私と犬

寿 丸

私と犬

 唐突だが、私は犬が苦手だ。


 なぜかはわからないが、私は幼少時から犬に吠えられることが多かった。幸い手を噛まれたりすることはなかったが、そうなりそうになったこと、冷や汗をかいた思いをしたことはいくらでもある。


「お父さんは前世で犬に嫌われるようなことをしたのよ」


 娘はからかってそう言う。


「例えば生類憐みの令が出ている時に、犬を撲殺したとか」


 前世どころか、前々世では済まない話だ。ちょうど徳川幕府の歴史を聞きかじっていた頃だから、そんなことを言ってくるのだろう。からかうのはいいが、私にとってはちょっとした悩み事なのである。


 犬とは大昔から人と寄り添ってきた生き物だ。


 だからなのか、人間との信頼関係は厚い。犬を飼う人は後を絶たないし、ブリーダーなんて言葉も出てくる。ニュースでしか見たことがないが、ドッグランなるものもあるそうだ。あまつさえ犬用の服まであるというではないか。これほどまでに人類の営みの中に入り込んでいるのは、他には猫ぐらいのものだろう。実際に、犬派か猫派かで派閥が分かれている模様だ。


 私はどちらかといえば猫派だ。だが犬に吠えられる、嫌われているのかもしれないと思うとあまりいい気はしない。犬自体は別にそこまで嫌いではないから、チワワにも吠えられるとちょっと落ち込む。


 とはいえ極端な話、あまねく生物すべてに好かれることなどあるはずがない。人間同士だって、好いたり好かれたり、嫌ったり嫌われたりとしょっちゅうだ。本当に犬に嫌われていたとしても、別段そこまで落ち込む必要はない……かもしれない。


 しかし、犬と仲良くしている人間を見ていると複雑な気持ちになるのである。


 ニュースでドッグランをしていた犬とその飼い主は、実に楽しそうに駆け回っていた。飼い主の指示で犬がハードルを超えていく。見事ゴールを果たした後には「グッド、グーッド!」と言って犬を撫でる。犬も、飼い主の顔を遠慮なく舐め回している。


 そういうのを見ると、無性に落ち着かなくなる。自分でも不思議なのだが、私は犬に好かれたいのだろうか。


 少し、考えてみた。なぜ私は犬に吠えられるのか。犬が私のことを好いていないのはなぜなのか。


 目つきが悪いからだろうか。昔から三白眼だった私は、それだけで上級生に因縁をつけられていたりした。生意気だと言われ、頭を小突かれることもあった。三白眼で得をしたことなど今までに一度もない。


 あるいは、やたらと身長が大きいというのもあるのだろうか。中学生の後半から高校生にかけて急に背が伸びた。けれど猫背であるため、印象はどこか暗く、覇気というものに欠けていたかもしれない。しかし体が大きいということはそれだけで威圧感を伴う。自分よりも大きな相手に警戒心を抱くのは、犬ならば当然なのかもしれない。


 他にも何かないかと考えてみたが、馬鹿馬鹿しくて止めた。そもそも犬を飼いたいわけでもなんでもないのだ。私自身が犬に嫌われていることを気にしているだけ。それだけなのである。


 なぜだろう、と私は何気なく妻に尋ねてみた。彼女は料理をしている手を止め、少し考えてから答えた。


「犬に好かれるかどうかは天性によるものもあると思うの。そういう運命だと思って、割り切ったらどうかしら」

「天性か。そう考えると、なんだかやりきれないな」

「あなた、犬に嫌われてるのがそんなに嫌なの?」

「ん……嫌、というほどではないのだが」

「じゃあ、いいじゃない」


 妻は料理に戻る。

 

 私はテーブルの上で手を組み、唇を結んだ。

 

 私はなぜここまで気にしているのだろう。

 

 ある日、私は妻と共に買い物に出かけた。すると道の反対側に、犬を連れた飼い主がいた。さらにもう一組現れ、犬同士でじゃれ合いを始めた。飼い主たちは困り顔をして、「すみませんねぇ」と謝り合っている。

 

