第2話 「本論」
カミュの「異邦人」の中に、「人は誰しも親しい人の死を望む」というような記述
がでてくる。これについて授業で取扱った際、私のクラスでは意味が分からないという人がほとんどだった。人の死を望む、ましては、親しい人の死を望むなど、なんて非人道的な考え方なのかという結論に至ったのである。最終的にはクラスの誰も彼の考えを理解することができず、先生の「あまりにもその人物を愛しすぎていると、愛する者を失った時の悲しみに堪えられないと人が勝手に判断し、存在否定をはじめるのではないか」という意見を総括として採用することとなった。
しかし、そんななか私はなぜか彼の考え方に共感を覚えてしまったのである。
夜な夜な、家族が全員事故にあい、生涯を孤独でいる想像をしたり、好きな人が大病に罹って、入院し最終的には息を引き取る妄想をしたり、恐ろしいことに、家族全員を自らの手で殺してしまうという妄想をしたこともある。
こんなことを書いたら犯罪者予備軍だの、精神科に通うべきだの言われてしまうかもしれないが、どうしても想像してしまうのである。
勿論私は家族を憎んでいるわけでも、殺したいほど嫌いなわけでもない。
ましてや好きな人を失いたいと誰が思うのだろうか。しかし、どうしても考えてしまうのである。考えることを辞められないのだ。
自分の愛する人の死を。
考えている間、別段楽しいわけではない。
あまりの辛さに泣いてしまったこともあるくらいである。
私は最初そうやって訪れた死に対して、悲劇のヒロインぶり、自分を可哀そうだと思い、自己の欲求を満たしているだけだと自分を考察していた。
しかし、「異邦人」を読んで、ムルソーのように感情を持たない人間も同じ様な考えに至るなら、この考えは間違っているのではないかと思い、別の面から、考えてみることにした。なぜ、愛する者の死を望んでしまうのか。私が辿り着いた答えは
「現実ではうまくいかないから、相手を故人にすることによって、自分の思い描く世界へと相手の存在を移し替えようとしているのではないか。」
ということである。
人に対して生きているうちは相手の考えかたを100%コントロールすることは
できないし、いくら愛していたとしても、ぶつかることは多々あるだろう。
現に、ムルソーもママンを愛してはいたが、養老院に預けなくてはならなかったり、ママンと相いれないことがあったようである。
このように、愛する人の死を得ることによってその人を思い出の中だけのものとし、存在を自分でコントローすることができるようになるのである。
勿論、先生の存在を否定することで自分を守ろうとする考え方も、最初の結論である、悲劇のヒロインになり自己の欲求を満たすことも間違っているとは思わないが、
ムルソーのフィルターを通してみると「存在のコントロール」が彼の心情や私の心情に近い気がしてならないのである。
「異邦人」と「愛する」ことについて 涼浜 侑斗 @Ryota_1931_ka
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