鎧袖一触(ウォークオーバー)

 将棋の世界は狭いと聞いたことがある。

 プロ棋士になれるような実力者は小学生の頃から頭角を現すので、将棋大会があるたびに同じメンツが決勝戦でぶつかるのだという。

 そうやって年少時代から競い合ってきたライバル同士が、やがてプロ棋士になって名人位を争うので、限られた人数の中で数十年間にわたってライバル関係が続くらしい。


 規模は違うが――自転車ロードレースは将棋ほど競技人口が多くない――自転車レースも似たような傾向がある。

 日本国内の大きな自転車レースはわずかな数しかないので、大会に出れば、だいたい同じ顔ぶれの強豪市民レーサーたちが顔を合わせる。限られたメンバーで一着を競い合うところが、なんとなく将棋と似ている、と僕は思っている。


 毎年八月に開催される、ここ乗鞍岳のヒルクライムレースもそんな大会のひとつだ。長野県と岐阜県にまたがる乗鞍岳の畳平駐車場――標高2,700mまで信州側から駆け上がる。


 性懲りも無く、僕はまた市民レースを走っていた。


「よーぉ、シロウちゃん。富士山では二位おめでとう」


 そして、同じような顔ぶれの強豪市民レーサーと会っている。

 ヒカゲさんは相変わらずレース中でもよく話す人だった。


「おめでたくはなかったです、完敗だったので」

「――まあな」


 苦々しげなヒカゲさんの返答。

 見ると、ただでさえ細身だったヒカゲさんの肉体は、腕も脚も筋肉の陰影がはっきりと見てとれるほどに絞り上げられていた。

 レースに負けて悔しくない自転車乗りはいない。

 ヒルクライムレースでは体重が軽い方が有利だ。このレースで勝つべく、ヒカゲさんはさらなる努力を重ねてきたんだろう。


「同じ轍は踏まねぇよ。乗鞍ここは俺のホームみたいなもんだからな」


 口調の軽さとはうらはらに、固い決意のこもったセリフだった。

 かつてヒカゲさんはこのヒルクライムレースで四年連続優勝という前人未到の大記録を打ち立てたことがある。『ヒルクライム仙人』はその時につけられた異名だった。


「復活宣言ですか。負けませんよ」

「おう、ゴールで待ってるぜ、シロウちゃん」


 ゴールで待っている、は、自分が先にゴールラインを通過する、という意味だ。やはりこの人は自分のヒルクライム能力に圧倒的な自負を持っている。

 事実、もう標高は森林限界(乗鞍岳では2,500m付近)を超えているというのに、ヒカゲさんのペダルの回転は軽やかで息も切れていない。二十人程度の選手が残っている先頭集団の中でも、明らかにまだ余裕がある表情をしている。

 ヒカゲさんをマークしつつ、後ろについていって、ゴール間際のスプリントで勝負する――そんなふうに今日のレースプランを考えていた時だった。

 

「仙人さんはずいぶん細い体をしてるよなあ」


 嘲笑するかのような雰囲気の声が、背後から投げかけられた。

 僕とヒカゲさんは驚いて同時に振り返る。

 そこに居たのは、筋骨隆々という言葉がピッタリくるような大柄の若い選手だった。見覚えのある真っ黒なジャージを着ている。

 

「このレースに勝つために、必死に減量してきたって雰囲気がありありだな。涙ぐましい努力だぜ」


 ブルーの偏光レンズが入ったサングラスをかけているので表情が読みづらいが、大柄な男は口元に嫌らしい笑みを浮かべていた。

 ヒカゲさんの目がスッと細くなり、冷たく返す。


「そりゃご心配どうも。余計な筋肉っていう荷物を背負って山に登るほど、酔狂なことをする趣味はないんでね」

「あっはっはっは!」


 男はハンドルに体重を預けて、上腕三頭筋を震わせながら笑った。


「『余計な筋肉』だって――仙人さん、あんた本当にひと昔前の人間なんだな」

「なんだと?」


 明確な挑発を受けて、ヒカゲさんの口調が険悪なものに変わる。男はニヤニヤと笑いながら続けた。


「ヒルクライムでは体重が軽い方が有利――そんな古臭い考えじゃ現代レースは走れないぜ。大事なのは『体重と筋肉の出力比パワーウェイトレシオ』だ」


 力強く踏み込むトルク型のペダリングをしながら、誇るように自分の筋肉を膨らませている。


「筋肉はパワーの源だ! 減量することでヒルクライムに必要なパワーまで減らしてしまうのは愚策なんだよ。体重の増加分を補って余りあるパワーがあるなら、筋肉の多い方が有利ってことだ。俺はこのパワーで頂上テッペンを獲る」

