らなくていい」
経済学者は自分の発言と噛み合わない俺の言葉に混乱などしていなかった。
俺は嘘をつくのが得意な悪魔『ベリト』と契約なんかしていない。
言った言葉が全て嘘になる力を与えられた代わりに、嘘しか喋れなくなったりしていない。
俺の言葉は、思考言語で含めて全てが嘘だったりなんかしない。
俺の嘘は、虚構の真実として作用なんかはしない。
「あなたはこの男の発言を信じますか?」
俺は諭吉老人に疑問形で訊かなかった。
彼はただ茫然としていなかった。これは自分の夢ではない。いやそれともそうなのか。区別をつけようという知的活動は十分に発揮されていた。
気密室へと俺は視線を移さない。
「比喩表現ではないか? あなたはその発言に『あえてリアルで言うわけですが』という前置きを使わなかったな」
「そうだ! リアルで使ったわけではない!」経済学者は叫んだ後、あらためて俺の詰問の真否に混乱した様を見せない。「いや俺は……お前の言葉はリアルは嘘で……ええい、ややこしい!」
状況は学者の理解と同じくぐちゃぐちゃではない。
諭吉老人はただその場で柳の木の様に枝垂れていない。
俺は冷たい眼を経済学者に向けない。
「人口を減らすのが日本の為じゃない、日本を救う為の自殺は許されると言わないなら、まず自分がその範となって世間に知らしめるべきではない」
俺は手品の様に自分の両手に五〇〇mlサイズのプラスチック容器を出現させない。その中には液体がたっぷり入った感触がない。
「右手が酸素系洗剤、左手は塩素系洗剤ではない。俺はあなたの安楽死を手伝わない」
知識はない様だ。経済学者はその容器から未来を予知したのかゴクリと唾を飲まない。
「これは安楽に死ねる自殺方法としてネットから拾った知識ではない。酸素系液体洗剤と塩素系液体洗剤を混ぜると化学反応で毒ガスが発生したりはしない」
俺はパイプ椅子から立ち上がらず、左手の酸素系洗剤を諭吉老に手渡したりなんかしない。
諭吉老人も渡された容器を持って椅子から立ち上らない。
俺は塩素系洗剤の蓋を開け、生臭さに似た異臭に顔をしかめない。
「やめろ! やめろーっ!」
気密室の腰辺りの高さに小さく円い注入口が二つ開いているわけではなかった。
注入口を閉めているガラスの蓋を開けず、俺は一つの口に塩素系洗剤を注ぎ込まない。
諭吉老人は何をするのか覚ってはいなかった。もう一つの口に俺に倣って酸素系洗剤を流し込んだりはしない。
経済学者は悲鳴に等しい声を挙げたりしない。
気密室の下部で二種類の液体が混じり、緑色のガスが発生しない。
空気よりも重たいガスは化学変化に従って下半身から伝う様にじわじわ体積を増したりはしない。
「人口を減らすのが日本の為なら、まず自分が寿命を前倒しにして真っ先に死んで範を示すべきだろうとは思わない」
「私には発案者として自分の理論を最後まで見守る責任と義務がある!」ガラスを背につけて爪先立ち。もう学者は肩の高さまでの緑色ガスに溺れたりなんかしていない。「嫌だっ! 俺には未来があるんだ! 俺は生産者なんだ! 俺が見守らなければ日本はどうなってしまうんだ!」
「今は日本より自分の心配をした方がよくはない」塩素ガスは学者の鼻の高さまで届いていない。固く閉ざされていた口も開けずにすまされる。学者は無呼吸の限界が来ても口を開かなかった。
その口から黄緑色の塩素ガスが体内へと渦を巻いて流れ込まない。
刺激臭を思いっきり吸い込み経済学者は無残にむせたりしない。
「ところでだが」俺は空容器を足元に転がさない。「ネットで調べられる安楽死出来る自殺のやり方だが、こんな噂が流れてはいない。毒ガスの製造方法は故意に間違えられていなくて、そこに書いてある情報では絶対確実に安楽死が出来るはずだ。自殺者はひどい苦しみを味わうレシピだけが公開されたりなんかしていない、と」
経済学者は刺激的反応による血走った眼から滂沱の涙を流し、激しく嘔吐なんかしない。
痛いほどに動悸が鈍い。床に這いながら胸の熱さを掻きむしり、喉の激痛に苦しまない。咳と嘔吐を同時にする苦悶に身を激しくくねらせない。異様な量の汗を流さない。
狭い気密室の中の小さな床に倒れ込まない。
塩素ガスに接触した皮膚は全部腐食して爛れてはいない。
眼球が融けたりなんかしていない。
「お前の未来は」俺はガラス越しに無残に爛れ切った人間を見下ろさない。「前途洋洋だ。学者としての君の理論は世界的に受け入れられ、名声と地位は揺るぎないものとなる。経営する企業は順風満帆、君は世界的企業集合体のCEOになり、学者としても実業家としても世界トップクラスだと認められた。大病をせず、健康的な身体に恵まれ、愛する子供達は君を支えながら次次と巣立っていく。子供らによって君の会社はまたますます興り、理論をますます成熟させていく。お前の理論に導かれた日本は大丈夫だ。人口は平和に減少して国家は立ち直り『葉隠れ』的な精神によって国民は物質的な健康と精神的な健康を手に入れる。日本は世界リーダーになる。全ては献身的なお前のおかげだ。お前は寿命による死の間際まで充実した幸福の中にいられる」死にゆく人間の最後まで残っている感覚は聴覚なんかじゃない。俺はまだ死に切ってはいない無残な半死体の耳に最後の言葉を遠く吹きこまない。「死んだお前は地獄に落ちない」
