あなたを忘れない
亜月 氷空
あなたを忘れない
或る夏の日の事。わたしは、一人の少女に出会いました。それは可憐で美しく、触れれば今にも壊れてしまいそうな、それでいて存在感のある、どこか目を惹かれる少女でした。
――わたしは、彼女に恋をしました。
「もうやだ! おうちかえるの!」
「まあまあ、落ち着いてえな、みいちゃん。おかあが今大変なんよ。もうすこしだけ辛抱してな」
「ばあばんちおもしろくないもん! ふみちゃんとあーちゃんとあそびたいもん!」
小学三年生の夏休み。わたしはもうすぐ弟が産まれるのに合わせ、母の里帰り出産で祖父母の家に泊まりに来ていた。……のだが、泊まり始めて三日、早くも家に帰りたいと駄々をこねていた。
せっかくの夏休みなのに。小学校の仲良しのふみちゃんとあーちゃんと、たくさん遊ぼうね、海に行こうねって約束してたのに。
広がる自然も、大きな畑も、最初こそ物珍しかったものの、見渡す限りそれしかないのだから、早々に飽きてしまった。祖母はいつ産まれるかわからない弟のために母に付きっ切りだし、祖父は畑仕事で忙しそうだし、こっちには友達がいないから、遊び相手がいなくてつまらなかった。
「もういい! ひとりでかえるから!」
そう言ってわたしは祖父母の家を飛び出した。帰り道なんてろくにわからないのに、本気で帰ろうとしていたし、少しはみんながわたしのことで困ればいいとも思った。「みいちゃん、待ちな!」なんて声が聞こえたが、無視して走ることにした。
走って、走って、適当な道を行く。そしてわたしは、森の中に迷い込んだ。
来た道も、ここがどこなのかもわからず、完全に迷子になった。ジワジワという蝉の鳴き声が頭に響いて、走った疲れのせいか足元も覚束ない。なんだか急に心細くなって、半ばべそをかきながら歩いていると、少し開けた場所に出た。
思えば、何か不思議な力に吸い寄せられていたのかもしれない。
こんなところあったんだ、なんて思っていると、不意に鈴の鳴る音が聞こえた。音の方を向くと、そこには一人の少女がいた。色素の薄いふわふわの髪とぱっちりした目が印象的で、わたしよりいくつか年上のお姉さんに見えた。鈴の音の正体は、彼女が付けていた髪飾りだった。
「……だれ?」
そう発したのはどちらだっただろうか。わたしは彼女があまりにも綺麗で、見惚れてしまっていた。この子と仲良くなりたい、瞬間的にそう思った。
りん、と再び鈴の音が鳴って、わたしはふと我に返った。見ると、彼女が森の奥へ行こうとしていた。
「まって!」
彼女が私の声に驚いて立ち止まった隙に、急いで追いかけて彼女の手を掴む。そのままその手を握り締めて、わたしは言った。
「ねえ、わたしと友達になって!」
我ながら、とても初対面の相手に対する勢いではなかったと思う。しかし、ここで引き留めなければ二度と会えないような、そんな気がした。
「わたしね、実絵子っていうの。みんなはみいちゃんって呼んでる」
「ミエコ?」
「うん、そう。あなたは?」
「あたしは……キコ」
キコ、キコ、そっか、かわいい名前。確かめるように、名前を口の中で何度も反芻した。
「ねえキコ、キコはここでなにしてたの?」
「なにって……えっと、一人で遊んでた」
確かに、手には毬のようなものを持っていた。周りに他に誰かいる様子もない。
「え、ひとりで?」
「うん。一緒に遊んでくれる人なんていないもの」
「じゃあ、わたしといっしょに遊ぼうよ!」
その瞬間、キコの顔がぱっと輝いたような気がして、わたしはまたそれに見惚れてしまった。
キコはこの近くに住んでいること、友達ができたことがないこと、毬で遊ぶのが好きなこと。わたしは弟のために祖父母の家に来ていること、こっちには友達がいないこと、鬼ごっこやかくれんぼが好きなこと。キコの持っていた毬をふたりで投げ合いながら、お互いのことをたくさん喋った。キコが鬼ごっこもかくれんぼもやったことがないと言うから、それもふたりでやった。人数が多くないと楽しくないものだと思っていたが、ふたりでも十分すぎるくらい楽しかった。
気づくと日が傾きかけて、辺りは橙色に染まり始めていた。今日はもう帰らないと。そういえば、家に帰ると言って出てきたんだった。キコと遊ぶのが楽しくて、すっかり忘れていた。じいじとばあば、怒ってるかな。
「ねえ、明日もここに来てもいい?」
