跳躍(バニーホップ)
伊豆、修善寺。
一周約5kmの自転車レースのサーキットコースを持つスポーツ施設を拠点にして泊まり込み、ここから山伏峠や戸田峠など、伊豆地域の各地の峠へ走りに行く。日が暮れるまで自転車で峠を登ったり降りたりして帰ってくる。
有名な観光地である伊豆に来てなにをやっているんだ、と一般の人は思うことだろう。
九月下旬に大学の授業が始まるまで、僕はそんな夏休みを過ごしていた。
土日祝日になると、ヒカゲさんやマダラさんも伊豆までやってきて合流し、チーム練習を行うのが慣例だった。
三人で
そう、チーム練習。僕たちはチームを組んだのだ。
高根ヒカゲ――『ヒルクライム仙人』。
浅木マダラ――『最強市民レーサー』。
この二人が手を組んで戦うというだけで、市民レースに出ている自転車愛好家からすれば興奮ものだろう。
そこに僕、深山シロウが加わる。昨年の学連レースで『超新星スプリンター』と呼ばれながら、休部中の身。正直言って、二人に比べると格落ちの感が否めない。
「そんなことはねーだろーよ」
僕が話したその懸念を、ヒカゲさんは一蹴した。
「学連レースで活躍できるスプリントのパワーがありながら、富士山や乗鞍みたいなガチ山岳レースでも上位に残れるほど坂も登れる。シロウちゃんは自分が思ってるより総合力のある選手だぜ」
ヒカゲさんの評価は面映ゆいものだった。マダラさんも同調してくれた、
「俺はオールラウンダー、ヒカゲはクライマー。お前のスプリントは俺たちのどちらにもない武器だ。チームを組むならこの上ない人材だ」
強豪レーサー、そして現在はチームメイトからかけられる期待。
ずん、と両肩が重くなった気がした。
その日の峠トレーニングはあまりはかどらなかった。
土曜の夕方、西伊豆方面からの帰り道の途中で、僕の調子が上がっていないことを見透かしたヒカゲさんに話しかけられた。
「シロウちゃんはさぁ、なんで部活辞めたの?」
戸田峠から修善寺まで下ってきたあと、市街地に入ってペースを落としてからの直球な質問だった。温泉街の川沿いで自転車を停める。
正直、僕はその質問に答えたくなかったが、練習も終わってまったりとした雰囲気の中ではごまかすのも難しい。僕は少し論点をずらした。
「辞めたわけじゃないです。休部中なだけで」
「んじゃ、なんで休部したのさ」
当然こういう質問が続くことを予想すべきだった。僕は観念して話し始める。
「部の雰囲気が、合わなかったので」
「ほー」
「スプリンターって、駅伝で言うならアンカーじゃないですか。チームが繋いできた優位を守って、最初にゴールに飛び込むことが期待されますよね」
そうだろうな、という感じでうなずいてヒカゲさんは話の続きを促す。
「だからこそ、ひとつのミスも許されないのが苦しいというか。それまでの学連レースでは深山シロウ個人として結果を出してきたのに、よりにもよって、
夕暮れに染まる修善寺の街並みを走りながら、僕は自分の苦い経験を思い出して、ぽつぽつと語り始めた。
僕の大学のチームは、そのレースでとてもいい展開を見せていた。優勝候補だったTK大学のエースが独走を得意とする選手だったので、僕たちはチーム一丸となって敵エースを徹底マークする戦術に出たのだ。
少しでも先頭集団から抜け出そうとする気配があれば、僕のチームメイトがすかさず真後ろについて牽制する。
マークを担当するメンバー以外は先頭集団の前方に展開し、ペースを上げて他のチームの振るい落としにかかる。
メンバー全員がチームのためにできることをする、理想的なチームワークだった。
そのおかげで、レースはゴール前スプリント勝負になった。TK大学のエースと僕の一騎打ちだ。大学一年生にして複数のレースで勝利したことで『超新星スプリンター』と呼ばれていた僕は、そのレースに勝つ自信があった。
(チームはすごくいい働きをしてくれた。あとは僕が一番でゴールするだけだ)
今でもゴール間際の光景を鮮明に覚えている。
ゴールライン前400mからスプリント勝負が始まり、集団からエースクラスの選手が飛び出していく。
僕は冷静に、四番手からスプリントを開始した。200mまでは他の選手の後ろについて、そこから一気に先頭に出るという戦術を考えていたのだ。
ところが、僕のすぐ前を走る選手が、想像よりはるかに早い300m地点で加速をやめてしまった。専門用語で「垂れる」と言われる。僕は垂れる選手の後ろについてしまったことで、十分な加速ができなかった。
その一瞬の隙をつかれて、TK大学のエースが僕の横を駆け抜けていった。急いで後を追ったが、横に並ぶこともできないまま二着ゴール。
