第2話 そして百年が経ち
「いけない!」
リンゴン、リンゴン……。
遠く響く教会の鐘の音に気づいて、ヘルガは飛び起きた。
そこは、村の裏手に広がる森の奥に設えられた、若者達の秘密基地だった。
丘の真ん中をスプーンでくり抜いたような窪地の底で、頭上には左右に張った三本のロープに支えられた帆布の屋根が広がっている。帆布には落ち葉が積もっていて、上から覗いただけでは秘密基地と分からないようになっていた。帆布の屋根の下には、村の人の廃棄した家財道具が運び込まれ、テーブルや椅子の他にも、一つだけだがベッドがあり、彼女はそこで眠っていた。
眠ってしまっていた、と言う方が正確だろう。
心地よい時間だった事は否定できないが、眠ってしまうつもりはなかった。
ドクン、ドクンと、焦りと共に心臓が重苦しく鳴るのを感じながら、隣で呑気に眠っているグレンを揺さぶった。
「ねぇグレン。ねぇってば! 大変よ!」
「……ん~。なんだい、ヘルガ。そんなに慌てて」
まだ眠そうにして、グレンが目を擦る。
「教会の鐘が聞こえないの!? 早く帰らないと! ゲイルダンサーに攫われるわよ!」
言いながら、ヘルガはベッド脇のテーブルの上に散らばった衣服に手を伸ばした。
「ほら、あなたも早く着替えて!」
白い下着は、まだ股の所がしっとりと濡れていた。後ろ手にブラを留めようとするヘルガの首筋に、裸のグレンが吸い付く。
「ダメだってば! 今日はもう十分楽しんだでしょ!」
「どうかな」
お道化た様子でグレンは自分の下半身に視線をやった。彼の小さなグレンは、ひと眠りして元気いっぱいに伸びをしている。
「残念。物足りないみたいだ」
悪戯っぽく片目を瞑り、グレンは逞しい腕でヘルガを抱き寄せようとする。
「グレンってば……」
下着姿のまま、ヘルガはグレンに唇を奪われた。お互いに探し物でもするようなキスを交わすと、ヘルガはグレンの立派な肩を押しやった。
「ダメよ。本当に。もう帰らないと。言ったでしょ。もう鐘が鳴ったのよ」
後ろ髪を引かれる思いをなんとか堪える。
「子供は鐘が鳴ったら家に帰る決まりでしょ?」
「君は16で、俺は17だ。もう子供じゃないさ。セックスだってしたしな」
「ばかっ」
恥ずかしくなり、ヘルガは枕を投げた。
この秘密基地は、若者の中でも、大人に近い子供専用の場所だ。そしてこのベッドは、若い男女が親に隠れてゆっくり楽しむ為の特別なベッドだった。
「とにかく、ダメなものはダメよ。村の決まりでは、18歳になるまでは子供でしょ?」
「バカげた決まりさ。百年前のバカな大人が作った」
18歳未満は、鐘が鳴ったら家に帰らなければいけない。それが、この世界のルールだった。
「でも、みんな守ってるわ」
「律義に護ってるのは君だけさ」
笑いながらグレンは言う。
「どういう事?」
「抜け道があるって事。鐘が鳴ったら家に帰らないといけないけど、自分の家である必要はないのさ。君だって、友達の家に泊まる事はあるだろ?」
「それは、そうだけど……」
「なら、今日もそうしたらいい。俺は今晩、パトリックの家に泊まる事になってる」
「そんなの、すぐにバレるわよ」
「どうして? パトリックの親は隣町に行ってるんだ。あいつがチクらなきゃ、絶対にバレないね」
「あなたはそれでいいかもしれないけど……」
「君だっていいんだ。ケイトの家も今晩は親が留守なんだ。話はもう通してある。勿論、君んとこのおばさんにもね。代わりに、あいつらがお楽しみの時は俺達も協力する事になるけど」
「呆れた! そんな事になってるなんて、聞いてないわよ!」
「サプラ~イズ!」
グレンが両手を広げる。ヘルガは、もう少しで彼の分厚い胸板に飛び込みそうになった。
「でも、やっぱりダメよ。こんな所で一晩過ごすなんて」
「どうして? ここには、飲む物も食べる物もある。ランタンだってあるし、俺と君もいる。なにより、素晴らしいベッドがあるじゃないか!」
大きな掌で、グレンは尻の下のベッドを叩いた。去年村長の家で廃棄されたこのベッドは、二人が家で使っている物よりも新しく、サイズは倍もあった。その分、運び込むのに苦労したが。
「動物だって、この辺じゃ野ウサギが精々だ。怖い事なんてなにもないよ」
「ゲイルダンサーがいるじゃない……」
ヘルガは、誰かが聞き耳を立てているのを気にするように声を潜めた。
「おいおい、よしてくれよ! ゲイルダンサーなんかいるわけないだろ?」
グレンが大袈裟に肩をすくめる。
「鐘が鳴っても家に帰らない子供を攫う化け物なんて、どう考えたって大人の考えた迷信じゃないか」
「……でも、みんな信じてるわ。あなただって、前まではそうだったでしょう?」
ヘルガは、その話をするだけでも恐ろしいようだった。