「え……? いい、よ?」
「ほんと!? やったあ! あ、でもわたしここにどうやって来たかおぼえてない……。どうしよう」
「ふふ、大丈夫だよ。きっと来れる」
どうしてなのかは分からないが、キコがそう言うならきっとそうなんだろうという気がした。
「わたし、かえり道も分からないんだけど」
「大丈夫、きっと帰れるよ」
キコの言う通り、よくわからないまま歩いていくと、気付いたら森を抜けて見覚えのある道へ戻ってきていた。家に着くと、家族みんなからひどく叱られた。とても心配してくれていて、もう少しで大規模な捜索になるところだったという。それでも、新しい友達ができたことが嬉しくて、わたしはずっと上機嫌だった。
それから、わたしとキコはすぐに親友と呼べるほど仲良くなった。相変わらず道は分からないのに、森に入ればすぐあの場所へ辿り着くことができた。わたしは毎日キコのいる森に出かけて行って、日が沈むまで一緒に遊んだ。弟が産まれて、家のみんなが忙しくなると、なおさらずっとそこにいるようになった。
「ねえ! こんど、ばあばんちにもおいでよ。それで、わたしのうちにも遊びに来てよ。こんないい友達ができたんだって、みんなに言いたいな」
キコのことは、家族のみんなにはあまり詳しく話していなかった。なんだかわたしだけの秘密にしたいような気がして、毎回「友達のところに行ってくる」とだけ言って出かけていた。でも、キコともっとたくさん、ここだけじゃなくいろんなところで、いろんな遊びがしたかった。ふみちゃんとあーちゃんにも紹介して、一緒に鬼ごっこやかくれんぼをしたら絶対に楽しいだろうと思った。
「ミエコ、ごめん。あたしね、……この場所から動けないの」
とても悲しそうな顔でキコが言う。この場所から動けないって、遠くへ行っちゃだめってことかな。
「ええ、なにそれ。あ、もしかして、お母さんがすごくこわいの? 遠くへ出かけたらおこられるとか」
「ええと……うん、そんな感じかな」
「うわあ、そっか、大変だね……。じゃあ、やっぱりわたしがこっちに来るね!」
本当はすごく残念だったけれど、キコがあまりにも申し訳なさそうに言うものだから、強く出られずに諦めてしまった。キコが自分のせいでお母さんに怒られるのは嫌だから、仕方ないと思うことにした。
「あ! この首かざり、とってもすてき! きれいだね」
キコの首元には、赤い布と真珠のような玉でできた首飾りがいつもかかっていた。
「ありがとう。これはね、うちに代々伝わっている大事な宝珠っていうものなんだって」
キコは少し驚いた様子だったが、キコ自身もそれを大事に思っているようで、嬉しそうにしてくれた。
「へえ! 代々って、なんかすごいね。かっこいい!」
「ふふ、ありがとう。願いが叶うらしいから、ミエコにいいことがありますようにってお祈りしておくね」
「ほんと!? じゃあわたしは、キコにいいことがありますように!」
精一杯の笑顔を向けると、キコもつられて笑い返してくれる。
うん、やっぱり、キコには笑顔の方が似合う。
「じゃーん! みて、花火! お店で売ってたの、いっしょにやろ!」
キコのところへ通うようになって、十日が過ぎた。キコはわたしの話す遊びや物について知らないことが多いらしく、最近はキコの知らなそうなおもちゃを持ってきては一緒に遊んでいた。お母さんが怖いらしいから、あまりおもちゃを買ってもらえないのかもしれない。今回は、夏と言えば花火だろうということで、お小遣いをいくらか使って、ずっと一緒にやりたいと思っていたおもちゃ花火を買ってきていた。
「ハナビ? なに、それ」
「やっぱり。じゃあ、これもってて」
袋から買ってきたばかりの線香花火を取り出し、一つ差し出す。キコは恐る恐るといった様子でそれを受け取った。一緒に買った小さなろうそくと家から持ってきたマッチの箱も取り出して、一本取って赤い方を箱の側面に当てる。
「まずマッチで火をつけて……」
シュ、と軽快な音を立ててマッチに火がついた。最近やっとうまくつけられるようになったばかりで、それが少し自慢だった。
「あれ? キコどうしたの?」
ふと下を向いていた視界からキコが消えたと思ったら、わたしからだいぶ離れたところでしゃがみ込んでいた。線香花火を握りしめたまま頭を手で抱えていて、少し震えているようにも見えた。
