第2話 月下
「夏露?」
偽りの名前を呼ぶ声にハッとする。
「ああ、ごめんね。」
振り返って声の主に笑いかける。
いつもは頭の上にゴテゴテ盛られた髪の毛をこの時だけは下ろし一つ結びに結ぶから、頭が軽く感じる。
(こんな姿を見られたら王氏に侮蔑されそうね……。)
身分が高ければ高いほど髪を派手に大きく結うべきなのだから。
「ぼーっとしていたが大丈夫か?」
そう言って顔を覗き込んでくるのは仲の良い若い武官たち。
「うーん、悩み事。」
悩み事があるのは間違っちゃいない。
「女官の仕事のか?確か主上に仕えているんだろう?」
「まあね。」
まさか本人が皇帝だとは思ってもいないだろう。
バレないように偽りの身分まで作ったんだ。バレるはずがない。
緋翠宮で天子に使える女官、燈夏露。
それが偽りの私だ。
燈は地方の下級官氏の姓だから、知り合いの可能性は低いだろうと踏んで選んだ。
名前は金烏が決めた。
「そうだ!星衛、約束通り手合わせしましょ。」
星衛は武官の中で多分一番仲がいい。
年が近いのもあるが実力もかなり高い。
「今日こそ、そのすかした面を悔しさで歪めてやる。」
「それ、何回目?聞き飽きたよ。」
彼が下した刃を自分の剣で受け止め流し、肩を狙う。
お互いに乱雑に結ばれた髪が山梔の甘い香りとともに空を切る。
夜の月明かりだけを頼りに刃を交える。
私も彼らもわざわざ寝床から抜け出している状態だ。
(一年前までこんなんじゃなかったのに……。)
玉兎と月の異称をつけられて、勝手に月のように御淑やかな子にと期待された。
金烏は太陽のように明るく……。
正直言ってそんな柄じゃなかった。
勉学よりも体を動かす方が好きだった。
剣術を習ってみたかった。
そんな私に先帝である父は私に剣の指導者である武氏を寄越した。
房事にしか役に立たない愚帝の父が珍しく役に立った。
楽しかった。
才能があると褒められたことが只々嬉しかった。
あの日、父母が亡くなったことよりも彼が亡くなったことの方が悲しかった。
「今日も私の勝ちね。」
吹っ飛ばされた彼の剣がカランカランと音を立てて地面に落ちる。
周りからは小さな歓声が広がる
「くっそ……。」
「祥衛も強くなったよ、私には及ばないけど。」
私の言葉に最後のマジで要らないと弱く笑った。
「じゃあ、行くね。いつもありがとう。」
お辞儀をしてお礼をすると、軍部を出る。
塀を驚異の運動神経でよじ登り、緋翠宮へ、自分の部屋へと向かう。女官達や武官に見つからないように警戒しつつ帰りを急ぐ。
(まるで、術がとけるみたいだ……。)
うーんと小さいころに金烏と読んだ西の本。
術がとけた少女はうわべの美しさは失ったけど、幸せになった。
(私は真逆ね……。)
『正直言って、信じられる人は一人もいない。皆、王氏の息がかかっていると思った方がいい。誰も信じない方が身のためよ。』
先程金烏に言われた言葉が頭の中で繰り返される。
信じたくても、信じられない、裏切られるかもしれない。
術がとけるとまた責任に押しつぶされそうになって逃げたくなる。
それでも、金烏と約束したから。
「ただいまー。」
お帰りが帰ってくると信じて今日も声をかけた。
烏兎伝 いちごみるく @strawberrymilktapioka
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