方針転換(ワンエイティ)
東京都稲城市。
都心から南西に約25km、多摩川右岸の丘陵地帯に位置するこの地域は、東京都下の自転車乗りにとって格好の練習場所としてよく知られている。
多摩川サイクリングロードを通って都心からアクセスしやすいうえに、丘陵地帯独特のアップダウンが激しい地形をしているので、短くてきつい坂を越えたかと思うと、すぐに下ってまた次の坂という具合で、ここを走るだけでもスタミナが鍛えられるのだ。
聞いた話ではプロ自転車選手も自主トレーニングにこの地域を使っているらしいが、この地域出身の僕は見たことがなかった。単に「あの人はプロだ」というのがわからなかっただけかもしれないが。
秋、九月。
よく晴れた休日ということもあって、今日の稲城には特に自転車乗りの姿が多かった。
「オネカン」の通称で親しまれている南多摩尾根幹線道路を走り、神奈川県方面へ向かうというのが僕の大学への通学路で、しっかり運動強度を高めてロードバイクで走れば、ちょうどいいトレーニングになった。
今日は大学の授業はないが、トレーニング目的で走っている。自転車競技部を休部した僕がすぐに市民レースで上位成績を残せたのは、こうした日々のトレーニングの積み重ねがあったからだろう。
(とはいえ――)
富士山、乗鞍と二レース続けて僕は完敗した。
あの『チームDTA』という漆黒のジャージの集団に。
(『DTA』は強かった。ちょっとおかしいくらいに)
しかし、僕は彼らに対して畏敬ではなく疑念を抱いていた。ネット上の評判を見る限り、そうした感情を持った市民レーサーは僕以外にもいるらしい。
自転車レース業界は狭い世界だ。チーム三人で表彰台を独占できるほど強いなら、もっと以前から話題になっているはずなのだ。そして実業団レースや国内プロチームから声がかかっても不思議ではない。
ところが『DTA』は今年のレースから急に活躍し始め、市民レース以外に出走する気配がない。
(趣味で自転車に乗っているからプロにはならないんだ、と言われればそれまでではあるけれど――)
とにかく『DTA』は、実力と評判があまりにもアンバランスなのだ。学連レース出身らしいニシキを初め、カズトもトモエもレース経験者ではあるらしいが、無名だった選手たちの活躍には違和感がある。
(――努力と才能以外のなにかで、彼らは強くなっているんじゃないか)
秋晴れの空の下でのサイクリングにもかかわらず、僕の心は浮かなかった。
だから信号待ちで停車した時に、前にいた自転車乗りが顔見知りであることにも気づかなかった。
「おお? シロウちゃんじゃん」
そう声をかけられて、僕は慌てて顔をあげて前を見た。ヒルクライマー体型の自転車乗り――高根ヒカゲさんだった。軽く一礼する。
「お久しぶりです。練習ですか」
「おー、練習はついでだったんだけど、ちょうどいい」
「?」
困惑する僕に構わず、ヒカゲさんはシューズをペダルに固定する
「ちょっくらお話ししようぜ、シロウちゃん。これからマダラと会うんだ」
「マダラさんと?」
どうやら、ヒカゲさんとマダラさんの二人は稲城でなにかを相談する予定だったらしい。
僕はたまたまそこに居合わせた形だが、強豪市民レーサーの二人がなにを話すのか気になり、僕は付き合うことにした。
稲城市には緑地が多い。
多摩川流域に広がる市街地を見下ろすことができる公園の東屋で、僕とヒカゲさんは先に着ていたマダラさんと落ち合った。
「深山シロウ、奇遇だな」
僕たちと同じくサイクルジャージ姿のマダラさんが、手をあげて挨拶してきた。マダラさんも自転車でここまで来たらしい。
「たまたまそこでヒカゲさんと会って。お邪魔じゃないですか」
「お前の実力は折り紙つきだ。俺たちにとっても好都合だよ」
レースの時は怖い雰囲気をかもし出しているマダラさんだったが、今の口調は優しかった。オンとオフを使い分けるタイプの人なのだろう。
「それで、マダラさんとヒカゲさんはなんの相談を?」
「それはだな――」
僕の問いかけに、ヒカゲさんが腰を降ろしながら口を開く。空いているベンチをすすめられ、僕たちはコの字で向かい合った。
「――富士山と乗鞍で戦ったニシキたち、『DTA』のこと、シロウちゃんはどう思った?」
言葉の奥に剣呑さを隠しながらの問いかけ。
ヒカゲさんのその問いは、僕もさっきまで走りながら考えていたことだった。
「強かったですね。ちょっとおかしいぐらいに」
「そう、おかしい」
僕の回答にヒカゲさんは深くうなずいた。マダラさんが詳しい解説を続けてくれる。
「薩摩ニシキはKO大学の自転車競技部でアシストをやっていた。派手なパフォーマンスはなかったが、明治神宮外苑の
「そうなんですか」
「在学中も、卒業して社会人になってからも、市民レースで活躍するような選手ではなかった――去年までは。それが今年はあの強さだ」
僕も去年まで市民レースに出ていなかった身ではあるが、マダラさんの話した内容が常識外れなのはよくわかる。
「普通は、少しずつしか強くなれないものですよね」
「普通はな」
マダラさんは肩をすくめてみせた。ヒカゲさんも同感のようだ。
「普通じゃないやり方を使わなきゃ、無名選手三人のチームが乗鞍の表彰台を独占したりはしねえ」
「普通じゃないやり方――」
僕の脳裏に、ニシキがレース中に口にしていたチューブのことが浮かぶ。
道すがら考えていたことを、ヒカゲさんに訊ねてみることにした。
「――
二人は黙って首を縦に振った。
僕はため息をつく。
悲しいことに、自転車競技はプロの世界でもこの種の話に事欠かない。