「やだ、それこわい……っ」
「それ? ……あ、これ?」
何か怖いものなんてあっただろうか。もしかして、わたしが手に持っているマッチのことかな。そう思ってマッチを指さすと、キコはこくこくと頷いた。
「ごめん、もしかしてマッチも見るのはじめてだった?」
そう聞くと、キコはまた一つ頷いた。花火だけでなく、まさかマッチも知らなかったとは。とりあえずマッチを持っている指に火が迫ってきたので、一旦火を消した。
「ぜんぜんこわいものじゃないんだけどな……。うーん、どうしよう。キコといっしょに花火やりたかったのに……」
キコは未だしゃがみ込んだまま、少し顔を上げてこちらを見ていた。震えは止まったようだったが、若干涙目になっていた。
「ううん、ミエコは悪くないよ。ごめん、なんだか分からないけれど、さっきのゆらゆらしていて光るものが怖くて……」
マッチというより、キコは火が怖かったのか。火がつけられないんじゃ、花火はできない。
「それならしょうがない、花火はあきらめよっか」
「え、でも、ミエコがせっかく……」
「だって、キコがいやなことはしたくないもん」
花火はやりたかったし、とっても楽しみにしていたのも本当だ。でもそれは、キコと一緒に楽しみたいのであって、キコを怖がらせてまでやるものじゃない。
わたしはそう思ったのだが、今度はどうもキコが納得いかないようだった。しばらく黙っていたと思うと、何かを決意したような顔でこちらを見つめてきた。
「ううん、やろう。ハナビ」
そう言ったキコの目は、強い意志を持っていた。
「え? でも、キコ火がいやなんでしょ? 火をつけないと、花火できないよ」
「でも、ミエコがあたしとやりたいと思ってくれたこと、あたしもやりたい」
それを聞いて、わたしは駄目とは言えなかった。
「……わかった、じゃあ、火をつけてる間はうしろ向いておくね」
キコが頷いたのを確認して、くるりと後ろを向く。シュ、と音を立ててマッチに火がついた。なるべくキコからは見えないように、ろうそくに火をつけ、マッチの火を消してから一本取り出した線香花火に火をつけた。すぐにろうそくの火も消して、パチパチと鳴り出した花火を手に、わたしは再び振り返った。今度はキコも遠ざかってはいないようだった。
「せんこう花火っていうんだよ。こんなふうにぱちぱちするの」
「うん……。綺麗、だね」
初めて見る花火に、やっぱり怖さはあるようだった。それでも、キコはわたしの手元で弾ける線香花火をじっと見つめていた。怖いと思ったのに、それでもわたしがやりたいことをやりたいと言ってくれたことが、この上なく嬉しかった。
そして、わたしがキコと初めて会ってから、二十日余りが過ぎようとしていた。
「わたしね、このあいだ弟がうまれたんだ」
「そういえば言ってたね。お姉ちゃんになったんだ」
わたしとキコは、すっかり何でも言い合える親友のようになっていた。
「うん。弟はちっちゃくてかわいいんだけど、でもね、おかあもばあばもじいじもそっちばっかりで、わたしとはあそんでくれないの。それにね、うまれたってことは、わたしももうすぐおうちに帰るのかなって。夏休みも終わっちゃうし、そしたらキコと会えなくなっちゃう」
弟が産まれたら、一か月くらいで家に帰ることになっていた。具体的にいつ帰るのかは聞かされていなかったが、夏休みも残り十日ほどだから、なんにせよもうすぐだろう。あんなに帰りたがっていた家なのに、こんなにも帰りたくないと思っている自分に驚いた。
「だからね、今はこうやってたくさんキコとあそぶんだ! それでね、夏休みが終わってからも、もっとたくさんばあばんちに来て、キコのところにも来る! どう?」
これが、精一杯考えた末の、わたしなりの答えだった。小学生の自分にできることなんてさほど多くないし、何事も前向きに考えるのがわたしの信条だった。
「……ふふ、すっごくいいと思う。でも、ごめん。今はたくさん遊べるけど、先のことは約束できない。……ごめんね」
とても悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔でキコが言う。
「あたしのうちは、お父さんもお母さんも厳しくて……。なんだか、本当のあたしを見てくれていない気がするの。だから、あたしがずっとここにいたいと思っても、それは叶わないかもしれない」