鐘はすでに鳴り終わった。太陽は地平に沈み、月明かりも森と帆布の天幕に遮られ、辺りは闇に飲まれている。テーブルに置かれた安っぽいランタンの僅かな光だけが頼りだが、灯と共に揺れる影は、視線を外した隙に飛び出して、子供を連れ去る化け物に変わってしまいそうに思えた。
「まぁね。俺も子供だったのさ」
「今だって子供よ。ねぇ、今からでも遅くないわ。帰りましょう? 時間なら、幾らでもあるじゃない」
「俺は今君が欲しいんだ」
グレンは言った。彼のまっすぐな視線に負けず劣らず、彼の小さなグレンも真っすぐだった。ヘルガもそれは同じだった。生乾きの下着が、静かに湿り気を増すのを感じている。
「でも……」
ヘルガはゲイルダンサーを信じていた。村の子供はみんな、大人達から口を酸っぱくして言われている。鐘が鳴ったら家に帰らないといけない。夜になっても外で遊んでいると、ゲイルダンサーに攫われると。
「なぁヘルガ。考えても見ろよ。俺達は、18歳になった瞬間から夜遊びを許されるんだぜ? 18歳の誕生日の一日前はダメなのにさ。それってどう考えてもおかしいだろ? ゲイルダンサーが弱い生き物を狙う怪物だって言うなら、俺も納得するよ。年寄りとか、小さい子供とかさ。でも、そうじゃないだろ? ハモンド爺さんは杖がないと歩けないけど、毎晩森を散歩して、無事でいるじゃないか。何度でも言うけど、ゲイルダンサーなんて嘘っぱちの迷信なんだ!」
「だったら、どうしてみんな信じてるの?」
「さぁね。分からないけど、きっと、100年前の厄災のせいだろ。あれのせいで、大勢死んで、戦争なんかも起きて、世の中がおかしくなっちゃったって言うじゃないか。本当は昔は、もっと人間はすごかったって。その時に出来た決まりを、みんななんとなく守ってるだけなんだろう」
「……凄いのね、グレンは。そんな事、考えもしなかったわ」
ヘルガはすっかり感心していた。逞しくてかっこよくて優しくて、セックスが上手い、それだけの男だと思っていた。加えて、グレンは賢く、先進的な考えの持ち主だった。
「考えなきゃ。こんなちっぽけな村で畑を耕して一生を終えるなんて、俺はごめんだ」
グレンの、宝石のように澄んだ青い瞳に映るヘルガが大きくなった。
「君はどうだい?」
ヘルガはグレンの唇に飛び付いた。野ウサギも恥じらうようなキスを交わすと、彼女は言った。
「あなたが欲しい」
「お気に召すまま」
キザっぽく言うと、グレンの手が白い下着に伸びた。
ー―ヴァァアアァァアアァアアアァァァ。
「きゃああ!」
突然響いた異音に、ヘルガは悲鳴をあげた。
「なんだ?」
グレンはヘルガを庇うように抱き寄せると、闇の中に目を凝らした。
謎の音は、錆びついた鉄門を無理やり開け閉めした時の軋みを百倍に増幅したような音だった。
「ゲイルダンサーよ! やっぱりいたんだわ!」
蒼白になって言うと、ヘルガはベッドの上を溺れるように泳ぎながらテーブルの傍まで移動し、大慌てで服を着た。
「そんな、まさか……」
恐怖よりも、呆気に取られた様子でゲイルが呟く。
「早く着替えて! 今の叫び声、聞いたでしょ! 早くしないと、置いていくわよ!?」
「わ、わかったよ!」
断末魔のような叫びを聞いた今でも、グレンの気持ちは変わらない。けれど、もしかしたら、とは思った。恐怖心を覚えるには、それだけで十分だった。
着替え終わると、右手にランタンを持ち、左手にヘルガの手を引いて、グレンは歩き出した。
――ヴァアアアァァァァアアアアアァァァ。
「ひぃ!? さ、さっきより、近づいてるわ! 急がないと!」
急かすように、ヘルガが胸を押し付ける。
洞窟の風鳴り、夜行性の知らない獣、友人達の悪戯等、様々な可能性を検討するが、ゲイルダンサーを否定するには至らない。
ランタンの小さな光を頼りに、グレンはとにかく急いだ。
――ヴァアアアアァァァァァアアアアァァアアアアアァァァアア。
「きゃあああ!?」
耳元でヘルガが悲鳴をあげる。
声は、確実に近くなっていた。
「追って来てるわ!? 走らないと!」
「ダメだ。視界が狭いし、足場が悪すぎる。無理に走ったら転ぶだけだ!」
もはや、ゲイルダンサーがいるいないの問題ではなかった。相手がなんであれ、これ程の叫び声を上げられる巨大な何かに追いかけられているのは間違いない。
美しいヘルガの顔は、鼻水と涙で台無しだった。グレンも泣きたい気持ちだったが、彼女の事を思えば、最低限の冷静さは保てた。
とにかく、彼女だけは守らないと。
そう思いながら振り返ると。
「っ!?」
グレンは声にならない悲鳴をあげた。
暗闇の向こうで、木々のシルエットを縫うように、燃えるように赤い大きな一つ目がこちらを追いかけていた。
しまったと思ったが、もう遅い。