シドニーオリンピックで金メダルを獲得したヤン・ウルリッヒ。
1998年に『ツール・ド・フランス』と『ジロ・デ・イタリア』を同時に制覇したマルコ・パンターニ。
『ツール・ド・フランス』を七連覇したランス・アームストロング。
こうした伝説的な名選手たちも、その多くが禁止されている運動能力向上薬の使用に手を染めていた過去を持つのが自転車競技だ。
自転車業界は長年をかけて薬物汚染の浄化を進めているが、2020年代に入ってもまだまだ完全にクリーンになったとは言いがたい。
「薬物でパフォーマンスを上げることが、強さに直結する競技だからなぁ」
うつむきながら悲しげにつぶやくヒカゲさん。
これは本当にその通りで、自転車レースで一位と二位の選手の差がコンマ数秒以内ということは珍しくない。ほんのわずかな差で優勝者が決まる競技なのだ。
そこで薬物を用いて、筋肉や心肺能力が数%でも向上したらどうなるか――表彰台の順位など、簡単にひっくり返ってしまう。
努力や才能ではなく、薬物の有無で勝敗が決まってしまうのだ。それは真剣にスポーツをやったことのある人間にとって、とても恐ろしい事実だった。
「検査は」
僕の短い問いかけに、マダラさんが首を横に振る。
「市民レースでは、無い。出場選手の良識に任されているし、アマチュアなら高度な知識が必要なドーピングはしないだろうと思われている」
「ま、頭痛薬とか風邪薬とか、プロが使うと検査にひっかかる市販薬を使ってるやつはいるけどな」
ヒカゲさんの説明は、僕が自転車競技部に所属していたころにオリエンテーションで聞いたことがあった内容だ。
たとえ「うっかり」であってもドーピングをすることがないよう、レースに出る選手には口にするものを厳しく管理する義務がある。
「頭痛薬は筋肉や関節の痛みを抑えるから、成績を上げることができちゃうんですよね」
「ああ、脚の痛みから解放されればレース終盤では間違いなく有利だ――ヒカゲの見立てでは、『DTA』のやつらもそうだな?」
マダラさんはその疑いを早くから抱いていたらしい。ヒカゲさんはベンチの上に行儀悪く両脚を投げ出しながら答えた。
「たぶんな。それも市販薬なんかじゃなく、結構強力な
「あ――僕、見ました。彼らが終盤で、ドリンクとは別に、ソフトフラスクのチューブからなにか補給してたのを」
「そうかい」
驚くまでもない、といった雰囲気で僕の報告を受け流すヒカゲさん。
「あいつらの場合はレース中だけじゃなく、普段の練習から薬物を摂取してるはずだ。そうすれば、地道なトレーニングとは比べ物にならないほど高い練習効果を得ることができる」
「マダラの言うとおりだ。筋肉の増強、心肺能力の向上、酸素運搬能力の強化、そんなこともやったうえでの今年の急成長だろうよ」
沈黙。
なんと言っていいかわからないが、僕は怒りを感じていた。
強い選手と全力を尽くして争って、それで負けるなら仕方がないと思う。自分の努力と才能が足りなかったというだけだ。
だが、薬物を手に入れて使用することができるかどうか――自転車とは関係のない部分で、自転車競技の勝敗が決してしまうことは、どうしたって認められない。
「証拠を探して、検査を受けさせるようにできませんかね」
「いや、『DTA』の連中は薬物の使い方に慣れている。追及されたら、なんだかんだと理由をつけてTUE(健康上の理由による薬物使用特例)を申請したりして、逆にお墨付きを与えることになっちまう可能性もある」
「そんな」
ヒカゲさんが口にしたTUEという制度は、プロの世界でもたびたび問題になっていることだ。
たとえば、ぜんそく持ちの自転車選手がいたとする。競技中にぜんそくの発作が起きるとレースにならないので、事前に医師の診断を受けていればぜんそくの治療薬を摂取することができる、というのがTUEという制度だ。
しかしぜんそくの治療薬は気管支を拡張し、呼吸を容易にする。治療薬を使用した選手は、ぜんそくを患っていない選手より有利になっていないのか? 健康な選手が自分はぜんそくだと偽って治療薬を使用したら?
ドーピングに慣れた選手は、こうした制度すら悪用するかもしれない。ヒカゲさんの懸念はそこにあった。
「告発なんかより、もっといい方法がある」
マダラさんの目がきらりと光った。
「いい方法?」
僕は思わず興味を惹かれた。僕を見据えながら深くうなずくマダラさん。
「俺たちは俺たちのやり方で、
「ええ?」
「薬物を使ってまでレースに出たのに、薬物に頼らないアマチュアレーサーたちにこてんぱんにやっつけられた――そういう思いを味合わせてやればいい。二度と市民レースに出ようとは思わなくなるだろう」
思いもかけない、しかも強気な内容だった。
富士山、乗鞍と連敗を喫した僕たちに、それはとても難しいことのように思えてしまう。
「でも、『DTA』のやつらは」
「ちょっとおかしいくらいに強い、だろ?」
僕の言葉の穂をヒカゲさんが継いだ。口元に笑みを浮かべている。
「たしかに市民レースは個人競技の側面が大きい。薬物まで使って強くなっているやつらを正面から叩き潰すのは容易じゃねえ。だから方針転換をしようぜ、ってマダラと相談しに来たんだよ」
「俺もヒカゲと同じ思いだ。深山シロウ、ここで会ったのもなにかの縁だろう。お前にも協力してほしい」
「協力――?」
いぶかしがる僕に、ヒカゲさんとマダラさんは思いもかけない提案をくり出した。
「チームを組もう」
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