「本当のキコ? キコはキコじゃないの? ……え、もしかして、にせもののキコもいるの!?」
本当の、の意味がよく分からなくて、思いついたままに言うと、キコは呆気に取られたような表情をした後、いきなり笑い出した。
「あはは、いないよ! そうだよね、あたしはあたし。ふふふ」
わたしはそんなにおかしなことを言ったのだろうか。
「それに、きっと大丈夫だよ。だって、わたしキコの首かざりにおねがいしたもん。キコにいいことがありますようにって」
キコがあまりにも笑うものだから、少し言い方がムキになってしまったかもしれない。でも、首飾りには真剣にお願いしたし、きっと叶えてくれると信じていた。
「はー、おかしい……。ありがとうね」
そう言ったキコの目元には、光るものがあった。
「キコ……? どうしたの、泣いてるの?」
そう言うと、キコはぱっと顔を逸らして、両手で覆ってしまった。
「ううん、違うの。ちょっと塵が入っただけ。笑いすぎちゃったのかも。本当に、大丈夫だから……」
声が少し震えていた気がした。キコがそう言うならそうなのかな。とてもそうは見えなかったけれど。なんだか胸のあたりがきゅっとした。キコが泣いていると、わたしも泣きたくなってきてしまう。
しばらくして、再びキコがこちらを向いた。涙をぬぐった跡が見える。
「ねえ、ミエコ。あたし、あなたのことが好きよ」
ふわりと微笑んだキコに、心臓が大きく音を立てた。気温のせいか、体温が高い。
「え……? 急にどうしたの? わたしも、キコが大好きだよ!」
初めての感情に戸惑いながら、わたしも思っていることを口にした。キコはそれを聞いて、嬉しそうな、それでいて少し困ったような笑顔を見せた。
「これ、あげる」
そう言って差し出されたのは、一本の花だった。中心が黄色くて薄紫色の花びらをした、小さな花がたくさんついていた。
「わ、きれい! ありがとう!」
「これね、紫苑っていう花なの。……よければ、覚えておいて」
シオン。初めて聞いたけど、素敵な名前。
「初めての友達が、初めて好きになったのが、あなたでよかった」
翌日。その日は、ぱらぱらと雨が降っていた。空は晴れていたのに、雨という対比が不思議だった。
いつものように彼女のところに行こうと森の中へ入った。やっぱり、昨日はなぜ泣いていたのか聞かなければと思った。一晩考えて、自分がなぜ彼女の泣き顔にこんなにも心を痛めてしまうのか、なぜ彼女の笑顔に胸が高鳴ってしまうのか、その理由も分かってしまった。これが恋だというのなら、なんて苦しくて、なんて素敵な感情なんだろう。
しかし、いつまでたっても、どこまで歩いても、あの場所には辿り着けなかった。結局、森で迷ってしまったわたしは、村の人たちの大規模な捜索で助けられた。家族からはひどく心配され、叱られたが、それよりもキコのところに行けなかったことに呆然としてしまっていた。
その日の夜、森の方では、鈴の音と共に提灯行列のような怪火が目撃されたという。
※
「それでそれで? ばあちゃん、そのあとはどうなったの」
「どうもこうも……。それっきり、あの子に会うことはなかったよ。何回行っても駄目で、しばらくは何も手につかなかったねえ。後からばあちゃんのばあちゃんに聞いても、そんな森の奥に住んでいる人なんていなくて、小さなお稲荷さんがあるだけだって言われちゃってね」
ジワジワと蝉の声がする。庭に生えた薄紫色の花がわずかに揺れて、軒下にかけた風鈴の音が涼しげに響いた。
「えー、なんだ。せっかく仲良くなったのにね」
「まあねえ……。でも、どこかで幸せにしていてくれればそれでいいんだよ」
この年になって、まさか孫にこんな話をすることになろうとは。人生は分からないものだ。
「ふうん、そっか。あ! ばあちゃん、オレ今から遊びに行ってくる!」
「そうかい、気を付けるんだよ。啓太、いつの間にこっちで友達作ったんだねえ」
「うん! アイツ友達いないらしくて、なんかほっとけないんだよな」
そう言った啓太の顔は、暑さのせいか少し赤らんでいた。
――そういえば、彼女と出会ったのもこんな暑い夏の日だった。
あなたを忘れない 亜月 氷空 @azuki-sora
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