チームは表彰台の頂上に立てなかった。
今思い返せば、安全に四番手からスプリントするのではなく、真っ先にスプリントを開始すべきだった。チームメイトが他のチームを消耗させてくれていたおかげで、有力選手たちは疲労していたのだから。僕の脚なら押し切ってゴールできていたはずだった。
「僕の判断ミスが、チームの好走を台無しにしてしまったんです」
ヒカゲさんは黙って聞いていた。
「もともと体育会系の雰囲気が強い部ではありましたけど、インカレでの失敗後、『なにやってんだ深山は』という失望と苛立ちがはっきり伝わってくるようになって――だから、チームのために走ることに疲れて、一人で走りたくなったんです」
「そっか、気持ちはよくわかる」
ドリンクを一口飲んでから、ヒカゲさんは僕に同意してくれた。
「自転車にかぎった話じゃなく、誰かの期待に応えて生きるってのは大変なことだからな。社会に出ると期待を背負わされることばかりでイヤになっちまう」
「ヒカゲの本業は麻酔科医なんだ」
僕たちの会話を横で聞いていたマダラさんが口を挟んだ。社会人としての高根ヒカゲという人物像をまったく知らなかった僕はびっくりしてしまう。
「医師なんですか」
「おうよ。
こんなところでも自転車競技のたとえが出てきたので、僕は思わず笑ってしまった。ヒカゲさんが続ける。
「だから麻酔科医はミスなく完璧な麻酔深度をキープすることが求められる。その割に、オペが成功したらエース執刀医の手柄、ミスがあればアシスト陣のせいって感じなのが病院って場所だ」
「理不尽ですね」
「だろ? でも俺は、エースってのはそれぐらいふてぶてしい方がいいと思うぜ」
「ええ?」
そういう結論になるとは予想できなかったので、僕は困惑した。
意外にも、マダラさんもヒカゲさんの意見に同感のようだった。
「ヨーロッパの自転車レースもそうだな。結果を出せないスランプが続いても、しぶとく走り続けるやつがいつか結果を出すものだ。周囲の声を気にしすぎないほうがいい」
「そういうものですか――」
マダラさんは本場の自転車レースもかなり好きなようで、僕の反応がにぶいのを見てとると、もう一歩踏み込んできた。
「深山はヨーロッパレースは観戦しているか? オンデマンド放送とかで」
「有名なレースぐらいですね」
夏に開催される世界最大の自転車レース『ツール・ド・フランス』はよく見ているが、小さなレースまでは追いかけていない。
「見た方がいい。参考になるところは多いぞ、レース運びとか、スプリンターの姿勢とか。深山はアンドレ・グライペルみたいな筋肉パワーでスプリントをするタイプじゃないから、カレブ・ユアンのスプリントが参考になると思う」
急に早口になるマダラさん。
これまでずっと寡黙な人だったので、そのギャップに驚いた。とりあえずカレブ・ユアンの名前は僕の脳内の「後で見るリスト」に名前を載せておいた。
「ま、要はあんまり気負うなってことだよ。俺たちのチームは大学のチームとは違う、もともと自分のために走るやつらが集まったもんだ」
ヨーロッパ自転車レースについてもっと語りたそうなマダラさんをさえぎって、ヒカゲさんが話をまとめる。
「しょせん、自転車ってのは人間一人しか運べない乗り物なんだからな」
(人間一人しか運べない乗り物――)
ヒカゲさんの表現は、なんだかすごく腑に落ちた。
実業団レースや学連レースではなく、個人競技の側面が強い市民レースを主戦場に選んだ人の言葉だ。誰かを助けるのでもなく、誰かに助けてもらうのでもなく、一人で走ることを前提としている。
「で、チームで走るときも基本は自分のため。そうやって自分のために走ることが結果的にチームのためになる――こともある――って考えた方が気が楽だぜ、シロウちゃん」
「――はい」
僕が考え込みながらうなずいたのを見て、マダラさんが声をかけてきた。
「俺たちは誰か一人が『チームDTA』のやつらに勝てばいい。そのために協力しあうだけで、チームのために貢献しようなどと考えなくていい。固くなるな」
「はい」
その目的は、僕もマダラさんもヒカゲさんも一致している。
期待を背負うことには軽いトラウマがあったが、チームメイトがこう言ってくれるのであれば、頑張れる気がした。
やはり市民レースはいい。市民レースに出てみようと思ってよかった。
僕は立ち上がり、ふたたび自転車のサドルにまたがった。
その時だった。
「『チームDTA』に勝つ、とはな」
僕たち三人の視線が、その声の主に吸い寄せられた。
黒いジャージの自転車乗り。
