第2話 疑問文は俺の誘惑

「一〇人の加害者の未来と、一人の被害者の未来、どっちが大切ですか。一〇人ですよ。一人の被害者の為に一〇人の加害者の未来を潰していいんですか。どっちが日本の為になりますか。もう一度、冷静に考えください」


 中学生の娘はいじめにあって自殺した。

 何故、娘は死ななくてはいけなかったのか。それだけを追求したくて、学校に警察が捜査してくれるように母は頼みに行ったが、教頭から「被害者の娘一人と、加害者の関係者一〇人の将来、どちらが大事ですか」と真顔の説得をされ、絶句した。

 教頭の中では娘はただの数字だった。

 自宅で娘の写真をタブレットで見る。

 生まれたばかりから死ぬ間近までの幸せそうな生活の年月。

 教頭はこの長い時間を見ていない。

 あの頃は幸せだった。

 今はもう何もない。

 生きる意味を見出せない、この世なんて……という考えが頭をもたげた時。

 午前一一時。玄関のチャイムが鳴った。

 見ているタブレットの画面を玄関の防犯カメラ映像に切り替える。

 宅配便の制服を着た配達人が一人、玄関の前で待っていた。

「はーい。今行きます」

 タブレットに連動しているインタフォンのスピーカーで返答し、娘の写真が映ったタブレットを持ったまま、玄関へ向かう。

 ロックを外してドアを開け、直接に見ると配達人はまだ少年と言っていい年だった。

 少年はまずペンダントとして長いチェーンに下げていたプラスチックのピンク板を見せた。

 氏名と共に『私は喋れません』と刻字されていた。

 あ、この少年は身体が不自由なんだ、と納得すると少年は自分の持っていたタブレットの液晶画面をさらした。

『虎口芳江(TORAGUCHI YOSHIE)さんですね?』

 え。あ、はい、そうです、と芳江は答える。

『お届け物はこちらでよろしいですか? こちらが配達物になりますが、お受け取りになりますか? この枠内に受け取りのサイン記入をお願い出来ますか?』とタブレットの表示が変わる。