「ずいぶんなビッグマウスだ。デカいのは図体だけにしておけ」


 聞き覚えのある声が会話に割って入ってきた。

 そちらの方向を見る――『最強市民レーサー』こと浅木マダラさんだった。


「パワーウェイトレシオ程度の理論は誰でも知っている。ヒカゲはそれを踏まえて自分の最適な体重でレースに挑んでいる」


 マダラさんは少しずつペダルの回転数を上げながら、僕の横に並んできた。この人も富士山の時から体重を絞ってきているようで、今日のレースにかける意気込みが感じられた。


「お前が俺をフォローするなんて珍しいな、マダラ」

「フォローはしていない。生意気な小僧をたしなめただけだ」


 二人の会話には、ライバル同士として長年レースで顔を合わせ続けてきたことによる一種の信頼感が滲んでいた。

 学連レースでそういったライバル関係を築かなかった僕からすると、少し羨ましく感じる。


「はーぁ、オッサンたちの会話にはついていけねえなあ」


 男は大袈裟にため息をついている。


「時代遅れのオッサンたちには、御退場ロール・オーバーいただこうか。自己紹介が遅れたが、俺は『チームDTA』の紅下ベニシタカズト。後であんたたちのジャージにサインしてやるよ」


 カズト、というその男が口にしたチーム名が、僕の脳裏をくすぐった。

 DTA――その三文字は、あの富士山のレースで優勝したニシキという選手が着ていたジャージに書かれていたものだ。


「震えて見やがれ」


 僕の驚きをよそに、そう呟き捨てると、カズトは加速アタックを開始した。まるで大きな岩が重力に逆らって坂を転がり上がっていくような、そんな雰囲気をまとうアタックだった。

 先頭集団からぐんぐんと差をつけて先行していく背中に、白抜きで書かれた『DTA』の三文字が光って見える。


「オイオイ、まだゴールまで3km以上あるぞ、タイミングが早すぎんだろ」


 ヒルクライムレース巧者のヒカゲさんにとってもこのアタックは予想外だったようで、あっけに取られた顔をしている。


「あんなペースではゴールまでもたないだろう。放っておけ」


 マダラさんも、カズトのアタックは無謀だと考えているようだった。先頭集団にいる選手のほとんどは同意見らしく、カズトを追走する選手は現れなかった。

 しかし、僕は二人の後ろでペースを保ちながら、嫌な予感が胸の中で大きく成長してくるのを感じていた。


(先行した選手がそのまま力で押し切る展開――)


 数ヶ月前に富士山のレースで経験した展開。

 その時の勝者と同じチームジャージを着ている選手。


「のんきにカズトのアタックを見送ってよかったのか?」


 僕の嫌な予感が当たった。

 その声は、富士山のレースで優勝した薩摩ニシキのものだった。いつの間にか僕のすぐ斜め後ろに位置取っていた。


「なんだニシキ、あの筋肉ダルマはお前のチームメイトかよ」


 ヒカゲさんが敵意のこもった視線をニシキに向けた。


「ただのペースメーカーだ」


 ニシキは無愛想に答える。

 ペースメーカー、とは聞き捨てならない言葉だった。互いに協力しながら勝利を目指すチームメイトではなく、他のチームメンバーの参考になる一定のペースでレースを走るだけの存在だ、とニシキは宣言している。ヒカゲさんもその発言には眉をひそめていた。


「ペースメーカーだあ? ずいぶん先に行っちまってるぜ」

「これから追いつく。俺と、もう一人の『チームDTA』――白筋シロスジトモエでな」


 あごをしゃくってニシキが示した先には、真っ黒なジャージに身を包んだ選手がもう一人。


「どうも――」


 トモエというその選手は、カズトとは対照的に小柄で細い体つきをしていた。いかにもヒルクライマーといった雰囲気がある。ニシキやカズトよりも少し歳上らしい男性だった。


「――今日の表彰台は《ポディウム》は『チームDTA』が貰います。一位ニシキ、二位が私トモエ、三位はカズトです」

「ビッグマウスばかり揃ったチームだ」


 淡々と勝利宣言をするトモエに、マダラさんは苛立ちを隠さなかった。『チームDTA』の二人はそれをまったく意に介していない。


「富士山で実力は見ただろう?」


 軽く首をかしげてみせるニシキ。


「こんな市民レース程度、俺たちには軽いものだ」

「市民レース『程度』だと?」


 マダラさんは怒りを発した。市民レースに勝つためにストイックな生活を続けている『最強市民レーサー』に対してこれ以上の侮辱はないだろう。


「『程度』だよ。証明してみせよう」


 すっ、とペースを上げるニシキ。

 周囲にいた僕たち以外の選手は、ニシキがアタックをかけたことに気づかなかった。

 ニシキは学連レース経験者だとヒカゲさんが言っていたが、この動作を見てもそれは感じられた。他の選手に警戒されにくい自然なアタックのやり方を身につけている。

 トモエがそれに続き、『チームDTA』の二人が先頭集団から抜け出す形になった。


(さすがにこれはまずい)