「薩摩ニシキ!」
「てめえ、なんでここに」
マダラさんとヒカゲさんが食ってかかったが、ニシキは薄ら笑いを浮かべている。
「トレーニングだよ。トレーニング帰りの途中で、大声で騒いでいる自転車乗りの一団がいたから足を止めただけだ。盗み聞きしたかったわけじゃない」
そのまま悠々と歩いてくると、ニシキは自動販売機でペットボトルのミネラルウォーターを購入した。
「トレーニングねえ。新しい禁止薬物でも手に入ったのか?」
ヒカゲさんが挑発する。ニシキはペットボトルを開栓する手を止め、こちらに向き直った。
「面白いことを言うやつだ。禁止薬物とはなんのことだ?」
「とぼけるなよ、見当はついている。たとえば、お前が使っている
ついさっき聞いたばかりの話ではあるが、さすが本業は麻酔科医だけあって、ヒカゲさんは薬物にも詳しいようだ。ドーピングしていない、などと主張することはこれで封じ込められた。
しかし、その指摘にもニシキの鉄仮面は揺るがなかった。
「トラマドールは禁止薬物か?」
「
「UCIでは、そうだな」
激昂するマダラさんをさらりといなすニシキ。
ニシキが言わんとすることが、僕にもわかった。
「日本の市民レースは、UCIの管轄下ではないものがほとんど――」
うめくようにつぶやいた僕に対し、ニシキは自信たっぷりにうなずいてみせた。
「『チームDTA』はそのレースで禁止されているものは摂取していない」
ニシキの嘲笑。マダラさんの顔色が、傍目にもよくわかるほど真っ赤になっている。
「お前たちだって、トレーニング後には
ニシキの語りは筋が通っている――一見、筋が通って見える。
だが、強烈な違和感があった。
「自転車業界で『悪』だとされてるものが、市民レースでは禁止だと明言されていないし、検査も罰則もないから問題ない、なんて屁理屈じゃないですか」
「どこが屁理屈だ。お前は真夜中に人も車も通らない道で、前が赤信号だったら停まるのか?」
「僕は停まりますね」
僕の食い下がりにもニシキは微動だにしない。
「それは律儀なことだな。お前にとっては真夜中の赤信号も『正義』なのかもしれんが、『正義』と『悪』は相対的なものだ。禁止と明示されていない薬物の使用も同じことだ。使いたいやつは使う、縛りプレイ愛好者は使わない、それで良いだろう?」
良くはない。
その思いが僕をつき動かした。
「『正義』と『悪』は相対的なものだって? ふざけるな。ドーピングは絶対悪だ」
激昂しているマダラさんよりも強い調子の言葉が僕から出てきたので、隣にいるヒカゲさんのほうが目を丸くしていた。
対照的に、ニシキは冷静さを維持している。
「絶対悪とは笑わせてくれる」
「悪ですよ。僕たちが『薬物なしで、自分たちの努力と才能で競い合いましょうね』って申し合わせてやっている市民レースの場に、あなたたちは『薬物を使ってなにが悪い』と土足で踏み込んできた。僕たちの
ニシキの表情が消えた。僕はさらに続ける。
「僕は僕の好きな市民レースというテリトリーを守るために、あなたたち
しばしの沈黙。
やがて、ニシキは声を立てずに笑い始めた。
「ご立派な正義の味方さん、せいぜい頑張ってくれ。まあ、富士山でも乗鞍でも見たとおり、お前たちの実力では『チームDTA』の足下にも及ばないだろうがな」
そのまま背を向けると、ニシキは自分の自転車にまたがって去っていった。僕はその後ろ姿をにらみつける。
ふつふつと闘志が湧きたっている僕の肩を、両側からヒカゲさんとマダラさんが叩いてきた。結構な力がこもっていて、痛い。
「カッコよかったぜ、シロウちゃん」
「お前が言っていることは正しい。あいつらは侵略者だ」
この二人に賛同してもらえるのは嬉しい。しかし、その反面、本当に『チームDTA』に勝てるのかという不安も尽きない。
「勝てますかね、薬物なしという『縛りプレイ』で」
僕はあえてニシキが使った表現を踏襲してみせた。
マダラさんがニヤリと笑い、自信ありげにうなずく。
「心配するな。そのために俺たちはチームを組んだ。
あ、有名なロボットアニメのセリフが元ネタだな、と思った。ヨーロッパレースの件といい、案外マダラさんは寡黙に見えて話題が豊富な人かもしれない。
「そんじゃあ、明日も練習がんばりますかね。今日はさっさと休もうぜ」
ヒカゲさんは早く宿に帰りたそうだ。
改めてこの二人とチームを組んで戦う決意を新たにしながら、僕たちは修善寺へと向かう道を下っていった。
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