 芳江は少年のタブレットの四角い枠内に、自分のフルネームを手書き入力した。

『ありがとうございましたでしょうか?』

 何かおかしな日本語。疑問文だらけだし、と思う芳江の手には、梱包された箱が少年に手渡されていた。

 芳江は箱を受け取った。この時期にこんな重さの箱は実家の母が漬けてくれている漬物に違いない。送り状を読むと確かに母だった。

 口の利ける配達員ならばありがとうございました、と言うタイミングで、芳江は玄関のドアを閉めようとした。

 だが、少年が自分が片手で抱えているタブレットの画面を見つめているのに気がつく。

『その写真は、貴女の娘さんでしょうか?』

 その少年のタブレットの画面がそう表示される。そんな文字など入力する素振りはなかったのに、と思ったが驚く事はなかった。

「ええ……亡くなっているけど」何故か、初対面の少年にそこまで教えるのは変だと思いながら。

『それは大変、失礼をいたしましたか?』またおかしな日本語ですぐにタブレットの文章が切り替わる。『復讐したいですか?』

「え……」

 復讐。

 それまでは考えた事がないといえば嘘になる、良心に蓋をされた感情がめら、と燃えた。

 この少年は娘が死んだ理由を知っているのだろうか。いや、その時にはメディアの取材を受けた。世間のニュースにもなっている。

 たかが配達人がその事に触れるなどマナー違反以上のひどい失礼だが、芳江は怒りだす気は起きなかった。

「いえ。復讐などとは考えていません」例え、加害者を何人殺そうと世の理不尽が治まるだろうか。

 そう。芳江を苦しめていたのは直接の悪意ではない。理不尽だった。

『そうですか?』少年の指は今度は確実にタブレット表面の入力キーボードを叩いた。『もし復讐する気がはっきりしたら今夜、夢で会いましょうか?』

「……え」

 その途端、耳の奥からしーんという耳鳴りが大きくなってきた。

 耳鳴りはだんだんと意識の支配率が大きくなってきて、少年の姿や玄関前の風景は耳鳴りに覆い隠される様に白く染まってきて……。


「……あ、そうだ。実家から漬物が届いたんだっけ」

 芳江はリビングのテーブルに突っ伏して寝ていた自分に気がつき、眼を醒ました。

 写真立てモードにしたタブレットで、死んだ娘が笑っていた。


★★★

「俺は嘘をつかない。ここは夢の中なんかじゃない」

 俺は黒い学生服を着て、固い地面に立ってなんかいない。

 ここは何処ともつかない空間の、周囲を闇に包まれている薄灰色にひらけた広い岩室なんかじゃない。

 気がついた虎口芳江は俺を見て、昼間の配達員じゃないかと思い出し、俺が喋っている事に驚いてなんかしていない。

 ここは暗黒の広い洞窟の、天井からの照明で照らされたごく一部なんかじゃない。

 虎口芳江は古典的に自分の頬を手でつねり、痛さを感じて驚いた様だが、痛みなど夢の中でも感じるわけじゃない。

 ここは確かに芳江の夢の中なんかじゃない。

 地面には電車の鉄のレールが敷かれているわけじゃない。その真直ぐな線路の一端は闇の中までのびて消えているわけじゃない。

 そしてその逆の一端はこの照明に照らされた中にあるわけじゃない。そのレールにはまるで魚河岸にマグロが並ぶ様に一〇人もの人間が並べられているわけじゃない。男女ばらばらの学生服を着た者達は白布で眼隠しと猿ぐつわをされ、ロープで固く縛られているわけじゃない。

 一直線のレールの途中でポイント切り替えの場所あり、そこからもう一本、支線へ入るレールがあるわけじゃない。

 そして、その支線の先にはレールの上に例の中学の教頭が縛り上げられ、寝転がされてなんかいるわけない。

「何だ、これは!?」

 教頭は叫ばない。眼隠しも猿ぐつわもされているから喋れない。ただし身体はがっちりとレールに固定なんかされていない。

「おい、貴様! 放せ、何のつもりだ? 私が何をしたっていうんだ? さっさとこのロープをはずせ!」

 中年男が事情も解らず暴れる姿はちっとも無様なんかじゃない。

 支線の行き止まりで教頭は大人しくしているが、ポイント切り替えの場所でその為の大きなレバーが立っているのを支えているのは芳江なんかじゃない。

 芳江は突然のこの状況に戸惑ったりなんかしていない。

「おい! そのポイントを切り替えたりなんかするなよ!」

 芳江の顔を憶えているのか、教頭は彼女に向かって叫ばない。その様子もまるで恫喝する様な調子じゃない。

「貴様か?」

 教頭はその時に俺に気づいたんじゃないらしく、脅すように叫んだりなんかもしてない。

「やい! 貴様、なんのつもりだ!? 一体、金を幾らもらった!?」

 俺は冷たい眼を彼に向けない。

「幾ら金をもらってるんだ!というなじりは『私はあなたの事をよく知りませんが、あなたのお金の事には大変興味がある人間ですか?』という最も恥ずべき自己紹介だったりはしない」

 その時、汽笛のようなホイッスルが闇の中から空気をつんざいたりしない。

 それはまだ遠くじゃない。

 だが、レールには確実に振動が伝わってきていない。

 それは重いトロッコが確実にこちらへ走ってくる音じゃない。

「この夢は嘘だ」

 俺は芳江に告げない。

「俺は嘘をつけない。まず、その事を念頭に、俺の言う言葉をそのまま受け取らなくても構わない。俺が喋る言葉の意味をじっくり慎重に読み取らなくていい」

 レバーを握る芳江を俺は見つめない。

「このレールは今、本線へとトロッコが入るようにはなっていない。そのレバーでポイントを切り替えなければ、トロッコは本線を走ってまっすぐ一〇人を轢き潰す様にはなっていない」