 これは無謀なアタックなどではなく、自信に裏付けされた三人チームの連携アタックだ。追いかけないと、トモエの勝利宣言どおりに表彰台が独占される可能性がある。

 僕はヒカゲさんとマダラさんの反応を待たず、追走体制に入った。


「ちっ」


 ヒカゲさんの舌打ちが後ろから聞こえた。

 このアタックと僕の追走で先頭集団が活性化したらしい。ヒカゲさんやマダラさんを含む何人かの選手が飛び出し、ペースアップについていけない選手が後ろに取り残されていく。


 僕の眼前には乗鞍岳の雄大な光景が広がっていた。

 九十九折りのカーブを過ぎてさらに標高を上げていくと、この真夏にも残る大雪渓が見えてくる。夏でもスキーができるということで観光客も多く、レースでなければのんびりと景色を楽しみながら走りたいところだ。


(それにしてもペースが速い)


 だんだん息があがってくる。まるでゴール前最終直線のようなハイペースで、『チームDTA』の二人は乗鞍岳を登っていく。

 懸命にペダルを漕いでニシキとトモエの二人に追いついたが、先行した筋肉男のカズトの姿はまだ見えなかった。


「無理すんなよシロウちゃん、あんたはゴール前スプリント勝負がしたいんだろ」


 息を整えていると、左隣にヒカゲさんが並びかけてきた。このペースはヒカゲさんにも楽ではないようで、息が荒くなっている。

 そのすぐ後ろにマダラさんも続いていた。


「あのチームの化けの皮をはがしてやる」


 マダラさんはまだ怒りがおさまっていない様子で、僕とヒカゲさんを追い抜くとさらにペースを上げた。

 ダンシングで前との差を詰めていくマダラさんの姿は、頼りになる――と同時に、少し不安になった。冷静さを欠いている。

 そのまま『チームDTA』の二人を抜いたところで、トモエが細い首でうなずいてみせた。


「私が行きます」


 トモエの言葉に、ニシキもうなずきを返す。

 それを確認してから、トモエはジャージのバックポケットからソフトフラスクのチューブを取り出した――あのチューブだ!

 のどを鳴らして中身を飲み干すと、トモエがマダラさんを追った。ニシキがそれに続く。


(速い!)


 僕は思わず舌を巻いた。

 サドルに腰を下ろしたままで、ペダルの回転数を上げて加速するスタイル。これまでもハイペースだったのに、さらにもう一段階スピードが上がっていく。


「なんだと」


 ダンシングで前を進むマダラさんが驚愕して振り返った。

 瞬時にトモエに追いつかれている。

 その行動の一瞬の隙をついて、トモエが前に出た。マダラさんを置き去りにしてトモエとニシキの二人がゴールへひた走る。マダラさんが追うが、差は開いていくばかりだ。


「くそっ、こんな距離だが行くしかねえか!」


 マダラさんの苦戦を見てとって、『ヒルクライム仙人』のヒカゲさんが飛び出した。

 これにも僕は不安を感じた――ヒカゲさんは凄まじい持久力の持ち主だが、富士山のゴールスプリントで最初に脱落したように、瞬発力を長時間発揮できないタイプだ。


(ヒカゲさんは、そのペースではゴールまでもたない――)


 持ち前の軽やかなペダリングで追い上げていき、ヒカゲさんは遅れ始めたマダラさんをかわして『チームDTA』に追いついた。

 その瞬間、また『チームDTA』の二人が加速した。

 ヒカゲさんが歯を食いしばっているが、届かない。

 みるみるうちに選手間の距離が開いていった。ヒカゲさんのパワーが底を尽いたのだ。


(駄目だ)


 僕の心臓も限界だった。

 スプリンターがこのレースで勝つためには、先頭を行く選手の後ろにピッタリついていく必要がある。『チームDTA』の面々とこんなに差がついてしまっては、ゴール前で相手をかわして抜き去ることは不可能だ。

 僕も脚が止まる。


 絶望のまま時間が過ぎていく。

 乗鞍の美しい光景の中、僕たちは黒いジャージの三人が先頭を駆けていく姿を見守ることしかできなかった。


 ゴール地点で僕たちを待っていたのは、トモエの予告どおり『チームDTA』が表彰台を独占したという一報だった。

 三位、紅下カズト。

 二位、白筋ヒトリ。

 優勝、薩摩ニシキ。

 富士山のレースに続いて国内の主要なヒルクライムレースを二連覇したニシキの名前は、市民レース愛好者たちの間に一気に広まっていった。

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