グレンの反応を見て、ヘルガも振り返る。
「ひぃっ!? いやああああああ!?」
闇の中に浮かぶ赤い一つ目は、ゲイルダンサーの実在を証明するのに十分だった。
ヘルガは完全にパニックを起こし、グレンを置いて闇の中に駆けだした。
「ヘルガ! 駄目だ! 戻ってこい!」
夜の闇を明かりも持たずに走るのは自殺行為に等しい。木にぶつかる程度で済めばいいが、最悪、沢や崖に落ちる。
ヘルガを捕まえる為、グレンも駆けだした。少しでも先を照らそうとランタンを持つ手をグッと突き出し、目を見開いて足元に注意する。
そうしている間にも、ゲイルダンサーの不気味な叫び声は近づいてくる。それどころか、今や、無数の脚が地団駄を踏むような足音まで聞こえていた。
「きゃ!」
悲鳴と共に、ヘルガの姿が消えた。
「ヘルガ!?」
まさか、落ちたのか!? 背筋を凍らせながら見失った辺りまで行くと、程なくして、うつ伏せに倒れるヘルガを見つけた。
どうやら、転んだだけらしい。
「大丈夫かヘルガ! 怪我は!?」
「えっぐ、ぐずひっぐ、どうしてこんな事……助けて、パパ、ママァ……」
顔面を打ったのだろう。泣きじゃくるヘルガの顔は鼻血で赤く染まっていた。顔を拭ってやりたい衝動に駆られるが、今は逃げるのが先決だ。
「立てるか!?」
言いながら、抱きかかえるようにして起こそうとする。
「あぁぁぁああ!?」
途端に、ヘルガの顔が痛ましく歪んだ。
「ヘルガ!? 足を挫いたのか!?」
「うぅ、ああああ! えっぐ、グレン……逃げて! あなただけでも!」
その言葉に、グレンはハッとした。本当なら、口汚く罵られるべきなのに。彼女はグレンに逃げろと言う。そんな女を置いて逃げられる男がどこにいるだろうか。
「冗談じゃない! 君を置いて、どこに行くって言うんだ!」
ヘルガを庇うように立つと、グレンはランタンを左手に持ち替え、足元に落ちていた太い枝を右手に構えた。
「来いよ! ゲイルダンサー! ヘルガには、指一本触れさせないぞ!」
守らなければ。例えこの身がどうなろうと!
「だめよグレン……お願いだから、逃げて!」
ー―ヴォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!
お互いを案じ合う、若き恋人たちの元に、ついにそいつは追いついた。
ゲイルダンサー。
夜遊びをする子供を攫う、伝説の化け物。
その姿は、途方もなく巨大な蜘蛛を思わせた。八本足の脚に、巨大な一つ目の頭、小さな体に不釣り合いな程大きい尻は、ちょっとした小屋程もある。
「うぉおおおおお!」
グレンの振り下ろした木の枝は、ゲイルダンサーの硬い外皮に当たって呆気なくへし折れた。
蜘蛛の前足の一本が素早く伸び、先端がハサミのように割れてグレンの胴体を掴んだ。
「あああああ!?」
「グレン! グレン!」
二人の叫びを無視して、ゲイルダンサーは巨大な尻へとグレンを投げ込んだ。
そして、次はお前だと言わんばかりに、ヘルガの前にやってきて言うのだった。
「ぴ、が、がが、がー。こちらは、
――――――――――――――――――――――――――――――
あとがき
2021年2月6日現在、世界はCOVID-19なる病禍の只中にあり、私の暮らす日本も、深刻な被害を受けている。
この病気がどこからきて、どうなるのか。見通しは暗く、収束の目途も経っていない。他国ではワクチンが開発されており、日本での生産は成功していないが、とりあえず、外国産のワクチンの恩恵は受けられそうである。しかし、果たしてそのワクチンは変異種に効くのだろうか。
どこからともなく現れ、瞬く間に世界を変えてしまった恐怖のウィルス、COVID-19。今の所この病禍は、私がこれまで生きてきて、もっともこの世の終わりに近い状況を生み出している。
この物語は、もしも人類がこの病禍に負けたとしたらというIFを思って執筆した。いわゆる、ポストアポカリプス物になるのだろう。
病禍によって文明がリセットされ、牧歌的に暮らす人々を、100年前の外出禁止令を強制する補導機械が襲う。そんな話である。
現在、特に若者に強く求められる自粛要請の状況。このまま状況がよくならず、ヒステリックに悪化していけば、自粛は強制に代わり、忌むべき自粛警察は、法のお墨付きを得た現実の怪物として生れ落ちるのでは。
とは言え、私は悲観論者でも陰謀論者でもない。止まない雨はないと片付けるのは少々陳腐すぎるかもしれないが、本気でこんな事態になるとは思っていない。
けれども。
1%のもしかしたらを否定できないのも事実である。
気まぐれ短編集 斜偲泳(ななしの えい) @74NOA
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