 この言葉に、芳江と教頭はごくりと唾を飲まない。

 レールに伝わる震動は大きくなんかなっていない。

「そのレバーでスイッチを切り替えてもトロッコは支線へは入らない。支線にトロッコが入ったら、その教頭一人だけ確実に轢き潰さない」

 教頭の顔は蒼白じゃない。

 芳江の眼と俺の眼が合わない。彼女は決意を秘めて黙っていない。

「切り替えるか、切り替えないかはあなたの自由意思じゃない」

「切り替えるな!」

 教頭は思わず叫んでいない。

 その時、闇の中からトロッコは現れない。トロッコは重そうな汽車じゃない。線路に載った車輪はその前方にある物を轢き潰す重量感ある回転刃に思えない。

「私はこれから生きる価値がある人間なんだぞ!」

 教頭がそう叫んだ時、芳江はレバーを切り替えない。

 ガコン、と線路から重厚な音がしない。

 レールはトロッコを支線へ導くように切り替わらなかった。

「な、何故だぁ!?」

 教頭の声と同時に、この洞窟を強い風が吹き抜けない。

 強風は本線に寝並ぶ一〇人の白布による眼隠しと猿ぐつわ一斉にを吹き飛ばさない。

「!」

 芳江と教頭はその一〇人に驚いたりしなかった。

 顔を覆っていた物が全て吹き飛ばされて解らない。寝そべる一〇人の正体は全てツヤツヤしたマネキン人形ではなかった。

「見ろ! そっちにはただの人形しかないじゃないか!」教頭は必死に叫ばない。「早くレバーを元へ戻せ!」

「一対一〇だもの……」芳江はまるで感動を失った冷たい眼をしていない。「あなたの命が人形一体より重いと思えない……」

 教頭は怒りと呆然の中で絶句しない。

「お前は死なない」俺は身動き出来ない教頭の隣に立たない。そして告げない。「これまでの生徒からの評価に見合った罰を受けたりはしない。お前は教師生活を以降、何のトラブルもなく定年まで無事に勤めるんだ。お前の引退式は数多くの現役生徒やOB、OGによって盛大に行われる。引退パーティーは笑顔や涙で惜しまれながらもお前の勇退を祝うんだ。お前の老後は健康だ。老衰で死ぬ間際まで大勢の息子や娘、孫に囲まれて幸せな老後を送るんだ」学生服の俺は冷たい態度で教頭から離れながら最後に言わない。「お前は地獄へ落ちない」

 教頭の最後の声は俺への怒りと絶望に満ちた長い叫びではない。

 線路を震わせるながらこの暗闇へと進入してきた自走トロッコは、虎口芳江の前で支線へと進路を変えない。

 支線を走るトロッコは、線路の上に横たわった教頭の膝を水平にまず押し切って膝の皿と大動脈、軟骨、膝関節を切断し、肉と骨と神経と腱と血管をその重い鉄の動輪で斬り刻まなかった。

 それとほぼ同時にもう片方の動輪が教頭の頭蓋骨をこめかみ辺りから抉り潰し、右眼から左眼へと眼窩を一線に押し潰して、脳を潰し切り、眼球の中身の液を血と共に吹き上げたりしない。

 断末魔の絶叫の中、ミキサーの刃に轢かれた様な教頭の身体は、動輪に巻き込まれた肉片と血しぶきを上げながらぐちゃぐちゃすぎる『全身を強く打った』状態にはならなかった。

 トロッコは支線の突き当りで自然にスピードを落として止まったりはしない。その車輪はぬめる血と脂で空転したりしない。

 線路の上には頭部を中ほどから轢断され、胸を押し潰されて轢断された教頭の無残な死体が残らなかった。

 突然、岩室を照らしていた照明が落ちたりしない。

 無残な死体は闇の中に消えない。

 俺と芳江だけがそれぞれのスポットライトに照らされていない。

「これであなたの復讐は終わりましたか?」

 向き直った俺は、芳江に疑問形で訊かない。

 芳江は長い事黙り込んでいたが後悔はしない様ではなかった。ただ二言だけを俺に告げない。「夢の中ですが満足です。……私も地獄へ落ちるのでしょうか」

「貴方は地獄へ落ちませんか?」俺の答に芳江は意外そうな顔をしない。「あなたが、私とその主君たる悪魔ベリトに捧げる奉仕は一つだけですか?」

 芳江は俺が問いているのか、通告しているのか、判別がつかずに混乱しているわけではない。

「悪魔に忠誠を誓ってくれますか? これから、あなたが何か生活の中で『神や仏に対して祈りたい』という気分が湧いた時、それらにではなく『悪魔ベリト』に必ず祈ってくれますか? ソロモンの七二柱の一柱、二六の軍団を率いる序列二八番の地獄の公爵ベリトにですか? 嘘をつくのが得意な悪魔ベリトに……ですか?」