 私はこの時、何かしらのヒントを得た。


 買い物をしている時も、帰り道も、私は考え込んでいた。妻が話しかけてきても、生返事ばかりしていた。家に帰り、自室にこもってうろうろと歩き回っているところで、ようやく私はひとつの答えに行き当たった。


 犬を連れているというのはそれだけで、犬好きというコミュニティに属している。私は一応会社という組織に属しているが、積極的に属しているというわけではない。会社という場所から離れたら、私はどこにも属せないだろう。それに薄々気づいているから、どこか落ち着かないのだ。


 加えて犬は、先述の通り人と共に生きてきた。人間のパートナーといってもいい。そのような存在に嫌われているとあっては、犬のパートナーである人間からも嫌われる可能性が高いのではないだろうか。


 私はさらに衝撃を受けた。私は犬のみならず、人間からも嫌われることを恐れている。そんなわけがないと頭の中で反駁しても、一度気づいたものは打ち消しようがない。


「お父さんは人間に興味がないから」というのが、かねてからの娘の評価だ。


 だが、こうして考えているということは少なからず興味を抱いているのではないか。そして犬にも。


 私はむぅ、と唸った。


 人間と、そのパートナーである犬から嫌われているというのは考えるだに恐ろしい。自分でも大げさだと思うが、その可能性がゼロだと誰に言い切れるのだろうか。

 

 その日の晩、私は妻と娘に話をしてみることにした。

「なぁ、少しいいか?」

「なぁに?」

「どしたの、お父さん」

「犬のことなんだが……やはり俺は、嫌われているんだろうか?」

 妻と娘は顔を見合わせ――ぷっと吹き出した。

「やだぁ、お父さん。まだそんなことで悩んでいるの?」

「そうよ、あなた。前にも言ったじゃない。犬に好かれるかどうかなんて天性のものだって。好かれなくても嫌われても、別に気にすることじゃないのよ」

「だが、犬は人間のパートナーじゃないか。その犬に嫌われているということは、人間にも嫌われるかもしれないということにならないか?」

 

 真面目くさって言ったので、娘と妻は目を丸くした。


「……お父さん、本気で言ってるの?」

「大真面目だ」

「犬に嫌われてるからって、人間にも嫌われるなんてことないって。それじゃあ猫に好かれてない人も人間から嫌われるっていうの?」

「それは……」

「お父さん、人間に好かれたいの?」

 

 私は答えに窮した。私は犬にも人間にも好かれたいのだろうか。

 

 助け舟を出すように、妻が口を挟んできた。


「お父さんはね、子供の頃から犬に吠えられることが多かったの」

「うん、知ってる」

「例えば、道を通りかかる度に猫にシャーって鳴き声出されたら気にするでしょ? そんなのが毎回あったら、あなただって気にするんじゃない?」

「それは、そうかもだけど……」


 さすがに妻は私よりも口がうまい。

 

 妻は次に、私の背を強めに叩いた。

「あなたは生真面目に考えすぎなのよ。もう少し楽に考えなさい。本当に犬に嫌われているとしても、だからといって他の生き物からも嫌われるとは限らないわ。事実、マロンはあなたに懐いているじゃない」

 

 マロンというのは家の近くにいる、飼い猫のことだ。私は一方的にネコスケと呼んでいて、通りかかる度に頭突きをされたり撫でたりしている。つれないところもある猫だが、ほんのひと時の癒しになってくれている。

「確かにそうだ」と私は言った。

「猫に好かれるなら十分じゃない? あなたはちょっと欲張りよ」

「欲張り? そうか?」

「ええ。自分でも気づいてないでしょうけど」

 

 むぅ、と私は唸ってしまった。欲張りと評されたのは初めてだ。


「さぁ、ご飯の続きにしましょ。冷めちゃったらいけないわ」

 

 妻の一言で、その会話は打ち切りとなった。

 

 その翌日、私はいつも通り会社に出かけた。通りがかりに犬を連れた飼い主とすれ違った。犬はこちらを一瞥したが、別に吠えたりはしなかった。

 

 私はひとまず、胸をなで下ろした。吠えられないだけましだと思えば、幾分か気が楽になった。

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私と犬 寿 丸 @kotobuki222

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