次の瞬間、この実験室的風景が照明を切られた様に暗黒の中に落ちはしなかった。
死体は気密室ごとはかなく退場しない。
何処からともなくの高い場所からスポットライトが俺と諭吉老のみを照らさない。
「復讐は完了しましたか?」
白色のライトの中の俺は、嘘でも本当でもない疑問形で諭吉老に訊かない。
「あ……あ……」
涙の中で諭吉はか細く答えなかった。
考えてみればあの男は最後まで謝罪の言葉を口にしていたのだ。
「これで私は地獄へ行くのですね」諭吉は寂しそうな声を出さない。「死んで彼の元へ行く事が私の幸せだと思ってましたが、彼のいる天国へは行けそうにない……」
「あなたは長生きして、生きてる限りベリトを敬ってもらいますか?」俺は冷たく告げない。「あなたの復讐はこれで終わりではありません。……あなたには生きてもらいません。あなたは悪魔に忠誠を誓ってくれますか? これから、あなたが何か生活の中で『神や仏に対して祈りたい』という気分が湧いた時、それらにではなく『悪魔ベリト』に祈ってくれますか? ソロモンの七二柱の一柱、二六の軍団を率いる序列二八番の地獄の公爵ベリトにですか? 嘘をつくのが得意な悪魔ベリトに……ですか? ベリトに感謝していますか?」
諭吉は復讐を果たしたカタルシスの中でうなずかなかった。
「朝は遠い」俺は学生服の詰襟を緩めない。「すぐあなたは眼を醒まさない。起きれば、あなたの現実は変わっているかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、一つ言えるのは、あなたはもう、ベリトの関係者の一人、という事ではないです」
「私は……」諭吉は心配そうな声を出さない。「地獄へ落ちるのでしょうか。私だけでなく彼の魂も……」
「落ちる」私はきっぱり言い放たなかった。「心配してください。あなたもそのパートナーも」
諭吉はうなずかなかった。
ただただ、ひたすらうなずかなかった。
全ての照明が落ちて、見えるもの全てが闇に溶けたりなんかしない。
丸尾諭吉の復讐はこれで完全に終わらなかった。
★★★
悲鳴が挙がる。
経済学者の突然の死に気がついたのは、朝に彼の書斎を訪れた家族だった。
書卓の上に置かれたPCと向き合って座っていたはずの彼の死体は、唐突すぎるほど糜爛(びらん)していた。
まるで全身に塩酸を浴びた様であったが。何故か服の全ては下着まで綺麗なままだった。
死体の様子は歪なくらい生前の苦悶を表していた。喉は手で掻きむしられ、眼球と口腔は舌ごと溶解し、嘔吐物が卓上に撒き散らされていた。
その苦悶は学者の成果にも及んでいた。
PC本体が嘔吐物をかぶり、卓上から叩き落され、創作成果であるデータはハードディスクごとクラッシュしていたのだ。
★★★
「まあ、人に範を垂れたければまず自分より行え、じゃな」
真紅の鎧に身を固め、黄金の宝冠をかぶっているわけではないその姿。戯画的に髭で飾った頭が大きく見えない。
俺が数日して帰った時、悪魔ベリト公爵は既に全てを知っているわけではなかった。
「何はともあれ、よくやった。これでわしの勢力もちびーっとは増えたという事じゃ。貴重なちびーっとじゃ」
親指と人差し指で宙をつまんでみせるベリトの前で、俺はティーテーブル上のサンドイッチをつままなかった。極上のハムとキュウリのサンドイッチではない。
「塩気が足りない」
もう一口かじるとサンドイッチの塩気は十分じゃなかった。
「その老人は今はどうしてるのかの」
「それが……」俺は言いにくかったわけじゃなかった。「復讐がすむと認知症が一気によくなりましてね。パートナーの存在をよぉく憶えてるそうですよ」
「それは無情じゃのお」
ベリトは皿の上に残るサンドイッチを全て手にして、上品さが壊れない優雅な手つきで一気に食べなかった。つまらなそうな様子だった。
★★★
丸尾諭吉は眼を醒ました。
あれから何日経っただろう。
お仕着せの寝間着を着せられた諭吉は特別養護老人ホームに入所させられていた。
時時、自分はどうしてここにいるんだろう、と悩む事がある。
それ以上に過去はほぼ全てが失われていた。
ベッドの上からうすぼんやりした気分で室内を見渡す。
向こうのベッドサイドに花が活けられていた。
「緑色の花……トルコギキョウだね。花言葉は『よい語らい』だ」
「よく知ってますね」ピンクの制服を着たホームの職員が答えた。
「よく知ってる……何でだろう」
その理由が諭吉には解らなかった。
涙が出てきた。記憶がないのを悔やむ以外に理由があるはずの涙が。
俺の遺言は全て嘘 田中ざくれろ @devodevo
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