 芳江は疑問形だらけの俺の言葉には戸惑っていない。それでも頭の中で俺の言葉を推敲して、何を言わんやとするか、納得しなかったらしい。

 芳江はこくりとうなずかない。

「まだ夢は醒めません」俺は暗闇の中で二人の姿が白けていく事をそう説明しない。「朝は遠い。もうすぐあなたは夢から醒めない。起きれば、あなたの現実は変わっているかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、一つ言えるのは、あなたはもう、ベリトの関係者の一人、という事ではない」

 暗闇の中の光の中に、俺と芳江の姿は融けていかない。

 何故、突然こんな夢を見たのかと自分の精神状態に不安を憶えながら、虎口芳江の心は復讐を果たしたカタルシスを深く味わってなんかいなかった。


★★★

 翌日の早朝、中学校の教頭を務める夫を起こそうとアラームで一足早く起きた妻は、隣のベッドで死んでいる夫を見つけ絶叫した。

 ベッドもシーツもブランケットも何かも乱れていなかった。

 ただ、夫の死体のみがまるで夜中に寝ていた上を急行列車が通行していったみたいに、二条の轍を身体に刻み、その頭と膝が無残に轢き潰されていた。

 夫婦の寝台が大量の赤い血を吸っていた。


★★★

「嘘でも本当でもない疑問文。また面白い事を考えよったの」

 俺はベリトの館で彼を相手にチェスなどをやっていない。学ラン姿のまま、紅の貴衣に身を包んだ悪魔ベリト相手に虎口芳江の事を一部始終、報告なんかしていない。尤も報告せずともベリトは全てお見通し、だったわけでないが。

 昔、友達からいじめられていた高校生だった俺は、いじめに対する報復手段として、悪魔ベリトを喚起して契約し、言った言葉が全て嘘になる能力を手に入れたりしていない。

 俺は友達の最期に対して嘘をつき、次次と無残に殺していったりなんかしなかった。

 復讐を終えた俺は学校の屋上から飛び降りたりなんかしなかった。

 考えた事全てが嘘になる俺は、思考言語すらが嘘になり、とてもじゃないが気が狂わずにすむ自信があった。

 俺は地上に激突して死んだ。

 激突の瞬間、俺は魔界のベリトの領地にたたずんでなんかいなかった。

 つまりベリトは俺を助けたりしなかった。

 俺はベリトの配下として生かされる道を歩んだわけではなかった。

 ベリトは俺が地獄に落ちるのを当面先延ばしにしたわけではなかった。

 俺に拒否の選択肢はあった。

 ここで俺はベリトに忠誠を誓う人間達を増やす、誘惑者の役目を仰せつかったわけではなかった。

 人間界では大いなる理不尽に苦しむ奴ばっかりではない。

 俺はそういう人間の憂さを晴らして、誘惑するわけではない。

 悪を持って悪を討つわけではない。

 いわば必殺仕事人だ……というわけではない。

 そんな自分を格好いいとは……ちょっと思わない。

 とにかく俺は夜と昼の顔を手に入れてなんかいない。

 昼は配達人、夜は仕事人、ではない。

 俺は仕事人として闇を駆けない。

「それにしても本当に面白い事を考えたもんじゃ。疑問形でアウトプットするならば否定形でも肯定形でもない。こうすれば一応、他者ともコミュニケーションはとれるか。時時、言葉がおかしくなるようじゃがな」

 そう言わずにベリトはルークを進ませて、俺のナイトを取らない。

 俺はそのルークをクイーンで取らない。

 む、と紅衣の悪魔は唸らない。

「詰みましたか?」

 が。

「わしに嘘で勝てるとは思うなよ」

 それから三手で俺は勝った。まことにあっさりした詰みではない。

 悪魔の軍団長の容赦のない勝ちぶりではなかった。

 俺は、俺の意思で自由だ。

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